第19話
「何で起こさなかったの?」
「気持ち良さそうに寝てたからさ」
リオの問いに、パブロは反省する様子もなく、けろりと答えた。辺りに人影はなく、夕暮れが迫る町を2人は並んで歩いていた。
ショッピングモールからの帰りの電車、心地良い揺れに眠気を誘われ、リオはつい眠り込んでしまっていた。降りるはずの停留所に着いてもパブロが起こさなかったため、駅を3つも乗り越してしまったのだ。
反対方向の電車は暫く来ないため、仕方なく2人は歩いてガブリエレの家を目指している、という訳だ。
「ま、いいじゃん。散歩だよ、散歩」
「寮には門限があるってこと覚えてる?」
「大丈夫、間に合うって。いざとなったら、またガブリエレから自転車を借りればいいんだし」
「それなら、まぁ……いいけど」
実は、リオは自転車にもう1度乗りたいと思っていた。欲を言えば、自分でも乗れるようになりたいとさえ。
ガブリエレに頼んだら、教えてくれるだろうかーーそんなことを考えながら、リオは舗装されていない道をじゃりじゃりと音を立てて歩く。
特に話す事もなく、パブロはモールで買ったグラスの袋をブラブラさせて、リオは空に輝く一番星を眺めて歩いた。
ガブリエレの家に到着したのは、それから1時間ほど経ってからだった。1度、電車がリオたちを追い抜いて行ったが、停留所に間に合わず、電車は情け無用で2人を置いて発車してしまった。
そんな出来事を経て、すっかり暗くなって、ログハウスに灯る明かりが見えた時、リオは涙が出そうになった。
「まだ門限までには時間があるな。一休みしてから帰ろうぜ」
額の汗を拭いながらパブロが言う。リオは声を出す気力もなく、浅く頷くことで返事をした。歩くだけでも、結構、体力を使う。2人は門限を気にして、早歩き気味だったから余計、疲れたのだろう。
「ちょっと休もう」
家に入るのも面倒で、リオは玄関横にある椅子代わりの切り株に倒れるように座った。背もたれがないので、膝に腕を乗せて項垂れるようなポーズで休む。
「休むなら、リビングのソファにしろよ」
玄関のノブを掴んだパブロが、リオを振り向きながら言う。
「僕、もう歩きたくない」
「しょうがないな。じゃあ、飲み物持ってきてやるから、待ってな」
そう言って、パブロはドアの向こうに消えた。
風が吹いて、汗を冷やしていく。
気持ちがいいけど喉が渇いた……パブロはまだかなーーと、リオが玄関に目をやると、いつの間に戻ったのか、パブロが呆然とした様子で玄関扉の前に立っていた。
その手に飲み物はなく、買ってきたグラスが入った袋をまだ持っていた。
家に入ったのなら置いてくればいいのにーー
「ビックリした……飲み物、取りに行ったんじゃなかったの?」
「うん……」
気の無い返事をして、パブロはリオの隣の切り株に腰をかけた。リオは重たい足を引きずるようにしてパブロの方に体を向ける。
「何かあったの?」
「うん……それが……」
そう言ったきり、パブロは中途半端に口を開いたまま動かない。話の続きを待つが、パブロは口を閉じたり開いたり、逡巡している様子で一向に話し出そうとはしなかった。
「一体、何だって言うの」
疲れてるせいで怒りっぽくなっているリオが声を尖らせて訊く。と、パブロはリオの口に人指し指を押し当て「シッ」と言って黙らせた。
リオが驚いて、口に当てられた指を払って「何なの?」と小声で訊くと、パブロは玄関の方を気にしながら「今、キルヒナーが来てる」と呟いた。
あんまりビックリして、リオは叫び出しそうになった。飛び出そうとする声を苦労して飲み込んでから、小声で問う。
「ここに?」
「そう、リビングでガブリエレと話してる」
キルヒナーはガブリエレの家に何をしに来たんだろう。今朝のことを思うと、ただ遊びに来たって訳ではなさそうだ。
リオがパブロにキルヒナーとのことを相談しに来たように、キルヒナーもガブリエレにリオのことを相談しに来たのだろうか。
「それで、こっそり戻ってきたの?」
「だって、何か……深刻そうに話してたからさ」
深刻な話。もしかして、キルヒナーは僕とどうやって別れるか、ガブリエレに相談してるんだろうか――そう思い至ると、リオはじっとしてはいられなかった。
さっきまでの疲れが嘘みたいに吹き飛んで、リオは切り株から立ち上がって、素早く家の裏に回り込んだ。
勝手口をそーっと開けて、キッチンに忍び込む。キッチンとリビングを隔てる壁は一部がくり抜かれ、カウンターで繋がっている。カウンターの下に隠れれば、姿は見られず、会話を聞くことが出来るはずだ。
家の壁に使われている太い丸太より、一回り細い丸太を組んで作られたカウンター下の壁に背中を預けて、リオは耳を澄ませた。
「リオには話してないのか」
「……話してません」
「ちゃんと話した方がいいと思うけど」
姿は確認できないが、聞こえてくる声は間違いなくキルヒナーとガブリエレのものだ。息を詰めて聞き耳を立てていると、リオの肩がトントンと叩かれた。
驚いて振り返ると、不機嫌そうなパブロが同じようにしゃがんだ格好でリオを睨んでいる。
「盗み聞きは良くないと思うけど?」
小声でそんなことを言う。リオも小声で返す。
「キルヒナーはガブリエレに、僕とどう別れたらいいか相談してるんだ。じっとなんてしてられないよ」
パブロは両手を肩の辺りまで上げて広げ、頭を左右にふるふると振った。呆れてものも言えないということをジェスチャーで表しているらしい。ついでのように、わざとらしい溜息も吐く。
それでも、リオはそこから離れることが出来なかった。パブロに呆れられようと、盗み聞きをすることに罪悪感があろうと、キルヒナーの心を確かめずに寮に帰るなんて出来ない。
リオとパブロのそんなやり取りの間もキルヒナーとガブリエレの話は続いている。
「そろそろだろ……そんなに心配なら、話すべきだ」
「今は話したくないんです。あの時期が過ぎるまでは」
「わからないな……」
悄然とした様子のガブリエレの声と、グラスの中の氷が立てたカランという音が重なるように響いた。その音に、リオは喉が乾いていたことを思い出してしまった。
2人の話に集中したいのに、思い出すと、どうにも喉を潤したいという欲求が強まってくる。唾を飲み込んで何とか我慢していると、パブロが再びトントンとリオの肩を叩いた。
また文句でも言われるのかなと思ったら、どこから取り出したのか、リンゴジュースの瓶をリオに差し出した。
「どうしたの、これ」
「ここ、キッチンだぜ?」
小声でやり取りして納得した。彼らが凭れているカウンターの向かいに収納があり、どうやらそこに買い置きのジュースなどが入れられているらしい。
気付かれないように、慎重に蓋を開け、中身を飲む。リンゴの微かな酸味がカラッカラの喉を刺すようだ。快感すら感じる痛みに声が出そうになる。
と、さっきまで静かに話していたキルヒナーとガブリエレの声が俄かに大きくなった。
「リオは、彼とは違うんだぞ」
「わかっています。だけど……」
「だから、最初に反対しただろう? 本当にそれでいいのかって、聞いたよな? こんな風になると思ったから反対したんだ!」
「……彼のことが忘れられないんです……」
弱々しいキルヒナーの声が切なげに響く。ガブリエレは溜息を吐き、慰めるように呟く。
「それでも忘れないと……彼のことは」
リオの頭は酷く混乱した。
キルヒナーには忘れられない人がいる? 僕とは違う、大切な誰かが……キルヒナーはその人と一緒になりたいんだろうか。だから最近、僕と過ごすことを避けているのだろうかーー
「……アンリ……」
泣いているような、震える声でキルヒナーが呼ぶ。
アンリ、それが、キルヒナーの忘れられない人ーー胃の中がグルグル回るような感覚がして、リオは急いで勝手口に向かった。
盗み聞きしていたことがバレないように出ないといけないので、それは大変な作業だった。
勝手口を出ると、リオは闇が広がる葡萄畑を走った。畑には明かりもなく、どこをどう走っているのか、すぐにわからなくなる。そのうち、何かに躓いて、リオは盛大に転んだ。土の匂いがして、口の中に鉄の味が広がる。両方の手の平がひりひりした。
「おい、大丈夫か!?」
叫ぶようなパブロの声がして、慌てた足音が近付いてくる。
「来ないで!」
リオが叫ぶと足音が止まった。
こんな情けない姿、見せられない……見られたくないーー目が熱くなって、闇の中に浮かび上がるように見える木々の影が歪んでいく。
「もう嫌だ……こんな情けない……勝手に聞いて、勝手に傷ついて……」
足音が近づく。
「来ないでよ!」
叫んでも、もうパブロは止まらなかった。リオの傍まで来ると、腕を掴んで倒れた体を引き起こす。
「離せ! 僕はこのまま、ここで朽ち果てるんだ!」
暴れるリオの頬を、パブロが打った。
突然のことに呆然として、リオは彼を打った影を見た。
2人はこれまで、ケンカをすることはあっても、口で言い合うだけで、お互いに手を出したことはなかった。
滲む視界の中、その影が本当にパブロなのか、リオが不安に思っていると、雲間に隠れていた月が顔を出し、見覚えのある輪郭を闇に浮き上がらせた。
月光で、パブロの髪が白銀に輝いて綺麗だった。
「何で、パブロまで泣いてるの……」
小麦色の頬を伝う涙の筋が月光に白く輝く。その涙はリオのために流されているのだろうか。友を想って涙を流せるパブロの高潔さが眩しくて、リオは自分の醜さを思い知った。
キルヒナーの愛を疑い、盗み聞きによってその疑いが事実だと知った。
「パブロ……僕は醜いね」
パブロは目を伏せて首を振った。長い睫毛が弾くように、涙の滴が1つ零れ落ちて、乾いた大地を濡らした。
2人は置き去りにされたように地面に座り込み、お互いを支えるように向かい合っていた。パブロがリオを見つめる瞳は綺麗な青銅色で、いつかに見た図鑑に同じような色の羽根を持つ鳥がいたのを思い出していた。
その鳥は既に絶滅して、この世界からいなくなってしまった。
パブロの手が、そっとリオの頬に触れる。まるで触れれば壊れてしまうかのように繊細な手つきで。
その手が微かに震えていた。
「リオは綺麗だ」
この世の終わりみたいな悲愴感が漂う顔でパブロが呟く。月光のせいか、顔が青褪めて見える。
唇が触れそうなほどに顔が近づき、吐息をすぐ間近に感じた。ふっと息を吐いたかと思うと、パブロは顔をずらして、リオの肩に顎を乗せた。そして強くリオを抱きしめる。
意気地なしめ。
月が雲に隠れて、辺りにまた闇が戻ってきた。リオはただ、パブロに抱きしめられていた。傷付いた心を1人で抱くのは、今は辛すぎて出来そうにない。パブロもそれがわかるのか、何も言わず、リオを抱きしめてくれていた。
男だけが残るこの世界で、子孫を残す目的もなく、婚姻を結んで共に暮らすのは、きっと人間が1人では生きていけない生きものだからだ。
その夜、門限を1時間も過ぎて寮に帰ったリオとパブロは、寮長から3日間の外出禁止を言い渡された。
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