第22話

 いつの間にか、窓の外は暗くなっていた。気付かぬ内に室内の電灯のスイッチが入れられていて、文字が並んだページが白く照らされている。

 図書室にいるのは司書とリオだけだった。来た時には図書委員の生徒もいたはずだが、既に帰ったようだ。


 そろそろパブロも寮に戻ってきているかもしれないーーリオは帰り支度を急いだ。


 テーブルに広げていた事典や図鑑を閉じ、元の場所に戻しに行く。書架と書架の間の狭い通路は灯りがついていても薄暗い。重い本を抱えながら、リオは出来るだけ手早く本を戻していく。


 次の委員選びでは図書委員をやるのもいいかもしれないーーそんな考えがリオの頭を過ぎる。


 これまではキルヒナーとのことを考えて、リオは居残りや休日の仕事がない美化委員をやってきた。が、もうそんなことを心配する必要もなさそうだ。そう考えて、リオの気分は酷く落ち込んだ。


 最後の1冊を棚に戻した後、リオは暗い通路で書架に頭をもたせかけ、悲しみが通り過ぎるのを待った。ガラガラと、図書室の戸が開く音が、遠くで聞こえる。


 こんな時間に図書室に来る人がいるんだーーと、驚いて、

 いや、司書の人が出て行ったのかもしれないなーーと思い直す。


 図書室の出入り口は1つしかない。

 リオが本を戻しに行ったのを、司書の人も見ていたので、図書室に閉じ込められるということはないと思うが、ここに閉じ込められたら閉じ込められたで、それもいいかもしれない、とリオは自嘲ぎみに考える。

 また門限に間に合わなくて、寮長に怒られるだろうが、外出禁止にされたら、キルヒナーに会いに行かない正当な理由にもなる。


 だらだらと思考する頭に、早足で歩く足音が飛び込んできた。

 誰だろう? そんなに急いで、なにか探しものかなーーリオは頭を上げるのも面倒で、俯いたまま書架に凭れかかっていた。


 ふと、背後の通路の入り口に人の気配がして、足音が近付いて来る。入ってきた人物を確認する間もなく、リオは後ろから抱きすくめられていた。

 驚いて振り向くと、それはキルヒナーだった。


「な、何で!?」


「静かに、ここは図書室ですよ」


 リオを抱きしめたまま、キルヒナーが耳元で囁く。確かにそうだが、騒いで迷惑する利用者は図書室にはいない。ここには、リオとキルヒナー、それからおそらく司書しかいないのだから。


 なぜ、キルヒナーが学園に? と考えたところで、リオは、はたと気がついた。

 手続きをしに来たのだ。僕との婚約を破棄するためのーー


 学生と婚約を結ぶ場合、本人の同意は勿論だが、学園の許可も得なければならない。当然、婚約を解消をする時も、学園での手続きが必要となる。


 リオのこめかみに冷や汗が流れ、キルヒナーの腕の中に納まっている体が強張っていく。


「リオネル」


 囁き声と共に熱い吐息がリオの耳にかかる。


 あぁ、これから彼の口から告げられる残酷な決断に、僕の心は耐えられるだろうかーーリオは祈るようにキュッと目を閉じた。


「すみませんでした。貴方を不安にさせていたことに気がつかなくて……」


 キルヒナーはリオを離して、自分の方に向かせるように手を引いた。そして、正面からもう1度、リオを抱きしめる。


 頭の中が酷く混乱した。キルヒナーが何を言っているのか、理解できない。


「僕と、別れる手続きをしに来たんじゃないの?」


「そんなことしません。一緒にいたいんです」


「僕に会いにきたの?」


「はい」


 身体が離れて、キルヒナーがリオを見つめる。リオもキルヒナーを見つめる。

 暗がりでよくわからないが、眼鏡が反射する微かな光の中で、キルヒナーの蒼色の瞳が潤んでるように見えた。さっき図鑑で見た海の写真が脳裏を掠める。


 僕たちが失った海はこんな所にあったのかーーと、リオはそっと彼の頬を両手で包んだ。キルヒナーの頬は想像に反してとても熱かった。


「キルヒナー」


 リオが背伸びをすると、キルヒナーも屈んで顔を近付けた。腰に回された腕に引き寄せられる。

 触れた唇も熱い。心臓が痛いほど脈打つ。


 リオはキルヒナーの首に腕を回して抱きついた。キルヒナーもそれに応えるように、リオを強く抱きしめる。

 リオは涙が出そうだった。キルヒナーが一緒にいたいと言ってくれた言葉が嬉しくて。だけど、それだけではない。彼がリオに隠したままにしている、アンリの影がちらついて、リオは幸せだと思いきれない。


 僕の事を想ってくれているのだと信じたいのにーーリオはキルヒナーを信じきれない。複雑な想いがリオの心臓を刺して、いつまでもいつまでも痛んで、涙が出そうだった。

 キルヒナーの、意外にも温かな胸に顔を埋めて、リオは涙が出ないように懸命に堪えていた。

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