第34話
いつもの霧がかった丘を、歩いている。
僕はパジャマにガウンを羽織って、重たい皮のブーツというへんてこな格好をして。
目の前にはいつもの少年の背中。
いつもと違うのは、その少年が、もう1人の僕だと既にわかっているということ。
もう1人の僕は、僕のお気に入りの茶褐色のジャケットと揃いのズボンを着ている。
でも、やっぱり足下は僕と同じように学園から支給される重たいブーツを履いていた。
それは、どこからどう見ても休日の僕の姿だった。
もう1人の僕が、僕の手を引いて歩く。
いつもと違うことはもう1つあった。
丘に漂う霧がいつもより薄いのだ。
丘を越えれば、辺りは何もない平野が続き、左を見れば、朝日が昇ろうとしているのか、空の下の方が橙から紫、紺と複雑な色合いをしているのがぼやけた視界に見えた。
この霧がなければ、もっと荘厳に美しく見えただろう景色に僕は見とれた。
あの朝日が昇れば、僕は夢から醒めることが出来るだろうか。
「ねぇ、あの日のことを話してよ」
もう1人の僕が、振り返り言った。
空色の瞳が細められ、口角が意地悪くつり上がっている。
「あの日って?」
「酷いな、忘れたの? アントンが消えた日のことだよ」
さくさくと、リズム良く、草を踏む音が耳に心地いい。
もう1人の僕は前に向き直る。
僕はアントンが消えた日のことを思い返しながら呟く。
「あの日は……パブロが『ヒュラースの丘』に行こうって言い出して、クビンもアントンも嫌がっていたけど、結局、みんなで行くことになって、それで……アントンはいなくなったんだ。みんなで1列になって歩いていたけど、気付いたらアントンが付いてきてなくて」
「アントンを置いていったんだね」
もう1人の僕の言葉が心に刺さった。
僕は声を荒げる。
「違う! そうじゃない、僕たちはアントンを探しながら、来た道を戻ったけど、どこにもいなくて」
「本当に? 本当にそうかな? 草を踏めば、折れて跡が残る。君たちは君たちが通ってきた跡とは違うものに気付いたんじゃない? でも、見なかったふりをした」
こちらを見もせずに、もう1人の僕は、酷い言葉を投げてくる。
僕は頭をふるふると緩く左右に振った。
「そんなものなかった。もしあったとしたら、僕たちはその跡を追ってアントンを見つけていたよ」
「本当に? あれから1度もアントンを探しに、この丘に来なかったくせに?」
ぐさり。
ぐさりぐさり。
もう1人の僕が放つ、いくつもの言葉が心に突き刺さる。
そうだ。
僕たちはアントンを心配する素振りをしながら、1度も『ヒュラースの丘』には戻らなかった。
大人に丘を訪れたことを言わず、捜索の機会さえ奪ったのだ。
僕たちはアントンを見捨てた。自覚した途端、視界が歪んだ。
目が熱い。
喉の奥がひりついて、声が漏れた。
「ねえ、泣いてるの?」
立ち止まって振り返った、もう1人の僕は、空いている方の手で僕の前髪を掴んで引き寄せた。
「痛い!」
悲鳴に似た声が出た。けれど、もう1人の僕は力を緩めることなく、ぐっと自分の顔に僕の顔を引き寄せる。
ぶちぶちと髪が抜ける音と共に、痛みが僕を苛む。
「泣いたって、アントンは帰ってこないよ。君たちに見捨てられた可哀想なアントン。泣きたいのは彼の方だと思うんだけど」
蔑むような目で見られ、恐怖が僕の体を駆け巡った。
「まあ、でもいいよ。許してあげる。こうして、もう1度、この丘に来たんだからね」
そう言って、彼は掴んでいた僕の前髪を離した。恐怖で足から力が抜け、その場にへたり込んでしまう。そんな僕を見て、彼はおかしそうに笑った。
繋いだ手を引っ張って僕を無理やり立たせようとする。
「ちょっとちょっと、何座り込んでるんだよ。ほら、立って、歩かなきゃ」
「立てない。力が抜けちゃって」
僕は彼の腕に縋るようにして足に力を入れてみたが、駄目だった。
「何言ってるの。大丈夫、立てるよ。ほら、僕がアントンのところに連れてってあげるからさ」
「アントンのところに?」
彼の顔を見上げると、これまでの悪態や意地悪な表情が幻だったかと思う程、慈愛に満ちた笑みを浮かべていた。
「そうだよ。だから、ほら立つんだ」
彼は繋いだ手を離して、後ろから僕の脇に手を差し入れ、僕の体を持ち上げた。僕は、彼に助けられながら、なんとか立ち上がる。が、体が傾いて彼に凭れかかってしまう。
「アントンはどこにいるの?」
彼の肩に頭をもたせかけて訊いた。耳元でふっと息が漏れる音がした。
「そこはね、素晴らしい場所、だよ」
「素晴らしい場所……」
「君がいつも図書館で見ていた、絶滅した動物たちや、人類が失った海のあるところ……」
足に力が戻ってくる。しっかりと大地を踏みしめ、彼の肩から頭を上げる。
彼と向き合う形になって、2人で暫く見つめ合う。
似紫色の髪も、空色の瞳も、身長も、手の長さも、どこをどう見ても僕と君はまるっきり同じに見える。
違うのは服装だけで、それを気にしなければ、まるで鏡の前に立っているのと変わらない。
「さあ、行こう」
彼は再び、僕の手を取ると、軽やかに足を踏み出した。手を引かれて僕も歩き出す。
彼は歌うように言う。
「素晴らしい場所へ」
霧が晴れて、左から刺すような光が当たる。左に目を向け、空いた方の手で庇を作る。
「朝日が昇る……」
そう口に出した瞬間、草を踏む感触がなくなって、下に強く引っ張られるように体が傾いた。さっきまであったはずの地面はなくなり、僕はまっさかさまに落ちていく。
崖の岩肌を見上げると、彼が醒めた目をして僕を見下ろしていた。
これで目が覚める。
ごうごうと鳴る風の音を聞きながら、僕は目を閉じた。
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