#12 それは天の国のように
私は生涯、聖教で語られる天国という名の死者が行く先を信じられなかった。
今生がどんなに辛く貧しいものであっても、善良に生きれば極楽の国に行ける。そんな在りもしない世界を信じさせ、まともに生きられない者にまで清廉を強いる口実であると。
まして、生前結ばれなかった者達がそこで再会できるなど――
だが私は今、天国の存在を信じるほかないらしい。
私は今、寝台の温かく柔らかい布に包まれていた。見たところ屋敷の一室のようであり、窓からは布越しに穏やかな日光が注ぎ、鳥の鳴き声が聞こえてくる。
そして……目の前の椅子にはアルフォンスが安らかな寝息を立てて座っていた。
そう、現実ではありえない光景だ。
なぜ氷雨が降り注いでいた陰鬱で薄汚れた駐屯地から、このような豪奢で快適な場所へと移動しているのか。なぜ長らく続いている戦争のいち指揮官であるアルフォンスが、こんな昼間から眠りこけているのか。それはここが天国であるからに他ならないからだろう。
ならば結局、私の術の甲斐もなくアルフォンスは黄泉還らなかったということであろう。けれどもそれが不思議と悲しくはなかった。どんな形であれ、彼と再会できたのだから。
「…………ん……」
アルフォンスが目覚めたようだ。開かない重い瞼を、頭を振って何とか醒まさせようとしているような様子であった。そしてその目は私の方へと開いた。
「ああ……またこれか……」
「おはようアルフォンス様、私達……天国へ来られたのですね?」
「天国……? すまないがいつまでも寝てられない、そろそろ起きなければ……」
何を言っているのだろう。彼はもう起きているではないか。それとも……
「ではこれはひょっとしたら……貴方の夢かしら? だとしたら貴方が目覚めてしまえば私は消えますけど……でも、その前に貴方を見られて嬉しかったですわ」
彼は伸びをして大欠伸をした。かつての彼では考えられないような動作。下瞼の濃い隈は、それほどまでに疲れているということなのだろうか。
そうした後にもう一度私を見たアルフォンスの顔が、徐々に信じられないものを見るものへと変わってゆく。
「いや……夢……じゃない」
「…………はい?」
「このように、君が目覚めていた夢を何度も見た。だが……」
彼の顔が、心底嬉しそうに綻んだ。
「君は……本当に、目が覚めたんだな」
彼は本当に何を言っているのだろうか。その言葉を聞いた瞬間、胸骨の下に感じる鼓動、呼吸と共に上下する胸郭の感覚が急に意識された。自分は……生きていると。
「ちょ……ちょっと待ってください、これが現実? どこからどこまでが夢なの?」
私は自らの生命力の全てを彼に捧げたのだ。二人とも生きているなどありえない。ならばこれはどういうことだ。もしや……
「アルフォンス様が瀕死で戻ってきたことまで、あの長い夢の続きだったの?!」
「長い夢? 違う。俺が死にかけた……いや、一度死んだのは事実だ」
「っていうか、ここはどこですか?! 戦争の最中に、昼間から寝てる余裕なんて……」
「戦争は終わった。君が眠っていた三ヵ月の間に、聖教国と帝国の条約締結によって」
「さ、三ヵ月……?!」
首に手を当てた時、刈り上げられていたはずのうなじの髪が指二本分ほど伸びていた。
「な……なぜです? だって私はあの時……その、私が生きているはずがないです!」
「なぜ生きてるかなど些事だろう。俺と君が共に生きている事と比べてしまえばな」
「で、でも……」
「君は喜べないのか。お互いに生を得られた事を」
「わ、訳が分からなくて受け止めるどころではありません! どうして……」
せっかくの再会の時にあれやこれやと騒ぎ立てる私を見てアルフォンスは仕方ない、とばかりの態度で立ち上がった。そしていつかやってみせたように私の服の前を開き、聞き覚えのある詠唱を始めた。
鏡は無かったので、私は思い切り顎を引いて自分の胸元を見た。
「……何も、ない……?」
以前、私の胸元全体に表れた奇妙な紋様は、その残滓すらも見えなかった。
「えっと、確か……ま、ましょ……」
「魔傷痕。これが消失した事が、君が意識を取り戻した要因なのではないだろうか」
「ど、どういうことですか?」
「推測だが……魔傷痕は術者の体内に残留して害する魔力だ。君が俺を蘇生させるために全ての魔力を注いだ結果、それもまた君の身体から抜け落ちた。そして長い昏睡の中で死霊術によって蝕まれた部分が回復し、目覚めるに至ったのだろう」
「そ……そうだったのですね……」
やはり、アルフォンスは私が禁断の死霊術によって彼を黄泉還らせようとしたことを知ってしまっている。彼があれほど死霊術を使うなと、自分の命を投げ打つようなことをするなと言っていたのに、私はその想いを裏切った。
「す、すみません……怒って、いますよね……?」
「いや、それを知った当初は憤りもしたが、君が目覚めた以上はどうでも良い事となった」
「えっ、もうどうでもいい?」
「君は今、感じるか? 自らの中に流れる魔力を。魔道を行使出来るか?」
「…………まさか?!」
はっとして前方に手をかざす。死霊術の詠唱を軽く諳んじるも、その一連の動作に魔力の流れは欠片も感じられなかった。
アルフォンスを蘇生させた禁術は私の命を奪うことはなかったが、その代償として私は魔力の全てを失ったのだ。
「そうですか……もう私は死霊術士でも、一介の魔道士ですらもなくなったのですね」
これで良かった。そう頭で言い聞かせても、心の落胆は覆い隠せなかった。魔道学院に拾われて以来、生涯を捧げて磨いてきた自分の才能が消えてしまった。
これから私はどう生きればいいのだろうか。私に残されたのは中途半端な医学と薬草学の知識だけ。戦争が終わった今、私は世に必要とされるのだろうか……
突然、アルフォンスが私の左手を取り、その指に何かを通した。
「……更に、痩せたな。今のままでは自然に外れてしまうかな」
「これは……何でしょう?」
その薬指に通された金属製の輪には、私の瞳と同じ赤い宝石が嵌められていた。
「俺に甘い言葉は備わっていないが……もし君が目覚めたら、言うつもりでした」
「え……あの、その……なにを」
これは、まさか。いや、そんなはずがない。これはまるで……
「俺は君を妻に迎えたい。夫として生涯を君と共に歩むと誓おう」
アルフォンスは跪いて私の左手に口づけをし、私の瞳を見上げて言った。
「俺が愛するように、君も俺を愛してくれるか」
「え、えっと……うそ、本当ですか?」
「ああ、本当だ」
「あ、あの……無学で無粋ですみません。でもこれって、男女が……」
「君が想像する通りの事だ」
「そ、そんなっ、急に……私、どうしたら……」
両頬を手で覆い、動転する心を必死で抑えた。差し出された現実が、時間差で私の全身を熱くする。つい先程まで自分を死んだものと思っていたのに、こんなことが現に起こっていいのだろうか。ひょっとしたらこれこそが今際の夢なのではないかと、自分の頬をつねる。
「い、いえっ! 私なんかが……だって貴方に対して、私は……」
アルフォンスは、卑屈に戸惑う私に対して言った。
「君なくして俺は生きていない。命そのものの恩がありながらも、君はまだ俺を飽きたら捨てるような不義理な男だと思っているのか?それは流石に侮辱が過ぎるな」
その口調とは裏腹に、彼は片眉を上げて朗らかに苦笑していた。
「で、でも……貴方の妻となって、これから……」
アルフォンスは指で私の口を優しく塞ぎ、軽く首を振った。
「俺はまだ、君の返答を聞けていないな」
……そうか、このような時は、まず差し出された愛に対して自分の気持ちを伝えるのだ。
この言葉を心の底から他人に言う日が来るとは思っていなかった。
自分は生涯を一人で終え、誰にも看取られずに死ぬものと思っていた。
頬を熱いものが伝う。ああ、たったいま私は、ようやく自分が帰る場所を見つけたのだ。
「……愛しています。アルフォンス」
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