第32話

「あまり遠くに行くと、朝までに戻れなくなるんじゃないか?」


 丘は既に下り、私たちはどこまでも続く暗い平野を歩いていた。

 ガブリエレが心配そうに言うのを、アンリは鼻歌を口ずさみながら聞き流す。


「おい、アンリ」


「消えた少年たちはどこに行ったんだろうね」


 ガブリエレの呼びかけには答えず、彼は呟く。

 濡れた草をしっかりと踏みしめて歩く彼の後姿。

 その背中がどこか寂しげに見えた。


「丘を越えれば、何かあるのかと思ってた。消えた少年たちが帰りたくなくなるような、何かが」


「どこまで行ったって何もないさ」


 低い声で言って、ガブリエレは立ち止まった。

 アンリはまだ歩き続けている。


 私は後ろを振り返り、むくれてそっぽを向いているガブリエレを見たが、アンリが立ち止まる気配を見せないので、私も歩き続けた。

 ガブリエレの足音は聞こえてこなかった。


「アンリ」


 彼の名を呼ぶとアンリは振り向きもせずに言う。


「僕はね、少年たちは自分の意思で消えたんじゃないかって思ってるんだ。退屈でつまらないこの町に見切りをつけて、もっと別の、素晴らしい場所を探しに行ったんじゃないかって」


「素晴らしい場所、ですか?」


「そうだよ。君は行ってみたくない? こことは違う、別のどこか遠くへ」


 彼が足を止めて私を振り返る。

 月明かりに照らされた髪が白く光った。


「僕、君とならこの町から消えてもいいよ」


 悪魔の囁きが私を誘う。

 月の光を吸い込んで妖しく輝く彼の瞳は、例の如く細められ、私の姿を捉えている。


 彼は腕を持ち上げ、細い指を私の頬に沿わせた。


「2人で学園の噂に名を連ねよう」


 咄嗟には言葉が出ず、私は、頬に当てられた彼の手を縋るように握った。

 彼の手はとても冷たい。夜の冷気よりもずっと冷たい。

 なのに、その手は僕の心を驚くほど暖めてくれた。目を閉じると涙が流れ、彼の手を濡らした。

 

「行こう、素晴らしい場所に」


 彼の声に目を開くと、暗い世界にただ1つ輝く星のような煌めきを持ってアンリの姿が現れた。

 眩いくらいの輝きに、歩き出した彼の体がぐらりと揺れたことに、私はすぐには気が付かなかった。


「え」と彼が声を漏らし、体が傾いていく。

 私は手を伸ばし、彼が転ばないようにその腕を掴もうとしたが、彼の体はガクンとその時空から外れるように瞬間的に消えた。

 伸ばした手に微かな衝撃が残ると共に、ぶちりと音がした。

 その場から1歩を踏み出そうとして、ガブリエレの叫び声を聞いた。


「キルヒナー! 行っちゃダメだ!」


 泣き叫ぶような声の後に、ガブリエレの腕が腰に回され、後ろに引き倒される。


「行くな、行っちゃダメだ」


 私の体にしがみ付いたガブリエレがうわ言のように繰り返す。

 さっきまで、私と彼が立っていた場所を見る。

 そこにアンリの姿はなく、どこまでも続いていると思っていた平野もなかった。


 彼を掴もうと握り締めたままの拳を見ると、似紫色の細い髪の毛が指の隙間から何本も覗いていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る