第40話
またここに来てしまった。
『ヒュラースの丘』の濃い霧が校舎をも飲み込もうと、勢力的に広がっている。
彼が向かう場所なんてここしかない。さくりと草を踏んで丘を登る。
この丘を下りたら、その先に待っているのは深い崖だ。足下には充分注意して行かねばならない。
私は気を引き締めて霧の中を歩いた。
平地を慎重に進んでいると、どこからともなくすすり泣く声が聞こえてくる。
「アンリ?」
呼びかけながら、そんなはずはないかと思う。
比喩的な表現ではなく、彼は泣いたりしない。泣き真似程度ならするかもしれないが。
そう考えながら先に進んでいると、霧の中にぼんやりと影のようなものが見えてきた。
どうやら蹲っているようだ。
「そこにいるのは誰ですか?」
私の声にハッと顔を上げたのは、パブロだった。
家の裏にいないと思ったら、こんな所に……
「どうして君がここに?」
「リオが……リオが!」
パニックに陥っているのか、パブロは一向に詳しい情報を話してくれない。
どうやら、アンリがパブロをここに連れてきたようだ。
彼はリオネルの体をアンリが乗っ取っていることを知らないのだ。少しおかしいと感じても、何の疑いもなく付いて来てしまうだろう。
2人は友人なのだから。
辺りを見回して、他に人影がないか確認する。と、言ってもこの霧だ。
さっきよりは薄くなってきたような気はするが、やはり視界は利かない。
蹲るパブロの背中に手を置いて、彼を落ち着ける。
「リオネルはどこに行ったのですか?」
「わからない……どこにも行かないって言ったのに……消えて」
アンリは平気で嘘をつく。
初めて会う人間にも、数年来の友人でも、それは変わらない。
昔から、彼には人の幸せを壊そうとするところがあった。
それは妬みなどという感情からくるものではなく、そうすることが使命のような、そうする運命に生まれついたのだというような、彼にとってごく当たり前の衝動のようだった。
ガブリエレとパブロが幸せそうに暮らしているのを見て、彼にも何かしら思うところがあったのだろう。
彼はガブリエレを酷く毛嫌いしていたから。
ガブリエレにしても、アンリのことを快くは思っていなかっただろう。
それでも、何かと言えば3人でつるんでいた。
思えば、不思議なことだ。私達3人を繋いでいたものは何だったのだろう。
「キルヒナー……ごめん、オレ。リオを、リオを止められなかった」
喘ぐようにパブロは言う。
「大丈夫ですよ、パブロはここにいてください。私がリオネルを探してきます」
そう告げて歩き出す。
ふと、リオネルは本当に、ここにいるのだろうかと考える。アンリが蘇ったことで、リオの意識はどうなっているのだろうか。
彼の魂は……ぶるりと一つ大きく震え、竦みそうになる足に拳で喝を入れる。
ジリジリと進んで行くと、じゃりっという音と共に、踏み出した足の先に地面を感じなくなった。
咄嗟に後ろに飛びのく。
ごうと風が吹いて、霧が束の間、視界から消えると、晴れ渡った青空の一部が見えた。
下に目を向けると、底なしにも見える断崖があった。底は霧に覆われていて判然としない。
「あぁ、やっと来たぁ」
のんびりとした声がして辺りを見回すと、2つの人影が見えた。
ちょうど、私の右側に1人と、左側に1人。どちらも私から1メートルほど離れた位置にいる。
さっと風が吹き、また霧が晴れる。
右の人影も、左の人影も同じ姿、同じ格好をしていた。
右に顔を向け、問うてみる。
「アンリ?」
【右の彼】は顔を俯かせる。
リオネルなのだろうか?
込み上げる想いを押さえて、今度は左を向く。
「あなたがアンリですか?」
問いかけると【左の彼】も顔を俯かせた。
その時、上からとも、下からとも、どこからとも検討がつかないところから声が聞こえてきた。
『さあ、キルヒナー、選ぶんだ。右と左、どちらが君の愛するリオかな? 選ばれなかった方はここから飛び降りるんだから、ちゃあんと考えて選ぶんだよ』
私は素早く左右に目を動かす。
【右の彼】も【左の彼】も、私を感情の篭らない瞳で見つめている。
「本当に、どちらかがリオネルなのですか?」
『そうだよ。そうじゃなきゃ面白くないでしょ?』
彼は嘘つきだが、その根本は楽しいか楽しくないかだ。きっと本当にどちらかがリオネルなのだろう。
2人とも寸分違わず、ガブリエレの家を出て行った時と同じ格好をしている。
右に1歩を踏み出せば【左の彼】が「キルヒナー、そっちに行っちゃ駄目だ!」とリオネルの声で訴えかける。
では……と、左に歩き出せば【右の彼】が「そっちじゃないよ。キルヒナー、わからないの?」と切なげなリオネルの声を出す。
どちらかがリオネルなのに、どちらも私を惑わそうと画策するアンリに見えてしまう。
どちらがリオネルなのだろう。
どちらが……右に左に視線を彷徨わせ、疑心が湧き上がる思考に悶えていると、また声が聞こえてくる。
『どっちかわからないんだね。そんなことで君はリオを愛してるって言えるのかな? 可哀想なリオ。キルヒナーはきっと自分を愛してくれてるって信じてたのに』
「「やめてよ!」」
【右の彼】と【左の彼】が声を揃えて叫ぶ。
【右の彼】は硬直したように立ち尽くし、体の横で拳を握り締めている。
【左の彼】は手で耳を塞ぐようにして、その場にしゃがみ込んだ。
リオネルはこんな時、どうするのだろう。
意外と臆病な性格をしているから、耳を塞ごうとするかもしれない。
そう考えると、拳を握り締める姿は勝気なアンリが取りそうなポーズに思えてくる。
私は左に足を進める。
「キルヒナー……」
【左の彼】が目にいっぱい涙を溜めて、私を見つめる。耳に当てた手を外し、誘うように私の方に差し伸ばす。
その動作に足が止まる。
リオネルはこんな風に手を伸ばしてくるだろうか。
疑心が胸に渦巻く。
『ねえ、どうしてそんなに迷ってるの? どうして愛した人がわからないの? ねえ、どうして? どうして? どうして? どうして? どうして? どうして? どうし――』
「うるさい!」
堪らず私は叫んでいた。眼鏡を外し、目を擦る。落ち着かなければ。
『キルヒナーは、本当は僕のこともリオのことも愛してないんだ。だから選べない。キルヒナーは僕のことを残酷な人間だと思ってるでしょう? 天使のような顔をして、悪魔のようなことをする……だけど、ねえ、考えてもみてよ。いくら恋焦がれていたからって、死んだ人間のクローンを作って、それを知らせないまま、自分のパートナーに選ぶって、どうなの? 残酷なのはキルヒナーの方じゃない?』
四方八方から責め立てるように声が響く。
その声は辺りを取り巻く霧の1粒1粒から発せられているようでいて、私の頭の中にだけしか聞こえていないようでもあった。
『君はさ、僕の容姿が好きなんだって、ずっと前から気付いてたよ。僕の性格が悪かろうが、何だろうが、気にならないだけ。それほど、僕の容姿は優れているのかと思ってた。けど、君、嫌気がさしていたんだろう? 僕の言動に。だから、僕のクローンを作る時、少し、弄ったんじゃない? 決して悪魔の子が生まれて来ない様に、混ぜるか、省くか、とにかく何かを僕の遺伝子に施した。そうして、出来上がったのが、君の愛する容姿を持ち、君の望んだ通りの性格を持つ、可愛い可愛いリオネルくん。違うかな? だって、リオの性質はあまりにも僕と違いすぎる』
「私はそんなことはしていません」
『私は、ね』
顔のない声なのに、その主が目を細くして、口の端をつり上げて笑っているのが気配でわかった。
アンリの遺伝子を弄ったなんて、そんなものは根も葉もない言いがかりだ。
私は、彼の遺伝子をそのまま使用したのだから。
まだアンリの元となった遺伝子が廃棄される前だったにも関わらず、私の手に残された彼の髪の毛から抽出した遺伝子を使うという、執拗なまでの念を入れて。
なぜ、そうしたか、
それは私が、彼の容姿だけを愛していたからではない。
私が彼の邪悪な心までも愛していたからだ!
彼が私に与えてくれる、死を予感させるような言動をも愛していたからだ!
呼吸が荒くなり、手から眼鏡が滑り落ちる。私は膝から崩れるように地面に四つん這いになるように伏した。
そうだ。
私はあの時、超常現象や霊的な力にさえ頼る思いで、完璧に以前のままの彼を取り戻そうとしていた。
ふと目を上げると【左の彼】が視界に入った。
眼鏡がないせいでよく見えないが、しゃがみ込んだ姿勢のまま膝に肘をついて、顎を支えるようにして、私を観察しているようだった。
傍らに転がっている眼鏡を拾い上げ、かけ直す。
そうして、眼鏡をかけ直し、四つん這いになったまま、右に目を向ける。
そこには呆然と立ち尽くしているリオネルがいた。
左に目を戻せば、冷たい目で私を見下すように見ているアンリの顔がある。
彼は顎に手を当てたまま、こてんと首を傾げた。
ばちりと視線が合うと、彼は三日月のような美しい弧を口元に描いた。
その瞬間、尻尾を振って喜ぶ犬のように私はアンリに向かって駆け出していた。
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