第38話

 日曜日の校舎に人の気配はなく、辺りは静寂に包まれていた。


「本当に行くのか?」


 ここに来て、何度目かの質問をすると、リオはその質問にはもう飽きたというようにそっぽを向いて歩き始めた。

 オレたちは校舎の脇にいて、霧深い『ヒュラースの丘』に入ろうとしているところだった。今日の霧はやけに濃く、校舎にまでその触手を伸ばそうとしている。

 既に歩き始めているリオの姿が霞んで見えた。


「待てよ」


 慌てて、小走りでリオの隣に並ぶ。オレより少し背の低いリオを、歩きながら横目で見る。

 1年前までは同じくらいの背丈だったのに、今はオレの方がいくらか高い。ガブリエレに強制的に手伝わされる畑仕事のお陰か、体もがっしりしてきたし、これから、まだまだ伸びる予定だ。


「パブロはさぁ、何でガブリエレと婚約したの?」


 突然の話題に言葉が継げず、黙ってしまう。「えーっと」と言いながら息を吸うと、水分の多い空気に咽てしまった。

 リオがけらけらと笑う。


「何焦ってんのさ。ねえ、教えてよ」


 リオは空色の瞳を細め、オレを見る。口元は三日月のような弧を描いて笑っている。


「別に、いいだろ、そんなことどうだって」


「どうでもよくないよ。だって、パブロは僕が好きなんでしょ?」


 思わず足を止めると、リオも2、3歩先で足を止めた。くるりと振り返り両手を後ろで組んで、首を傾げる。

 こんなに奔放に振舞うリオを、オレは初めて見た。


「どうして、そう思うんだ」


 たぶん、オレの顔は青褪めているのだと思う。それを丘の濃い霧が隠してくれていることを願う。


「どうしてって、見てればわかるよ」


 リオは楽しげに歌うように話していたが、ふっとその顔に影が差す。


「君ってば、青すぎて……僕はちょっと見てらんなかったけどね」


 自嘲するような呟きの意味は、オレにはわからなかった。キルヒナーと何かあったのだろうか。いや、何もなければ、今、こんな所にオレといる訳がない。


 朝早くにキルヒナーに負ぶわれてきたリオが目覚めた時、1番にキルヒナーのことを口にし、すぐに会いたがった。キルヒナーのことしか見えていないようなリオを見ているのが辛くて、オレは口実を作って外に出た。

 それが、暫くして、突然、家から出てきたと思ったら、有無を言わさず引っ張って行かれて電車に放り込まれた。

 オレがいなかった間に、キルヒナーとの間に何かが起こったのだ。それは、予てからリオが心配していた婚約破棄の話かもしれないし、ただ、夜中に家を抜け出したことを叱られただけかもしれない。

 リオは少し大げさに考えすぎるところがあるから……


「キルヒナーと何かあったのか?」


「気になるよね、僕のことが好きなんだから」


 挑戦的な目をしてリオはオレを見る。からかってるのか?


「ふざけてないで、帰ろうぜ。素直に謝ればキルヒナーも……」


「煩いな! キルヒナーのことは今、関係ないだろ!」


 ヒステリックにリオが叫ぶ。乱暴な言葉を霧が吸い込み、その色を更に濃くしたように感じた。握り締められたリオの拳が震えている。虚勢を張るように仁王立ちした姿が痛々しい。


「関係なくないだろ……お前は、キルヒナーと婚約してるんだから」


 オレがいくら想おうと、それは叶わない願いなのだ。所詮、オレもリオも選ばれる側で、2人の人生は平行線、決して交わることがないのだから。


「君なら一緒に来てくれると思ったんだけど……僕の勘違いだったかな」


 突風が吹き、霧が視界を遮った。渦を巻くように霧が回り、リオの姿が掻き消えた。


「リオ!」


 慌てて呼びかけるが返事はない。


「リオ! リオ!」


 風が止み、霧の動きは落ち着いた。それでもリオの姿は見当たらない。草を踏む足音さえ聞こえてこない。

 途端に1年前のアントンが消えた日を思い出す。あの日、アントンじゃなくてリオが消えていたら……そう考えて震えた夜を思い出す。


 それが今、現実になろうとしていた。足から力が抜けてその場に座り込んでしまう。


「やめて……やめてくれ……リオを連れて行かないでくれ」


 霧の壁に阻まれて、声はどこにも届かない。


「リオがいなくなったら生きていけない……愛してるんだ、一緒にはなれなくても、友だちとして傍にいられるだけで充分なんだ」


 学園に入学する少し前、初めて寮でリオと会った時から、密かに心の内で大切に育ててきた想いを吐露する。


 お願いだ、リオはオレの全てなんだ。丘の悪霊でも、霧の神様でも、何でもいい。リオを返してくれ!


「リオ……リオ」


 蹲って祈っていると乾いた音がした。足音のようだった。次いで声が聞こえる。


「愛してるのに、一緒にいられるだけでいいなんて……それって本当に愛なのかな?」


 人を馬鹿にするような冷たい無慈悲な声。だが、それは紛れもないリオの声だった。


「リオ! どこにいるんだ!」


 膝立ちになって辺りを見回す。まだ足に力が入らない。目に入るのは霧ばかりで、人影は見当たらない。


「ていうか、君。ガブリエレと婚約してるよね? それでリオを愛してるなんて、よく言えたもんだね」


「違う、違うんだ、リオ。確かにガブリエレと婚約したけど、オレもガブリエレも愛してる人は別にいるんだ! 2人とも、叶わない恋をしていた。だからこそ、惹かれあったのかもしれない……でも、ガブリエレに対する想いと、リオへの想いは全く別物なんだ!」


 リオの返事はない。静寂が怖くてオレは話続ける。


「リオ、いるんだろ? 出てきてくれ」


 かさかさと足音がする。確かにリオが傍にいることに安堵する。


「ガブリエレ……まだ諦めてないんだ」


 驚きを含んだ嬉々とした声が近くで聞こえる。くすくすと笑う声が聞こえて、後ろに目を向けようとした所で、背中に何かがのしかかってきた。思わず前に倒れこみそうになるが、手を着いて堪える。

 耳元に熱い吐息が掛かって、林檎の香りがした。首を捻って確認すると、首に腕を絡めてリオが抱きついているのだった。首に回されたリオの腕を掴んで、ほっと息を吐き出す。


「リオ……良かった」


「泣いてるの?」


 ぐずぐずと鼻を啜っているオレに気付いて、リオが無感動な声で呟く。


「ねえ、手を離してくれない? じゃないと、服に鼻水をつけられそうだ」


「離したらまたどっか行くだろ。それにこれはオレが貸した服だ、鼻水がつくのくらい気にしない」


 耳元で溜息をつく音が聞こえる。リオの吐いた息がうなじをくすぐる。くすぐったくて笑ってしまいそうになるけど、堪える。


「確かに借りたけど、着てるのは僕だよ。僕は気になるなぁ。どこにも行かないから離してよ」


 明るく言うが、いまいち信用できない。


「本当にどこにも行かないか?」


「行かないよ」


「本当に?」


「本当だよ」


「本当に本当?」


 なんだか既視感のあるやり取りだ。


「本当に本当だよ」


「本当に本当に本当?」


 しつこいオレにリオが叫ぶ。


「本当だったら! もう!」


 その声に少しの笑みが添えられている。掴んでいた腕を解放すると、リオはオレの背から退いた。体が軽くなる。足にも力が戻ってきた。涙はもう止まっている。

 立ち上がり、リオの方を向き、笑いかける。


「前にも同じようなやり取りをしたよな……もうずいぶん昔のことに思える」


 オレの言葉にリオは少し微笑んだ。口の端を吊り上げる笑い方ではない、いつものリオの笑顔だ。


「あの時も、オレ、言ったはずだぞ。お前がいなくなったら、オレは生きていけないって」


「大げさだな、パブロは」


 あの時と同じようにリオは笑って言う。オレは続ける。あの時と同じように。


「お前がいなくなったら、誰が風呂上りのオレの髪を拭いてくれるんだ」


「それは自分で拭きなよ」


「お前がいなくなったら、畑で育ててる苺、誰と食べればいいんだよ」


 リオは答えない。ふっと笑みを漏らし、オレの頬を拭った。気付かないうちに、また涙が出ていたらしい。オレの涙腺は少し壊れてしまったようだ。


「パブロ……それは僕とじゃないみたい」


 霧が割れ、陽の光が紗に差す。幻想的な光景の中でリオは、いつか図書室で見た本の中の天使のように微笑んでいた。オレはリオがこんなにも慈愛に満ちた顔で笑うのを初めて見た。


「行くなよ、リオ」


 触れようと伸ばした手が空を切り、リオの体が霧の中に溶けていく。


「どこにも行かないって言ったじゃないか!」


 叫び声も虚しく、リオの姿は跡形もなく消えていた。オレは呆然と霧の中に立ち尽くすしかなかった。

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