密偵トワの迂闊すぎる話

キハンバシミナミ

密偵トワの迂闊すぎる話

 そこに居るは野に眠る猫か。丸くなりしかし張り詰めた何かを感じる。


 いや、それは猫ではない。茶色い猫の毛皮に見えたのはそうと間違えるほどに毛羽立った茶色い着物で、それが勘違いを生んだのか。

 猫に見えたのは小柄な人間だった。何処にでもあるわずかな茂みの隙間に横たわり、その人間は静かに息をしていた。やがて薄く目を開いた。しかし辺りはまだ暗い。目の前は暗闇に覆われていた。


「光在れ」どこか頭に浮かんだ言葉を呟いた。

 唐突に辺りが開けた。あっ、本当かな。妖術や神力が宿っているのかも。もしかして凄いことなんじゃ。一気に人生が開けるかも。


 目の前がゆらゆらしている。あれ、何か違う。あっ誰かに灯りを向けられてるんだ。ゆっくりと目を開いた。何か夢を見ているような感覚にとらわれた。


 目の前には灯りを持つ男、気配は薄く今にも溶けて消えそうなほどだ。トワには提灯が一つだけそらに浮かんでいるように感じられた。


「トワ。ここに居たか。見事な隠形だったな。だが呟きが聞こえたぞ。それでは台無しだ」


 その男はトワに提灯を向けたまま話した。相手の顔は見えない。提灯の明かりが邪魔をする。その光はトワの暗闇になれた目に痛くて、闇に隠れようと思った。隠れたいのはそれだけではないけれど。


 ごめんなさい、気配を消していたのではなく寝ていたの。そんな事を思いながらも口から出たのは違った。


「さすがお師匠様、見事な隠形でございます。私には提灯しか見えませぬ」


「それはそうだろう、私は後ろにいる」同時に頭を叩かれた。


 頭を押さえながら振り向くとそこには黒装束に身を包んだ男の姿があった。僅かに覗く目はしわが寄りその男の年輪を感じさせる。手には木槌に鋲を付けたような武器を持っていた。


 あれの柄でやられたらしい。ほかの場所なら血が出ている。血は出てないがただただ痛い、トワは打たれる釘の痛さを体感した。


「お師匠様、暑くありませんか。それにそのような格好では目立つのでは」


 うん、残念な師匠だ。どこで間違えたのかな。トワはそんな事を考えながら師匠を見た。


「お主が打たれる杭ほど抜きん出て優秀であればな。はぁ、このような苦労はせずにすむのだがな」溜息交じりに言葉を吐く師匠からトワは目をそらした。目の辺りから本音がこぼれたか。


「お主の顔にそう書いてあるわ」またも叩かれた。


 見抜かれないように表情に気を付けていたのに、トワは再び頭を押さえ涙目になった、同じ所を二回も叩かれたぁ。「痛いですぅ」


 師匠は溜息をついた。このやり取りがばからしく思えたらしい。


「任務だ」息を吐きながら言った。


「はっ」トワは気持ちを切り替え跪いた。


 男は今更ながら重々しく口を開いた。


「トワ、お主の仇討ちにも繋がるやも知れぬ任務だ。唐松街道の揚松という農村は知っておるか」


「知りません」トワは正直に答えた。師匠のため息が聞こえるかと耳をすませた、が聞こえない。トワの耳に入ってきたのは予想外の答えだった。


「なれば行ったこともなかろう。その方が都合が良い、そこにある旅籠に女中として潜入せよ」


「私が女中ですか。何故なにゆえに?」


「禁制品の取引きがその村で行われていると噂がある。この城下で禁制品が密かに出回っていることは知っておろう。あの御方はそれを憂いておいでだ」


「かしこまりました、直ちに」トワは頭を下げた。


「頼んだぞ」男は立ち去ろうと踵を返した。


 トワは慌てて師匠を呼び止めた。何も無しで潜入するのか、何を探ればいいのか、助勢はあるのか、既に侵入しているものがいるのか、既に判明している事はないのか、知りたいことは山ほどある。何しろ一つしか無い命だ。迂闊に飛び込んで死にたくない。


「情報は欲しいか、まぁそこすら気が付かんようじゃ密偵にむかんか。これは偽りだ」男はさも意外だという雰囲気を僅かに見える目元で表現して見せた。


「お師匠様」トワは聞いた。私は使い捨ての駒にされたくない。


「なんじゃ」


「もしやその黒装束、相手に思っていることを悟られやすいという理由から着ているのでは」そしてトワは遠慮が無かった。


「ばか者!」男は激高した。


「申し訳ありません」本音を突かれると誰しも怒るものだ。トワは学習した。


 トワは自分のことを棚の上の方に置き、師匠に指摘したのがよくなかった。そう思うことにした。


「とにかく頼んだぞ」

 男は今度こそ去っていった。


 すぐに気付いたトワが聞くことを聞き出したのは、そんな師匠を追いかけた後だった。


  ◇


「仇か……」トワは一人呟いた。あれから数日後のこと、どこにでもいる旅人の風体で街道を歩きながら兄の顔を思い浮かべた。


 トワが密偵として修業を受けたきっかけは腹違いの兄の仇を伐ちたい。そこであった。


 仇討ちができるのは直系の肉親でしかも侍同士の場合に限られている。他の者が仇討ちをしたいと奉行所に訴え出ても門前でつまみ出されるのが関の山だ。ここにつまみ出された者がいるのだから疑いようがない。


 仇に繋がる細い糸を見つけ出し、たぐり寄せたい。トワは師匠の言葉を思い返した。仇討ちに繋がるかもしれない任務であると確かに言ったのだ。


「しかし、援護無し、伝手も無し、おまけに街道沿いとはいえ辺りに住んでる人はみんな顔見知りな小さな集落に潜入しろとはね。あぁあ無茶じゃない。絶対に怪しまれるって」


 こりゃ長期戦になるかなぁとトワは思った。余所者がどう理由を付けて住み着いたらいいのか、考え無しの出たとこ勝負だ。


「まぁ何とかなるか。言ってたように旅籠の女中なら募集してるかもしれないし」


 そんな事を考えながらてくてく歩く。間もなく目的地だ、この辺りには強風除けのためか松並木が広がっている。遠くの山には寺が見え、鐘の音も聞こえてきた。街道沿いには茶屋も何軒かあり、団子を焼く匂いが漂ってくる。水が豊富で治水も安定しているということか、それだからか田畑も多い。


 トワは歩きながら思った。別に何てことない農村だよね。本当にここで禁制品の取引きなんてあるのかな。


 侵入しろと言われた旅籠は一里四キロ先にあるはずだ。まぁそんなに景色は変わらないだろう。トワは辺りを見回しながら思った。


「田舎って聞いてたけど、まぁまぁ人はいそうだね。目的の旅籠の周辺がどうなっているのか」


 トワはゆっくりと歩きながら旅籠の前を通った。旅籠の横によろず屋らしい店があり、旅籠と同じ棟のようだから同じ家がやっているのだろう。周囲に別の旅籠がないから潜入先はここで決まりだ。


 周囲には商人向けの問屋なのか乾物を山のように並べた店があり、他にもいくつか店屋がある。まぁ目に入るのはそんなものだ。町という感じでもない。


「うん、ここに泊まるのはよほど足が遅い人か、日が暮れた後に宿を探すようなおっちょこちょいだけだね」


 トワは口に出してからしまったと思った。犬を連れた男がこちらを睨んでいたからだ。確かその男は旅籠の近くから出てきていた。格好からしてそこの下男かもしれない。その事に気づいたトワは、後悔の前には出来ない反省をしながら先に進んだ。潜入できないかも。師匠ごめんね。残念な弟子で。


 トワは急ぎ足で歩き旅籠が見えないところまで来ると溜息を吐いた。


 さてどうするか。トワはそのまま歩きながら考えた。


 ところでトワは物事を同時に出来るタイプではない。つまりどういう事かというと。


「あっ、おっとっと」

 躓いた拍子に草鞋わらじの紐が切れ、トワは片足でつんのめった。


 あぁ悪いときには悪いことが重なるのか、なんて思いながらトワは街道の横の茂みに座り紐の切れた草履を見つめた。生憎と替えの草鞋も藁紐を撚り直す藁も用意していなかった。手拭いを裂いて撚り直すしかないかなぁ。トワはしょんぼりしながら何か無いかと辺りを見回した。


「どうしたんだい。草鞋の紐でも切れたか?」

 顔を上げると中々の男前が目の前で笑っていた。それがトワの印象だ。


「あ、えぁぁ。そうなんです」

 トワは男がなぜ笑っていたのか疑問にも思わなかった。ただほんの少しだけ恥ずかしかった。


「ちょっとそれ貸して」

 男はトワの手から草鞋を取り上げると、懐から出した藁を使い撚り継ぎを始めた。


「お客でたまにこうなる人がいるからね。いつも持ち歩いているんだ。今回はおまけだ」


 トワは男の声を聞いてなかった。なぜなら別の顔に覗き込まれていたからだ。それは舌を出し、はぁはぁいいながらトワに顔を寄せていた。

 ベロンとトワの匂いを嗅ぎ終わったのか顔を舐めてきた。


「うひゃ、くすぐったいよ」


「あっ吾郎だめだ」

 吾郎と言われた犬は主人の声に大人しく伏せた。


「立派な犬、言うことをよく聞くのね」

 トワが言うと男は自慢げどやな顔になった。


「やんちゃだけど、こいつは凄いんだ。半年前になるか、海で溺れた奴を陸まで引っ張り上げたんだ。こいつがいなかったらそいつは死んでたろう。他にもあってな、別の犬なんだが旅のお坊様がどこかで落とした経典を見つけ出したこともあったんだ。お坊様が一休みした茂みにあったんだが、大事な経典だったらしくてね、それはもう感謝されたんだ。それからな……」


 熱を持って話す男をトワは冷ややかに見ていた、顔はいいが犬を自分の子供のように愛しているのが分かったからだ。いい男だが残念だ。


 男はひとしきり話をして満足したのかある一言を話した。


「ところでもうすぐ日が暮れるけど、今夜寝る場所は決まっているのかい? よかったらおっちょこちょいが泊まるような旅籠を紹介するけど」


 トワは男が先ほど笑っていた理由に気づき、男を見つめたまま赤面した。


  ◇


「聞こえていたんですか」トワは聞いた。


「耳はいい方でね」

 笑ったその男はトワの先に立って旅籠への道を戻りながら答えた。


 気を悪くしている様子は無さそうだ。トワは心の中でほっとした。 


 具合のいいことに目当ての旅籠に案内をして貰えることにもなった。怪我の功名か。


 トワは世話になっておきながら旅籠のあてもなく先を急ぐのは心苦しいので世話になることにした。そんな顔をして天気の話やこの辺りの隠れた名所名物はないかとか当たり障りのない話をしていた。


 この男、名前はカンと言った。歳は二十後半か。勘兵衛だからカンと呼ばれているらしい。犬の散歩はこのカンという下男の常の仕事らしく、すれ違うこの辺りの者達と気軽に話をしていた。作物の具合や近所の噂話まで様々である。下男の割に評判がいいのだろうか。


 トワを連れていることは誰も気にしていない。まぁ旅姿だし旅籠の下男がうまくお客を捉まえたくらいにしか思われていないのだろう。トワにはこの辺りの土地の事情が少しでも分かるし、この気さくな男と出会えてちょうどよかった。


 そうして旅籠が目の前になったときである。


「カン、今日は肥桶を運んでないな」

 すぐ近くからした甲高い声にトワは振り返った。


 トワは密偵として訓練を受け、気配に気づける者である。だがその男は気配が薄かったのかわからなかった。ただ視界に入っていればこれほど分かりやすい者もいないなとトワは思った。


 その男は見ただけで分かる上等な着物を着ていた。この辺りの者には珍しいのでその格好は浮いていた。手には何かの道具が入っているのか持ち手の付いた木箱を提げている。


「藤兵衛先生、帰りですか?」

 カンが丁寧な口調になった。


 先生などと呼ばれていて、身なりからすると医者か薬師だろうか。トワはカンと大して年齢も変わらないようなこの男が医者の類いとは随分若いなと思った。そして偉そうな態度といきなりの蔑んだ態度にトワは眉の付け根を寄せた。


「あぁ、山田のじいさんが明後日あたり山でな」

 藤兵衛はカンにそう言ったかと思うと、お前には関係ないことだと急に目つきを鋭くしてカンを睨んだ。そしてトワをチラと見ると踵を返して去っていった。


「お客さん、すまんね。不快な思いをさせて、普段はいい先生なんだけどね。何かにかかりきりになると不機嫌になるんだ」

 カンはトワに軽く頭を下げると、旅籠の入口はこっちだと歩き出した。


「あの人は医者ですか」トワは聞いた。


「あぁ、正確には医者になりきるまえに師匠に死なれたから半分だけ医者だな」

 カンが笑いながら教えてくれた。


 トワはあれが人を治すなんてと信じられなかったが、そんな事を言っても仕方ない。こんな田舎で医者の類いが居るだけありがたいことなんだろうと納得すると、カンの後を追って旅籠に入った。


  ◇


「いらっしゃいまし」

 カンについて旅籠に入ると初老の女が出迎えの声を上げた。


 若い女やいい男なら客も増えるだろうが、この感じだと若い女中は居ないかもしれない。もしかしたらそこを見越して女中として潜り込めと言われたのか。


 トワはそんな事を思いながら草鞋を脱ぎ、足を水桶で洗った。客は他にも数人は居るらしいが、部屋が余っているらしく相部屋にはならなかった。


 そしてその夜、トワは寝床で横になりながら考えていた。


——まずは兄の仇の手掛かりを掴むこと


 これが第一の目的だね。師匠は仇に繋がると言った。突如として兄を奪われ、家を失った時のことが頭に吹き出てきた。体が燃えるようだ。もしかしたら客として仇が現れるのかもしれない。この辺りの何処かに潜んでいるのかもしれない。些細な手掛かりも見逃さないようにしなくては。


 ただ、潜入の目的はそれだけではない。トワは任務に思考を巡らした。


 とにかくこの旅籠に女中として潜り込む、明日にでも働きの口がないか聞いてみよう。お金がないことにして同情を引けばどうだろう。トワはそんな皮算用をしながら任務を整理した。


——禁制品は唐薬種とタイマイとかいう鼈甲べっこうらしい


——密かに運ばれてこの辺りで取り引きがされているのは確かである


——禁制品は城下町に流れ込んでいる


——関所を避けるために海路が使われている可能性があるが、この辺りは船が海流の影響で近づけないので、どうやって陸揚げしているのかが謎である


——陸路とした場合、関所を避けるような道もなく、突然この辺りに禁制品が現れていることになる


 うん、つまり取り引きのことは何も分からないって事ね。トワは溜息をついた。師匠からの援護はないだろうしな。


 地道におかしな所がないか外に出る用事とかでこつこつと調べるしかないかなぁ。やっぱり気長に調べるしかないよね。何かこうササッと情報が来ないかな。あっそういえば得た情報は誰にどうやって誰に渡せばいいんだっけ。まさか一人で禁制品の出所に潜り込んで解決しろなんて事無いよね。師匠、何とかしてよ。


 トワは考えれば考えるほど自分が何をしているのか分からなくなってきた。今やれることは少ない、女中になったとして、まずはここに馴染んで警戒を解くしかないと決め、トワは目をつぶり横になった。


 今は何てことないただの客だ。動き回れない。


 ……しばらくしてトワは誰かの気配を感じた。


 あっ見られてる。まさか客だけど既に怪しまれているとか。いやいや客になったのは偶然だし。それとも変態の仕業とか。襲われたらどうしよう。やっつけたら駄目だよね。トワは内心で焦ったが、気付かれるのは駄目だ。相手の出方を窺うしかないなと気配を探っていた。


 その気配はしばらくして霧散して消えた。何だったんだろう。トワは余計に眠れなくなり、ただ横たわっていた。


 犬の鳴き声が聞こえてくる。そういえばカンは犬の世話をしていたな、番犬を出し抜いて夜に調べ回るのは苦労しそうだ。そんな事を思いながら朝を待っていた。


  ◇


「お客さん、お金ないの? 何で泊まったの」


 朝から旅篭、唐松屋というらしい。その主人の恰幅がいいおっさんに詰め寄られていた。お金がないから女中として働かせて欲しい作戦なのだからトワは頭を下げ続けていた。


「すみません。これしかないんです」

 トワは銅銭を差し出した。三十文くらいはある。


「負けてもあと五十文は貰わないとね……村役人を呼ぶかい」

 旅籠の女将さんが主人らしいおっさんの顔を見た。


「ごめんなさい。足りない分を働かせて貰えませんか。どちらにしてもこの先の路銀もないので」

 トワは平身低頭した。


「うぅん、そうだなぁ。オツル、どう思う?」

 おっさんはオツルと呼ばれた女将さんを見た。


 トワはそんな様子を上目づかいで見たが、あっと思った。二人とも顔がにやついている。ていのいい下働きが手に入ったと思っているのかも。そうか、そう見えているのか。ならば。


「何とか働かせて貰えませんか」

 トワはオツルさんを見ながら重ねて頼んだ。将を射んと欲すればまず女将さんを落とそう。


「下働きならいいんじゃないのかい。女手なら丁度いいし、ねぇあんた」


「オツルがそう言うならしばらく働いて貰おうかね。よし、路銀が貯まるまでは働かせてやろう」


 おっさんは渋々と言った雰囲気を精一杯だしながら拾いものという顔をしていた。トワは若い。働きがいいかは分からなくとも、街道を通る人を呼び込むのに使えると思っているのだろう。


 トワは顔では申し訳ない顔をしながら、心の中でニンマリとした。出たとこ勝負で潜り込むのに成功するなんて、何て運がいい。これも日頃の行いだね。鼻歌でも出そうだったが慌てて口を押さえた。


「おい、カンどこにいる。ちょっと来なさい」

 おっさんは、いやこの旅籠の主人でマンゾウという名前らしい。そのマンゾウは下男のカンを大声で呼んだ。


 他にお客もいるのに商売的にいいのかとトワは思ったが黙っていた。せっかく上手いこといきそうなのに水を差すこともない。


「呼びましたか、旦那様」


 カンは掃除でもしていたのか着物を襷掛けにして埃っぽい格好でやってきた。トワを見てまだ客がいると勘違いしたのか慌てて襷掛けを解き、格好を直した。マンゾウはそんなことは気にする風もなくに言った。


「来たかカン。お前が昨日呼んだ客だがお金がない。ほんとなら役人に引き渡すところだが働いて返すと言うんで、仕方なく働いて貰うことにした。お前が面倒を見ろ。仕事はよろず屋の取り次ぎと旅籠の呼び込みだ。それ以外の時間は犬の世話をさせておけ。逃げられたらお前から取るからな」

 マンゾウは威丈高にカンに言った。


「わかりました」

 カンはトワを見ると残念そうな顔になった。


「トワと言ったよな。付いて来てくれ。仕事を説明するから」


 トワはカンを見て悪いことしちゃったなとちょっとだけ思った。


「銭無し宿なしを雇ってやろうってんだ、しっかり稼がないと役人につき出すからね。それからこそこそ悪さするようなら容赦しないよ。あんたには首に鈴が付いてるからね」

 トワの去り際に女将のおつるから声が飛んだ。


 トワはうっかり聞き流しそうだったが、かろうじて承知しましたと返事をするとカンに付いていった。


 店の裏手に行きながら、もしかしたら夜に様子を伺っていたのは女将さんかとトワは思った。勘である。ただそうだとしたら、この女将は客にまで警戒をしていることになる。何がここにあるのだろうか。事を急がず、この夫婦の信頼を得るところから始めるべきか。トワは心内こころうちで悩みながら、カンの後ろに付いていった。


「女将さんの物言いはいつもだから気にすんな。少し前に旦那に浮気されてからちょっとばかしうるさくなっちまったのさ。特にあんたみたいな……なんでもない」カンは言い淀んだ。


「私みたいななに?」


「いや、それよりもここが犬小屋だ。立派だろう。旦那様は犬がことのほかお好きでな、どこからか珍しい犬を連れてきて、おいらが育てている。実はなもうすぐ子犬が産まれるんだ。ほら奥にでかいのがいるだろう。昨日話した海で溺れたやつを助けた犬の子種が入っている」


 トワはむしろ人より優遇されている犬小屋に驚いていたが、田舎だし土地はいくらでもある。この辺りとしては大店であろう主人が大事にしているならこんなものか。


「いかん、あれは産まれるぞ」


 犬の様子を見たカンは慌てると、トワにあれこれと興奮気味に話をし、経過を見守った。片時も離れようとしないカンに言われてマンゾウやオツルに犬のことを伝えたり、カンの食事を運んだり、なかなかに忙しかった。マンゾウが犬好きなのは本当のようで、それならば今日と明日は犬の世話に専念しろと言われた。


 犬はあっさりと出産し、翌日にはカンも目を離せるようになった。カンは慣れたものである。初めてではないのだろう。


「いや助かった。トワのおかげで犬も無事に産まれたんじゃないか。見てみろよ、かわいいな」


 カンはなぜか感謝の言葉が絶えなかったが、トワはこれといって何もしていない。その事を言うが。


「いや、おいらが犬の世話に集中できたから子犬が無事だった。それはトワのお陰だ」と言う。


 そんな態度からこの男は犬好きなだけでなく人間にも下心満載なのだろうとトワは思った。トワはそんな男を見てきたからだが、何日か仕事をする中でそうでもないことが分かってきた。


 これは犬好きで底なしにいい人で何も疑えない男なのか。トワは愛想笑いをしながら、心の中では密偵として潜り込んで騙していることに罪悪感すら感じたほどだ。


「そういえばトワは旅の途中だったんだろ。どこに行くつもりだったんだ? 文くらいは出した方がいいんじゃないか」


 カンは犬の世話をしながら何気なく話をしてきた。


 トワは路銀もないのに旅をしていた理由を聞かれるだろうと思っていたから、遠くに嫁いだ妹が子を産んだから顔を見に行こうとしたとか、病気の母に会いに行く所だとか、適当な話をするつもりでいた。


 だけど、口から出た言葉は違った。

「ん、いや。急ぐわけではないけど、人を探しているんだ」


 迂闊だった。あぁもう何で違うこと口から出たかな。トワは自分の口を恨みたくなった。


 しまった顔を違う意味に捉えたのかカンは申し訳なさそうな顔をした。

「あ、いや言いたくないならいいんだ。ただちょっと気になっただけだから」


 ああもう。仕方ない。ある程度は話そう。もうしかしたら何かの手がかりになるかもしれないし。旅籠なら客として現れる可能性もある。


「いいよ。この付近で見かけたっていう噂を聞いたんだ。額の右に大きいホクロがあるんだ。一目見れば忘れようとしても忘れられない」


 カンは顎に手をやりながら、ニッと笑った。笑顔がさわやかだ。


「もしかして、最初からここで働くつもりでいたのか。この付近でその人を探すつもりだったんだろ。確かにここで働けば見つかりそうだな」


 トワは目を見開き、失敗を悟った。このカンという男はやけに頭が回る。そこまで見抜かれるなんて予想外だ。気をつけようと思った。


「カンこそ何でここで働いているのさ、こんな田舎の宿の下男で収まる人間に見えない」

 こんな時は話題を逸らそう。それが一番だ。


「おいらか、おいらは母様の療治のためさ。病気でね。この辺りなら空気もいいし、良治には丁度いいからね」カンは言った。


 『母様』か、言い方が庶民じゃない。トワは思ったが、あまり聞くのはやめておこうとも思った。逆に聞かれてボロが出そうだ。この男は、私より頭が回る。


 カンは何か事情がありそうだがいい人なのは分かった。だけど密偵としてのトワにとっては関係ない。トワの任務は禁制品の取引きを探り出すこと。とにもかくにも仕事に慣れ、周囲の信頼を得なければ村を探ることもままならないのだ。トワはその一心で仕事に励んだ。


 そして、仕事にも慣れてきたある日のことだった。カンが朝からそわそわとしていた。


「ちょっとトワ、後は頼むな。おいらは母様の様子を見てくる。朝から咳き込んでてな」


 そういうとカンは仕事を途中で切り上げマンゾウにひと声言い、帰っていった。


 この店からほとんど出られていないので分からないが、下男で通いで働いている。もちろん『母様』の世話のためらしい。マンゾウもオツルも認めていることも含めて、不思議な関係だなとトワは思っている。これがこの辺りの普通か、主人夫婦が存外といい人かもしれない。母親を一人で養い、病気の面倒をみながら通いの下男で暮らせるのだから。


——そうだ、外に出る口実があるじゃないか。


 働いて一週間は経っている。カンには世話になっているから、カンの家にお見舞いに行くと言い、そのまま村の周辺を見てこよう。トワはそう思いつくとマンゾウに見舞いに行く許可をもらいに行った。


「ああ、行っといで。早めに戻ってこいよ」あっさりと許可をもらえた。


「トワ、外に出るなら和尚様のところに届け物してきておくれ。このあいだカンと一緒に使いに行った所だから道は分かるね」女将のオツルさんからはしっかりと仕事をいただいた。


 奉公はつらいな、いやお使いで出させて貰えるなら私は運がいいのか。うん。田舎だしゆるいんだな。トワはそう思った。無銭宿泊した者をこんな簡単に信用して外に出すなんて。まぁここまでに働いた分で宿代くらいは返しているだろうし。いなくなっても困らないのかな。それはそれで必要とされていないみたいで、ちょっと悲しいかも。いやいや、しかしながらこのゆるさと禁制品の取引きが結びつかない。それはそれで問題だ。


 トワは腕を組んで首を傾げながら歩いていた。ところでトワは同時に二つのことをできない。つまり、どういうことかというと。


「うわっと」しっかり転んだ。石にでも刺さったか膝から血がでている。痛いなぁと膝を見てると後ろから声が聞こえた。


「なんだ、今日はお守りはいないのか。子供が一人で歩くから転ぶんだ」


 後ろを見ると、半分医者の藤兵衛が両手を袖に入れて腕を組み、笑いながら立っていた。今日は機嫌が良さそうだが嫌味な口調だ。トワは舌でも出したかったが半分でも医者は医者、村での立場は雲泥だろう。自重した。


 自重した自分を内心で褒めながらトワは言った。

「カンは母様のところです、私は寺の和尚様の所にこれを持っていくところですから」


 トワは手に持った風呂敷包みを軽く持ち上げた。藤兵衛は無表情でトワを見つめると言った。


「何だ、子供の使いか」


 トワはいちいち突っかかるこの藤兵衛という男が嫌いだ。この村に来たときから何が気に入らないのか会うたびにトワを目の敵にしているのだ。カンが気にすることないと言うから静かにしているが、そうでなかったら闇討ちの一つもしてやるところだと、トワは内心穏やかではなかった。


「暇そうで結構なことですね。今日はもうお仕事終わりですか」


「こうみえても、忙しい」


「そうですか、医者が忙しいのは病気が治らないからですか」

 トワの嫌味が通じたらしい。藤兵衛は途端にムッとした顔をした。


「往診だけが仕事じゃないんだわ。子供には分からないだろうがな」


「それはそれは、その忙しい藤兵衛先生は手ぶらでどこにお出かけですか」常に持ち歩いている薬箱を持っていない。つまり往診ではなく別の用件のはずだ。


「なにちょっとな」なぜか言葉を濁すと、藤兵衛はそっぽを向いた。


 ちょっとではない何かあるのか。トワが首をかしげた。だが藤兵衛はそれ以上話す気も無いらしい。


「足を診せてみろ。……あぁ擦りむいただけだな」藤兵衛は腰の竹筒を外すと傷口に垂らした。


「うわっ痛い」


「よく洗わないと腐るからな」藤兵衛は怖いことを言った。


「足が腐るとどうなるんですか」


「食えたもんじゃなくなる。あぁ骨と皮ばかりじゃ食べるところもないか」トワは食べ物扱いかと心内で毒づき、嫌味返しにムッとした顔で立ち上がった。


「和尚様が待っているといけないので失礼します」トワはそっぽを向いて藤兵衛の横を通り過ぎた。


「ああ、和尚様なら暇そうだったからな。急ぐといい」藤兵衛は笑いながら歩いていった。


 トワはやっぱり舌でも出してやろうかと思ったが我慢した。狭い村だ、どこで誰が見ているか分からない。


 お寺に着き、和尚様へのお使いはすぐに終わった。頭を下げて寺を出る。トワはカンの家に向かいながら怪しげな場所の条件を考えていた。


——まずは夜半とは限らないが、人の出入りがあっても不審に思われないこと。


——次にそれが頻繁にあっても不審に思われないこと。


——次に荷物の出し入れが容易であること。


 そこまできてトワは気付いた。この辺りで条件に合いそうな場所って、働いている旅籠くらいだと。


 そもそも農家ばかりで店屋がほとんどない。あるのは小さい商売ばかりでとても闇の取り引きが行われるとは思えない。他なら庄屋様の家か、寺と神社か……いやでも神様や仏様がいるところでそんな事はしないよな。やはり潜入させられるくらいだからそういう事なのか。いやでも主人夫婦含めて何だか緩いしな。


 ところで繰り返しのことだがトワは同時に二つのことをできない人間だ。つまり、どういうことかというと。


「うわっと」「あぶない」

 包み込まれる感覚にほっとしながら見上げると、カンの顔が間近にあった。トワは思わず顔を背けた。見せられる顔じゃないことを自覚した


「トワ、大丈夫か。怪我は無いか」カンは真っ直ぐにトワを見ていた。


「あっはい。大丈夫です」トワは素直に頷いた。


「トワはそそっかしいからな。雪子より心配だよ」

 雪子というのは先だって子犬を産んだ母犬のことである。子犬を抱えた母犬よりも危険扱いらしい。


 トワが思わず頬を膨らませてカンを見ると、カンは嫌味の無い笑い声をあげた。


「そういえば母様の具合はどうでしたか。お使いの帰りなので寄ろうかと思っていたのですが」トワが聞いた。


「あぁ、大丈夫だ。ただの風邪らしい。藤兵衛が煎じた薬が効いてな。あれでも優しい奴なんだ」そう言ってカンは気が付いたらしい。


「そういえば母様にトワを紹介していなかったな。母様の風邪が治ったら行こうか」カンは言った。


「いや、そんな。悪いし、紹介だなんて」


「そうか、まぁ数日で母様も元気になるさ。その時にな」カンはトワの頭を軽く叩いた。


 トワは何で子供扱いなんだろうと感じながらふと疑問を覚えた。


 このカンという男は下男をしているにはおかしな点があった。何より目端が利く、よろず屋の配達に付いていけば近所の人が話しかけてくる。そういえば働きだしたときもそうだった。そしてトワに下世話な視線を見せることもなく、それどころかトワの過去を聞き出そうともしない。


 あれやこれやとトワが馴染めるように面倒を見る。愚直で不器用でも頭の悪い人間でもなく、それなりに教養もありそうだ。思い付くだけでいくつも不思議なことがある変な男だとトワは思った。


 ただ悪いことをしそうでは無い。旅人が忘れた巾着を中身も見ずに追いかけて渡したり、私の時も草鞋の紐を直してくれた。笑顔も素敵でむしろいい人の部類だ。それに一緒に居ると安心する何かがある。いやいや、トワはかぶりを振った。そこじゃない。


「うん。怪しくない」トワは希望を述べた。


「トワ、急にどうした」「あっいや何でも無い……です」

 トワはカンの顔を見れなかった。


  ◇


「一晩頼めるかい」数日後、男が旅籠に顔を覗かせた。背の背負子には荷物が山のように積まれている。行商人だろう。旅慣れた雰囲気が感じられた。


 トワは表を竹箒で清めていたが、その手を止め挨拶をした。お客様だ。


「お早いお着きで。今ご用意をいたしま……す」

 あげた顔を見たトワは思わず言葉に詰まった。


「ちょっと早いが、荷物を整理したいんだ。部屋が空いていたら通してもらえるかい」


——師匠……。トワは思わずつぶやいた。


 目元だけは見間違えようもない。修行の時は常に黒装束で、暗器を使った戦いのイロハを叩き込まれ、座学となれば密偵としての心構えを淡々と語り、お経のような口調にうっかりトワが寝ようものなら夕食に死なない程度の毒が盛られた。そしてトワが苦しむ様を冷静に観察していた。その師匠であった。トワはその辺りの若干の恨みを込めて師匠を見た。


 その師匠は草鞋を脱ぐと女将に宿代を前払いしてとっとと部屋に入っていった。


「トワ、何ぼうっとしているんだい。手が止まってるよ」オツルさんから小言が飛んでくる。


 そうだ、何か指令があるのかも。


「お客様にお茶を出してきます」トワはお茶の用意をすると部屋にいるはずの行商人のところへ向かった。


「本日はお越しいただき誠にありがとうございます。当館のご案内をいたします。厠はここから出て左に行き……」トワは説明をしながら行商人を観察した。どこからどう見ても師匠だ。目元、背格好、声色は変えているがトワにはわかった。


 その師匠は落ち着いた様子で下ろした荷物を開いていた。畳の上に取り出したのは何かの薬種とべっ甲でできた櫛のようだ。その様子を見ていると、スッと紙が差し出された。


『人前でぼうっとするな、悟られるだろう。馬鹿者。先ほども言葉を詰まらせおって』そう紙に書いてあった。


 いきなりお小言か。それにしても出迎えの言葉が詰まることまで予想済みとは。恐れ入ったが、お小言まで紙に書いて用意していたのか。トワは理不尽な怒りを抑え、ごめんなさいと顔で訴えた。


『怪しいところは見つかったか』再び紙が差し出されたが、トワはかぶりを振りながら口では旅籠の説明を続けた。


『犬飼いがいただろう。注意しろ』カンのことか。トワはなぜ師匠が気にするのか分からず、首を傾げた。


『三日前、取引きが行われた様子がある』トワは目を見開いたが、師匠は気にも止めず。「女中さん水を用意願えないか」と言った。


「お待ちくださいませ」トワは一旦下がり、桶に水を組んで再び部屋を訪れた。外に続く障子を開け、そこに桶を置く。


 師匠は黙ってトワに見せた紙を水に浸すと、紙はスッと溶けた。これで何も残らないということらしい。師匠は天気の話などしながら紙を見せてきた。


『犬がいて迂闊に近づけなかったようだが、間違いあるまい』

『お主のことだからのんびりと周囲に馴染むことから始めていたのだろう』

『常に気を配れ、油断をするな、奴らに事を進ませるな』


 続け様に紙を見せられ、桶の水に溶けていった。そして最後らしい紙が差し出された。


『調べよ』


 トワは深く頷いた。


  ◇


 行商人に化けた師匠は何食わぬ顔をして泊まると、それ以上の接触もなく去っていった。


——少しは助けてくれてもいいのに。一人じゃ手が回るわけないじゃないの。


 トワは心内でぼやきながら仕事に戻った。師匠の情報は本当だろうか、と疑いすら憶えるほどである。


 そしてまたひと月ほど経ったある日のことである。ちなみにトワは何も掴めていなかった。


「トワ、雪子の散歩をしてきてくれ」カンが犬の散歩を頼んできた。犬の世話はおいらの仕事だと、トワは犬小屋の掃除ばかりだった。珍しいとトワは思った。


「行ってきます」


 遂に信頼されたのか。トワは内心では喜びながら犬の散歩に出かけた。太平洋は日本晴れだ。


「あっ」


 店を出てからカンの動きに注意しろと言われたばかりだったことを思い出した。うっかりに気付いたが、引き返す気も起きない。


 師匠は注意しろと言ったけど、悪い人なわけがない。私が一番よく知っているんだから。トワはどうしてもカンを疑う気になれなかったのだ。それに犬好きに悪い人はいないって言うし。トワは自己弁護に忙しかった。


「こんにちは。今日はカンはいないのかい」


「私ひとりです。遂に散歩を任せて貰えたの」


 トワは近所の人に挨拶しながら連れている犬の雪子を見た。この犬は母犬になってから気性が穏やかになったのか、懐いてくれたのかどちらか分からないがトワを見ても吠えない。


「もし、そこの者。ちと道を尋ねたいのだが」しわがれた声が聞こえた。


 トワが顔を上げると侍らしき男がこちらを見ていた。いわゆる旅姿である、街道を歩いているくらいだからそれは珍しくもない。


 その侍は油断も隙も無く鍛え抜かれ、大小が小さく見えるほどがっちりした体格に、足腰でどっしりと地面を踏んでいる。なぜにそんなに力が入っているかわからないが、大人が数人で体当たりしても体勢を崩すようなことがないだろう。顔は……残念なところが少なくない。天は二物を与えてはいな……い。


「えっ」トワは口を押さえた。怪しさがこぼれた。


「どうしたか。大したことではない。我に見惚れるのは分かるが教えて貰えぬか」


 侍は笑い、トワの動揺など気にもせず、自意識過剰な発言を続けた。


「ん、まて。そちは……今思い出すぞ、そなたのような可憐な花なら忘れ去るはずがない。んむむ」


 トワの血管が波打った。顔を覚えられていたのか。まともに顔を見合わせたのは数回きりのはずだ。


 トワは見間違いはないと確信があった。間違いなく……兄の仇だ。


「以前、見合いをしていないか。いやこのようなところに住む娘とそのようなことはあるまい。ううむ。名を聞かせてくれぬか。思い出すやもしれん。あいや、未練など女々しいな。我に惚れたことがあるだろう。何も聞かぬ。其方も縁がなかったものと思ってくれ。……ところで道も知りたいが、草鞋も買いたいのだが、この辺りで売っているところがあれば教えてくれぬか。先ほど紐が切れてしまってな」


 トワは黙って旅籠の横にあるよろず屋を指さした。侍はそうかと、礼を言い歩いていった。


『ワンワンワン』思い出したかのように雪子が吠えた。侍がトワのことを思い出して振り向くのではないかと気が気でなかったが、何事もなかった。


——侍がどこに向かうのか尾行しよう。ここでは挑みかかっても返り討ちになる。


 潜入指令より兄の仇がトワには重い。トワは雪子を見ると、散歩はごめん切り上げさせてほしいと頼んだ。雪子は鼻を鳴らしたが承諾の合図であったかどうか定かでない。


 急がなくては、トワはよろず屋の方に向かった。


「トワ、もう雪子が帰ると言ったのか。ずいぶん早いが」カンが吾郎に縄をつけていた。どうやら吾郎の散歩に行くつもりだったらしい。


「いや、ん、そう。いや。でも、ちょっと急ぎの用事ができて」トワは怪しさをこぼしながら言った。


「まぁいい。今から吾郎の散歩行くところだから、雪子を小屋に入れといてくれ」カンは溜息交じりでトワに言い、吾郎を連れて歩いていく。


 視線をその先に向けると、先ほどの侍は店番のじいさんと話している。すぐには動かないか。トワはそう決めつけると、急いで裏手の犬小屋に向い、雪子を置いてよろず屋に向かった。


「侍? さっき来た変な顔のお侍なら草鞋を買ったよ」


 店にはすでに侍はいなかった。そしてトワには何を買ったのなどより侍がどこにいるかだ。


「それから、どっちに行ったのさ。どこか行き先言ってなかった?」


 まだその辺にいるだろう。トワが聞くと店番のじいさんはすぐに答えてくれた。


「心の臓の秘薬を作れる高名な藤兵衛先生の家を教えてくれって言ってな、ちょうどカンが通りかかったで頼んだよ。しかしそんな有名だったとは今まで知らなかったよ」そう言った。


  ◇


 トワは急いで後を追うことにした。藤兵衛の家はわかる。何かと理由をつけて嫌味を言ってくるのだ。村内を歩くときはその家をなるべく避けていた。


 街道を脇道に入り、小さな堀沿いの道を北に進む。そもそもここは農村である、家と家の間は離れていて、意外と距離はある。


 遠くに侍らしき人影がないかトワは目を凝らしながら進む。慌てるな、藤兵衛の所にいるはずだ。トワは焦る気持ちも抑えながら歩いた。走り出せば村人に不審がられる。あぁでもそれより仇だ。


 葛藤しながら歩いていると、分かれ道の向こうに人影が見えた。カンだ、吾郎を連れている。侍はいない。だが藤兵衛の家の方角だ。


「カン」「トワ、どうした」


「侍はどこ」トワは聞いた。


「侍なら藤兵衛の家にいるよ。何でも昔の知り合いで訪ねてきたとか。あいつに侍の知り合いなどいたかな」

 そんなカンの言葉に首をひねりながらトワは言った。


「知り合いだったんですね、心の臓の秘薬を調合してもらい訪ねてきたとか言ってたけど」


 何てことだ仇が藤兵衛と繋がりがあったなんて、確かに藤兵衛は何かと引っ掛かる奴だけど。そんな繋がり方は期待していなかった。


「ん、秘薬って。あいつにそんなものを作れるわけ……」今度はカンが首をひねったが、すぐ閃いた顔になった。


「その侍って、もしやトワの探し人なのか? 確かに額にホクロがあった。大きいとは思わなかったけど」


 カンは思い出すように顔を顰め、トワが慌てた顔をしているのを見ながらはっきり言った。


「そう、探していた侍なんだけど」


「だけどって。探し人が見つかったのなら嬉しいことじゃないか」


「カン、このまま帰って。私はあの侍と話をしなくちゃならない」


「トワ……。もしかして恨言の類なのか。出会った頃にその話を聞いた時、聞いちゃいけないと思ったから聞かなかった。もし何かの仇討ちとかなら、一人で行かせるわけにはいかない。それに……」


「それに?」


「トワとはここ一ヶ月くらいの付き合いだけど。女の子を一人で行かせるほど冷たいわけじゃない。一緒に行こう。そもそも手ぶらってことは物騒なことをするつもりもないんだろ」


 カンは盛大に勘違いしている。トワはそう思ったが黙っていた。カンは武器がないと思っているようだが、トワは素手でも侍を倒す自信はあった。どれほどの手練れでも侍は手元の武器に頼る癖がある。そこが狙い目だ。


 考え事をしているトワにカンは言った。


「何はともあれ、一緒に行こう。仇だなんだと言われるような奴だと、藤兵衛のことも心配だ」


 歩き出したカンは静かに何かを考えていたようだったが、少しして話し出した。吾郎は吠えもせず静かにハァハァ息をしている。できた犬だ。


「とりあえず様子を探りたいな。本当に薬の調合を頼みに来ているのなら、トワが乗り込んだことで藤兵衛まで巻き込んでしまう。おいらがそっと中を覗いてみるよ。そう言うのは得意なんだ」


「カン……もし危険なことになっていたら大怪我するかもしれない。これは私の問題でもあるんだ、私が窓から様子を見るよ。カンの言うとおり、なるべく巻き込まないようにするから」


「乗りかかった船というじゃないか。おいらに任せな。トワはおいらを巻き込むのも嫌なのかい」


 そうこう言い合っているうちに藤兵衛の家の近くまでたどり着いた。この辺りにしてはまともな家屋で納屋まである。一人でこんなでかい家に住んでどうするつもりなのか。寝るところがあれば十分なトワには理解できなかった。


 ところでトワは同時に二つのことをできない。つまり、どういうことかというと。


「うわっと」しっかり転んだ。……『ぐわんがらん』転んだ場所も悪かった。納屋の前に転がっていた薬草の加工にでも使ったであろう大鍋に手をついてしまったのだ。


「なんの音だ」家の中から声が聞こえた。「逃げようなど考えるな」誰か来る。侍か。トワはまた失敗したと落ち込みながら立ち上がった。いつの間にかカンがいない。どこ?


「ん、先程の女ではないか。我に見惚れてついて来てしまったのか。だが間が悪かったな」藤兵衛の家から出てきた侍はトワを見ると凶悪な笑みを浮かべた。


「悪いが、今は忙しくてな。そこで二つに分かれてもらおうか」侍は真顔に戻り、すり足で近づいてきた。手は腰の刀に添えている。


「ちょ、待って」トワは言ったが、侍が待つわけもなく間合いを詰めてくる。


 やばいこれは居合抜きだ。トワは慌てた。真正面からになると思わなかった。後ろに下がるが間合いに入られたら流石に勝てない。不意を付く予定だったのに、なんでこうなるの。トワは自分がドジを踏んだ自覚はないようだ。


「恨みはないが切り捨てる。恨むなよ」無茶を言われた。恨む間もなく死にそうだ。トワは焦ったが状況は万事休す、どうにもならない。


 スススススッ。何かの影が走った。


「甘い」侍が叫ぶ。刀を抜いた。


「うっ」咄嗟に飛びのいた影は間合いから出たのか。


「カンッ!」影はカンだった。だが、決死の不意打ちも対応された。カンの飛び込みも不発だ。この侍、ふざけた口調なのに手練れだ。迫る侍にトワは万事休すと思った。


「うっ」侍が刀を取り落とした。トワは目を見張る。後ろから何か。


「吾郎!」侍の後ろから飛びかかった吾郎が利き腕を噛んだのか。


 カンが侍に再び飛びかかる。侍の関節を決めた。うそ、カンて強いじゃない。どういうこと。


「トワ、気絶させろ」カンから声が飛ぶ。そうだ。今は考えている場合じゃない。トワは侍に向かった。


  ◇


「さて藤兵衛、侍とは何か関係がありそうだな」


 カンは縛られたままの藤兵衛を家から引きずり出してきた。


「早く解けよ。侍とは初対面だ」


「はて、では侍の懐にあったこの書き付けはなんだ。面白いことが書いてあるぞ」カンはいつの間にか書き付けを持っていた。


 藤兵衛はトワが見ていて面白いほどに顔色を変え、項垂れた。何かあるらしいがトワはさっぱりだった。


「トワ、お前には悪いがこの始末はおいらに任せてくれないか。トワの気が済むような決着にはするつもりだ」


 カンはトワの顔を見ていった。真面目な目がトワを見つめていた。ここにきてトワには何となく事の次第が読めてきた。


 トワは周囲をグルグルと見回すと、庭にあった大きな木の上を見上げた。視線を感じたのだ。


「お師匠様、そこから降りてこられては如何ですか? 今から大人を二人運ばないと行けないのですから」


  ◇


「師匠、私を試していたんですね」


 大八車に侍と藤兵衛を乗せ、師匠とカンが押し引きして旅籠戻った後の事である。


「どこで気付いたのじゃ。だがわしは嘘は付いておらぬぞ。最初から偽りであると言ったしな」師匠は真顔で言った。トワはそんなことあったかなと首を傾げた。だがともかくと話をしようと口を開いた。


「最初はこの旅籠が取引きの現場であると思いました、他にめぼしい建物がそもそもないですから。ですがどのように観察してもそのような動きがなかった。村のどこか別の場所かとも思いましたが、村全体で取引きを隠蔽するのは不可能でしょう。であれば人の動きがすぐに知れる村内ではない。すると他所者がいるのが当たり前な街道以外の場所での取引きも考えにくい。そして……」


 トワは師匠の後ろに座っているカンを見た。


「カンが普通ではない」


「おいおい、おいらは普通の人間だよ。確かにトワの事情は元々聞いていたから変なところがあったかもしれないが」カンは手を振りながら否定した。


「いや、事情があって母親の療治をしながら働かせてもらっていると言うことは、まだ理解できました、事実そうなのでしょう。ですが、身のこなし、犬の扱い、武術の心得までもあり、かといってその動きは武士の出とも違う。今回の事件ではっきりとわかりました」


「そうか、よく見抜いたな。まぁ見抜けるようにもしてはおったが、気付くのが遅い。それに迂闊すぎるぞ」


 師匠はトワを褒めると見せかけて叱った。トワもまぁ間違ってないかと思ったのか黙っている。


「確かにトワ、お前への試練であることが一つ。もう一つはこの村の密偵上がりの人間の訓練のためでもある。中身はただの海産物ではあるが、修行を兼ねて取引きの真似事をしたのも事実じゃ、それには気づかなんだろう」


「確かに全く気づきませんでした。ですが今の話で今回の件、想像はつきました。その取引きに便乗したものがいたと」トワは転がっている藤次郎を見た。


「そのとおりだ、具合良く不穏分子を捕まえることができた。此奴らには働いてもらう。腐った根は引き抜かねばならぬからな」師匠は藤次郎と侍を見た。


 腐った根を引き抜いた後はどうなるのか。だがトワにはどうでもよかった。あれほど仇に拘っていたが、終わってみれば仇の命などどうでもよかったのか。少し胸が空くような気がした。


「ところで、密偵上がりと先程おっしゃいましたが、それはどういうことですか」トワは師匠を見つめた。


「うむ、聞きたいか。この村はな、潜入者として役目が終わった者達の受け皿でもあるのだ、ここで次のお役目が来るまで待機する。もちろん病んだものなどの療養地でもある。これも駒を大切になさる御方の心遣いよ」師匠は思い出し感激でもしたのか声が詰まった。


「へぇ、それで何で私を騙してまで送り込んだのですか、腑に落ちません」トワは師匠を冷たい目で見た。凍死しろと思ったがそうはいかなかったらしい。師匠は身震いするとこう言った。


「トワ、ここのカンと共に旅籠を継ぎ、忍び宿として盛り立てよ」


 トワは目を開いた。


「何ゆえですか。私は顔も知られていない。密偵としてこれからも動くとばかり思っておりました」


「うむ、その気持ちはわかるがな。お主は密偵としては迂闊すぎる。ヘマをして死ぬのが落ちだろう」


 キッパリと師匠は言い切った。トワは否定できなかった。全くもって確かにそのとおりだ。言い返す言葉もない。トワの頭に迂闊な場面が次々と思い出される。


「カンと夫婦となり、この村を盛り立てるのも立派なお役目であると思うぞ」


 トワは俯き、しばし考えをまとめていた。やがて顔を上げてこういった。


「嫌でございます。私はカンと夫婦にはなりませぬ」


「なぜだ、これほどの好条件な男はおらぬぞ。私が保証する。密偵として密かに死に逝くより、どれほどの幸せがあるか」


 トワは師匠をまっすぐに見て、不敵な笑いを浮かべた。


「私の事、女だと思っておいでで? 私は一度もそう言っておりません」

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密偵トワの迂闊すぎる話 キハンバシミナミ @kihansenbashi

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