第31話
「そう言えば、僕、婚約したんだ」
丘に登る何日か前、放課後の誰もいない教室で、彼は私にそう告げた。
その瞬間、世界が終わったのではないかと思った。何の音も聞こえず、何の感覚も覚えなかった。
けれども、世界は終わってなどくれなかった。
残酷な現実は続く。
「婚約って、誰と」
震える声で訊いて、けれど、次の時には耳を塞いでしまいたいと言う思いに駆られた。
視線が定まらず、挙動不審になってしまう。
そんな私を彼はさも面白そうに眺めた。
「誰って、名前を言ってもわからないと思うけど」
彼は目を細め、口の端を吊り上げた。
「何をやってる人ですか?」
私の声は、まだ震えている。
「何って、普通の人だよ。普通に働いてる、おとなの人」
そう言いながら、彼は窓辺に立つ私を上から下まで値踏みするように見た。
彼は行儀悪く机の上に座っていた。それも自分の机ではない。
天使のような姿で悪魔のようなことを言う彼を見ていられなくて、僕は彼に背を向けた。
「今まで、誰に申し込まれても断っていたのに……どうして、急に婚約する気になったんです?」
「何? 僕が婚約しちゃいけないって言うの?」
「そうではありませんが……」
強く言われて酷く焦った。
彼にはこれまで複数の人間から婚約の申し入れがあったが、そのどれも彼が承諾せず、成立することはなかった。
私は彼が誰とも婚約する気がないのだと思っていた。
「この町にはつまらない人間しかいない」と常々ぼやいていたし、彼が普通に婚約して、普通に婚姻を結ぶなんて想像が出来なかった。
或いは、もしかしたら……彼は私のことを待っていてくれているのではないかと、都合のいい妄想をすることもあった。
なのに、彼は普通の人と婚約したと言う。
これも、私を試す遊びなのだろうか。
私の心を試すために、彼はこんなことを言っているのだろうか。
ならばと、私は思い切って言った。
「君は、私のことが好きなんだと思っていました……」
「好きだよ」
事もなげに彼は言う。
あまりに呆気なく告げられた言葉に、思わず口を開けたまま彼を振り返っていた。
彼はそれまでに見たことがないほど優しい顔で微笑していた。
いつか図書室で見た、白い翼を持ち、慈愛に満ちた眼差しを向ける天使が描かれた本の表紙を思い出す。
あの本のタイトルは何だっただろう。
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