第29話
飛び起きると、ベッドが軋んだ。少しのはずが、ずいぶん眠っていたらしい。
隣にはキルヒナーが寝ていて、僕が飛び起きた振動で目を覚ました。
「どうかしましたか?」
まだ目覚めきっていないのか、キルヒナーの声は擦れている。僕は荒い息をしながら額の汗を拭った。
額だけではなく、全身が汗でしっとりと濡れている。まるであの日、霧の丘を歩いた時みたいだと僕は思った。
僕の様子がおかしいことに気付いたのか、キルヒナーはもぞもぞと起き上がり、サイドテーブルにある、ランプの灯りをつけた。
橙色の灯りが殺風景な部屋を照らし出す。
僕は急速に体中の汗が引いていくのを感じ、それと同時に寒気を感じた。
心にポッカリと穴が空いている感覚。
「リオネル、大丈夫ですか?」
キルヒナーは、今度ははっきりとした声で訊いた。眼鏡をかけていないせいで見えにくいのか、僕にうんと顔を近づける。
いつもは作り物のような白い顔をしているのに、今はランプの明かりの助けもあって、とても人間的に見えた。
「怖い夢でも見ましたか?」
僕の無事を確かめるように、上から下にキルヒナーの視線が動く。堪らず、キルヒナーに抱きついた。キルヒナーは僕の体が震えていることに気付くだろうか。
「大丈夫、夢ですよ」
背中を優しく撫でられ、全身の細胞が沸き立つのを感じた。
「キルヒナー……」
目を閉じて呟くと、ふっと耳に拭きかかるキルヒナーの熱い息を感じた。なのに、僕の耳元で囁いたのは、キルヒナーではなかった。
「どうして探してくれないの」
声はアントンのものだった。今度ははっきりとそうわかった。
僕は驚いて、頭を預けていたキルヒナーの胸元から顔を上げた。僕の肩を掴んでいるのは確かにキルヒナーなのに、どうしてアントンの声が?
僕はいつの間にか、また眠って夢を見ているのだろうか。
頭が酷く混乱した。
「……キルヒナー?」
彼の顔を触って確かめる。初めは指先で遠慮がちに、その内に手のひらでキルヒナーの頬を包み込む。
温かく柔らかな頬。そこにいるのは紛れもなくキルヒナーだ。念のため、部屋の中を見回して、もう1人の僕がいないかも確認する。
橙色の弱い明かりに照らされた部屋には、僕とキルヒナー以外、誰もいない。それどころか、外からは物音が1つも聞こえず、世界にたった2人きりのような気さえする。
2人が立てる物音だけが、この世界に響くたった1つの音のようだ。
「お願いがあるんだ、キルヒナー」
キルヒナーに縋り付いて乞う。
「僕を抱いてよ」
少しの間が空いて、キルヒナーは答える。
「今、抱きしめているじゃありませんか」
「そういう意味じゃないよ」
僕はキルヒナーから体を離して、彼のパジャマのボタンを外した。
1つ。
2つ。
3つめのボタンに手を掛けた時、その手をキルヒナーが優しく掴んで止めた。
「止めなさい、リオネル」
「何で? 僕たち婚約してるんだよ。こうするのが自然なんじゃないの?」
掴まれた手を払って、キルヒナーの首に腕を回し、引き寄せてキスをする。キルヒナーは目を見開いて驚いていたけど、その腕はしっかりと僕の体を抱きしめていた。
「リオネル……」
キルヒナーの瞳が熱を帯びて、僕をベッドに押し倒した。あぁ、これで僕たちはやっと1つになれるんだ。
だけど本当にそうだろうか? 僕の頭は混乱している。
今、僕の首に唇を這わせているのは、本当にキルヒナーなの?
パジャマの隙間から手を挿し入れて胸を撫でているのは、本当にキルヒナーなの?
これは本当に……
「これって、現実なのかな……?」
波が引くように、キルヒナーの顔に冷静さが戻ってきた。
「リオネル、大丈夫ですか?」
疑うような視線を向けられて、僕は自分の目を両手で覆った。震える吐息が口から漏れる。
「わからない……怖いよ。僕、また夢を見てるんじゃないかって。もう、あの夢は見たくない……!」
ベッドが軋んで、もつれ合っていた2人の体が離れた。その瞬間、冷気が僕を捕らえようと手を伸ばしてきて、僕は慌ててキルヒナーの体にしがみついた。
いつも細身のスーツを着ているキルヒナーの体は華奢に見えていたのに、その身体は意外にもがっしりしていた。
抱き慣れない大人の骨格に、けれども安心感が生まれる。
「離れて下さい」
冷たく言われて戸惑った。
「どうしたの、キルヒナー?」
僕の手を振り払って、キルヒナーはベッドを出ると、そのままドアへ向かう。
「少し、1人になりたいんです」
キルヒナーはそれだけ言って、寝室から出て行ってしまった。閉じられたドアの音が無慈悲に終わりを告げる。
僕はただ、呆然とベッドに座り込んでいた。
乱れたパジャマを掻き抱くと、涙が込み上げてきた。
「どうして探してくれないの」
また、声が聞こえる。涙を拭って部屋の中を見渡すと、部屋の隅に僕がいた。
「やっぱり、君か」
「そう、僕だ」
僕の口が三日月のように裂けて、にんまりと意地悪く笑う。
やめろ、僕はそんな笑い方はしない。
「これは夢なの?」
「人間はね、夢を見ている間だけ、生きることが出来るんだよ」
「どういう意味?」
「意味なんていさ」
「気が狂いそうだ」
「もう狂っているのかもしれないね」
僕が音もなくベットに上がる。
なのに、重みが感じられない。
これは、夢なのだろうか。
「君は誰なの?」
「誰だと思う?」
答えられず考え込んでいる僕の手を、僕が取った。
夢だから体温は感じないと思ったが、その手はビックリするほど冷たかった。
思わず手を引っ込めてしまう。
「どうしたの?」
「君の手、冷たい」
嬉しそうに僕が笑う。
まるで、僕が怯える姿を見るのが楽しいとでもいうように。
「行こう」
そう言って、もう1度、手を掴む。
今度は払わなかった。
「どこに行くの?」
ベットから引っ張り出されて、パジャマの上にガウンをかけられる。
「友達を探しに行くんだよ」
僕達は手に手を取って、夜の冷えた風に吹かれていた。
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