第36話

 林檎の甘い香りに、ゆっくりと脳が覚醒していく。

 目を開くと、耳元で囁くような声がした。


「あ、起きた」


 うつ伏せのおかしな姿勢で寝ていたため、首が酷く痛む。

 こりこりと首を鳴らしながら起き上がると、寝顔を覗き込んでいたのか、ソファのすぐ前で膝を抱えて座り込んでいたリオネルと目が合った。

 いつもと変わらない、朗らかな顔をして、リオネルは私を見上げている。


「大丈夫、なんですか?」


 私が問うと、リオネルは『何が?』というように小首を傾げた。

 その仕草がなんとも愛らしい。

 少し大きめシャツと、ベルトでウエストを絞ったズボンを着たリオネルは、テーブルの上に置かれていた服を私に差し出した。


「これ、ガブリエレの服。着替えなさいって」


 言われて自分の体を見下ろす。ガウンを羽織ったパジャマ姿だ。

 なるほど、これでは帰れない。有り難く拝借する。

 パジャマを脱いで半裸になる。


「その服は?」


 私は目でリオネルの体に合っていない服を指した。


「パブロのだよ」


「そのパブロはどこにいるのでしょう? 貴方を見ているように頼んだのですが」


 リオネルと仲が良いと聞いていたので、しっかり見てくれると思っていたのに、随分いい加減なものだ。

 目を覚ませば、またどこぞにふらりと出て行ってしまうかもしれないという私の心配を余所に、リオネルはけろりとした様子で答える。


「家の裏の畑にいるよ。育ててる……なんだっけ、あ、そうそう、苺だ。それが気になるみたい。僕はもう大丈夫だよって言ったら、畑を見てくるって行っちゃった」


「そうですか」


 パジャマから黒い長袖Tシャツと綿パンに着替えを済ませる。リオネルのもそうだが、私の借りた服も、些か大きいようだ。袖も裾も余ってしまっている。

 苦笑しながらそれらを折っていると、リオネルが私に眼鏡を差し出した。

 礼を言い、それを受け取ってかけると世界はよりクリアに映し出された。


「いつから眼鏡をかけるようになったの?」


 突然訊かれて、私は記憶を引き出すように首を傾げた。

 あれは確か……


「今の仕事に就いて、暫くしてからですかね。書類仕事が多いので、そのせいでしょう」


 ふーん、とリオネルは嬉しそうに目を細めた。

 穏やかな空気に、ほっと一息つく。


 リオネルは立ち上がってキッチンに向かった。


「紅茶飲む? パブロが淹れていってくれたんだけど、まだ温かいと思うよ」


 返事をしないうちに、花柄のティーコージーを被せたポットとカップを載せたお盆を持ってきた。

 リオネルはカップにたっぷりと紅茶を注いでくれる。白い湯気が立ち、強い林檎の香りが鼻腔をくすぐった。

 さっきの香りはこれかと、目覚めた時のことを思い出す。


「砂糖は2つだよね」


「いえ、1つでいいですよ」


「そうだっけ?」


 リオネルはきょとんとした無防備な顔を見せてから、砂糖を1つ、ぽちょんと紅茶の中に落とした。

 スプーンでくるくると混ぜて、カップを私に差し出す。

 至れり尽くせりだ。いつもは私が彼の世話を焼いているので、少し、くすぐったく感じる。


「ありがとうございます」


 ほのかな甘みの温かい紅茶が喉を通ると、寝違えた首の痛みも和らいでいくように思えた。

 いつもコーヒーばかり飲んでいるが、たまには紅茶もいいものだ。

 コーヒー党の私と違いガブリエレは紅茶党だった。この茶葉も良いものなのだろう。


 時刻は午前11時を少し過ぎたところだ。

 ガブリエレの家に着いたのは8時くらいだったので、思ったよりも寝ていない。

 走り回ったので気だるさはあるが、脳に疲労は感じなかった。


 暫く紅茶で体を温めていると、私の隣で膝を抱えて座っていたリオネルが口を開いた。


「キルヒナー、僕に話があるんでしょう?」


 口に含んでいた紅茶を噴き出しそうになって、慌てて飲み込んだ。

 少し咽ながら、ガブリエレから何か伝え聞いたのかと訝る。


「僕も話さなきゃいけないことがあるんだ」


 いつになく真剣な面持ちでリオネルは言う。


「実は、ヒュラースの丘に行ったのは、これが初めてじゃないんだ。1年くらい前、僕のクラスメイトが消えたのを覚えてる? あの時、僕たちは立ち入り禁止の丘に行って……」


「わかっています、わかっていました。貴方があの丘に行ってしまう理由、それは私のせいなんです」


 私はカップを置いて、きちんとリオネルに向き合う。

 リオネルも抱えていた膝を離して、きちんと座り直した。


「学生の頃、私には想いを寄せている相手がいました……彼の名はアンリと言います。クラスメイトでした。彼はいつも退屈していて、危険な遊びも多くしました。信じられないかもしれませんが、私も彼に付き合って悪いことをたくさんしたんですよ。その彼がある時、『ヒュラースの丘』の噂に目をつけて、私とガブリエレを伴って、丘に立ち入りました。その結果、彼は……アンリはいなくなってしまいました」


 私の告白をリオネルは黙って聞いていた。

 膝の上に揃えられた、リオネルの小さな手をそっと握る。


「学園の授業で習ったかと思いますが、自然生殖が絶えた現在、人類の生殖はクローン技術に頼っています。アンリを失った私は日々を茫々と過ごしていましたが、当時の私の保護者であり、今は上司となっている町長に、私はあるお願いをしました。それはアンリのクローンを作って欲しいというものでした」


 リオネルは憚るように目を伏せていた。

 それでも私は続けなければならない。


「私が町長に頼んで、産まれたクローン……それが、リオネル。貴方なのです」


 リオネルの目はまだ伏せられている。

 彼がぽつりと疑問を口にする。


「僕がアンリのクローンだとして、どうして、それがヒュラースの丘と繋がるの」


「あの丘で消えた者に使われた遺伝子は、本来、破棄されることが決まっているのです。それは、丘で消えた者の遺伝子を持つ者が、再びあの丘を訪れ消えてしまうということが高確率で起こるからだと聞いています。町長はそれを『遺伝子が呼び合う』のだと言っていました」


「遺伝子が、呼び合う」


 私の言葉をリオネルはゆっくりと反芻した。

 透き通るような空色の瞳がきらりと瞬き、私を見た。


「また、僕が消えてしまうかもしれないのに、僕を作ったの?」


 曇りのない彼の大きな瞳に見つめられて、私は戸惑う。


 そう……また失ってしまうかもしれないのに、アンリのクローンを作った。

 それは私の罪だ。


「遺伝子が呼び合うなどと、非科学的なことを私は信じていませんでした……ですが、貴方を失わないために、私は出来るだけ貴方が『ヒュラースの丘』に興味を示さないよう務めていました。貴方が丘に侵入したことを知っても、そのことを問い詰めるようなこともしませんでした。この年が……せめて、アンリが消えた年齢を越えることが出来るまでは、口に出さないようにと」


 私の声は震えていた。

 リオネルの顔がまともに見られず、彼のか細い肩を見つめていた。


「口に出せば、本当にそうなってしまうような気がして」


 そう言うと、リオネルは膝の上で私に握られていた手をパッと解き、素早く私の首に腕を回した。

 突然のことに体が硬直してしまう。


「そうまでして、アンリのクローンを作ったのは、それだけアンリを愛していたからだよね」


 期待に満ちた甘い囁きに、ぞわぞわとしたものが背筋を這い、肌が粟立った。

 咄嗟に首に絡みつくリオネルの腕を払いのけてしまう。


 リオネルの空色の瞳が細められ、私を睨むように見た。


「どうして、拒むの? 君は僕に会いたくてクローンまで作ったっていうのに」


「僕に会いたくて……?」


 リオネルの紡ぐ言葉を認めたくなくて、私は彼の言葉を繰り返した。

 どうか、違うと言ってくれ。


「アンリ……?」


 名を呼ぶと、リオネル……アンリは目を細め、口の端をつり上げて笑った。


「そうだよ、僕だ。君の愛するアンリが帰ってきたんだよ。嬉しいでしょう?」


 さっきまでリオネルのものとして聴いていた声が、アンリの声になり、過去の記憶が走馬灯のように頭の中を駆け巡る。


 そうだ、私は彼を愛していた。

 その彼が帰ってきた。嬉しくない訳がない。


 アンリを失った私が、なぜクローンを作ってまで彼を求め続けたのか。

 それは例え、クローンであろうと、彼と添い遂げるためだ。

 この手からすり抜けてしまった彼と、もう1度だけでも会いたかったからだ。


 そこに彼の魂はなくとも……


 そこまで考えて、私の体を戦慄が駆け抜けた。


 私を責める大人の声、迫る電車に触れて剥がれた爪の痛み、彼が突然始めて突然終えた決着のつかなかった宙ぶらりんの勝負、いつも試すように私を見ていた、細められた空色の瞳……確かに私は彼を愛した。


 けれども、同時に恐怖も抱いていた。


 あの天使のような風貌に残酷な中身を秘めた彼を愛し、恐れ、敬い、心の隅で厭うていた。

 彼がいなければ、彼によって愛と恐怖を与えられなければ、私という人間は存在しないかのように感じていた。


 けれど、彼の容姿をして、純粋に真っ直ぐに育っていくリオネルと過ごしている内に、私の中の彼への想いも、やがて小さくなっていった。


 そして、消えてしまったのだ。

 ある日、丘の向こうに素晴らしい場所を夢見ていた彼が、私の目の前からあっけなく消えてしまったように。


「リオネルは、どこですか」


 低く呟いた私の声に、アンリは白けたような顔をして頭の後ろで手を組んだ。


「さあね。丘の向こうで落ちちゃったんじゃない? あの日の僕みたいにさ」


「そんな馬鹿な、その体はリオネルのものです。貴方はなぜ、そこにいるのですか」


 アンリの体が落ちていくのを確かに見た。それにあれはもう十数年も前のことだ。

 もし生きていたとしても、アンリが少年の姿のままでいられるはずがない。


 私の問いにアンリは意地悪く笑う。頭の後ろで組んだ手を離して、ずいっとこちらに体を寄せてくる。

 思わず後ずさるが、ソファの肘掛が腰に当たり、それ以上逃げることが出来なかった。


「遺伝子だよ。僕はずっとリオの中にいて、浮き上がる時を待っていたんだ。この体に、さも当然のように君臨するリオの意識を押し倒して、引きずり降ろして、僕は体を取り戻した。君もそれを望んでたんじゃないの?」


 遺伝子に魂が残るなど、そんなことあり得るのだろうか。

 例え、DNAが全く同じだとしても、オリジナルとクローンは別個の存在である。当然、オリジナルからクローンへの記憶の引継ぎなどはあり得ない。


「貴方は亡霊です……私が犯した罪によって作り出された」


「そうだね、本来なら僕は死んでいるはずだったのに、君が蘇らせたんだ。滅亡間近のこの世界で、醜く足掻いて、神の領域にさえ踏み込む、あの卑しい大人たちと同じだよ!」


 あの頃と全く変わらない、退屈に憎しみさえ抱いていたアンリがそこにいた。

 その怒りは、こんな世界を創り上げた大人たちにも向けられていた。

 思えば、彼が私を危険な遊びに誘ったのは、私の保護者がその代表とも言える町長だったからかもしれない。

 私を悪い方に導くことによって、大人たちにささやかな復讐をしている気分だったのだろう。

 けれど、私はもう、アンリに行動を左右されるような子供ではない。


「私はもう大人です。貴方の嫌いな、大人になったんです」


 私の言葉に彼の大きな瞳に翳りが差した。

 彼の細い、両の指が私の頬を包み込む。ひんやりとした感触にドキリと心臓が跳ねた。


「本当に、君はもう大人になってしまったんだね。いつの間にか眼鏡をかけるようになって、いつの間にか紅茶に入れる砂糖は2つから1つに変わって……いつの間にか、僕よりリオを愛するようになった」


 瞳の中の翳りは消えて、憎しみの色が広がる。

 私は臆することなく彼に言う。


「リオネルを返してください」


「いいの?」


 アンリは私の頬から手を離し、小首を傾げて続ける。


「リオは自分がアンリのクローンだなんて知らない。いや、今は僕の中で知っちゃってるかもしれないけど……それをリオは受け入れてくれるかな? かつて愛した人の代わりに作られた。言わば代替品でしょ? そんなの僕だったら嫌だなぁ。あ、そう言えば、リオって僕のクローンなんだっけ? オリジナルの僕が嫌だと思うってことは、クローンのリオもそうなんじゃないの?」


 意地悪く目を細めて私を見るその表情も、殴ったり蹴ったりなどの実際の暴力ではなく、言葉で相手を傷つけようとするところも変わっていない。

 目の前にいるのが紛れもなくアンリだということを思い知る。


「リオネルは、貴方とは違います」


「そう思ってるだけだよ」


 ぼふんと音を立ててソファに座り直し、アンリはつまらなさそうにテーブルに目をやる。


「貴方は残酷です。だけど、リオネルは人を思いやることの出来る優しい子です」


 この想いがリオネルに届くように、祈るように私は言葉を紡ぐ。

 それを踏みにじるように、アンリは鼻で笑った。


「僕が人を思いやれない、悪い子だって言うの」


「人を思いやれるなら、リオネルの体を乗っ取ったりしないはずです」


 その言葉にアンリは喉を反らせるようにして私を睨み付けた。


「じゃあ、君はどうなのさ。人を思いやれてる? 僕にはそうは思えない。僕はあの日、やっと退屈な世界から逃れられたって言うのに……人を思いやることの出来ない、自分勝手な人間に叩き起こされて、こうしてまた戻ってきてしまった。ねえ、どうしてくれるの? 僕はこんな世界に戻ってきたくなんてなかったのに!」


 彼の激しい言葉に私は何も言い返せない。

 彼の言葉に、やはりあの日、彼は死んでしまっていたという事実を突きつけられて、改めて打ちのめされる。

 全ては私が招いたことだ。

 死者を冒涜したのは私なのだ。

 私のエゴで、アンリを安らかに眠らせてあげることが出来なかった。


 私は下を向き、手で顔を覆った。


「ごめん……ごめんなさい、アンリ」


 丸めた背中に、ずしりとアンリが覆いかぶさる。

 耳に吐息がかかった。その吐息から甘い林檎の香りがした。


「それでも君は、もう僕を愛してないって言うんでしょう?」


 アンリが体を離し、背中が軽くなる。

 それでも私は顔を上げることが出来なかった。


「酷い奴」


 アンリがポツリと呟いて、ソファが音を立てた。

 恐る恐る顔を上げると、アンリの姿はなくなっていた。


 家から出て行ってしまったのだと気付いて、慌てて外に飛び出す。

 表にもアンリの姿はなかった。

 もちろん、リオネルの姿も。


 パブロが裏の畑にいるということを思い出して、慌てて家の裏に回る。

 早くも筋肉痛を起こし始めている足が鈍く痛む。


 青々と茂る葉が水滴を乗せて揺れている。簡易な柵で区切られた裏の畑に、パブロの姿はなかった。

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