#9 残酷なまでに甘い夢


 とても、長い夢を見た。


 身体が不調を訴える時はとりわけ荒唐無稽な夢を見る。

 夢は嫌いだった。回想される過去の記憶に、楽しさなど欠片もなかったからだ。


「……これは……あれ、さっき……」

 初めに見せられたのは眠りに落ちる直前の下りの回想だった。

 夜、アルフォンスの天幕へと入り、何かを彼と話したのちに机へと押し倒され、前を開けられる。だから私は、時が巻き戻ったものだと勘違いした。


 だが、私を組み敷く彼の様子は先程とは異なる熱を帯びていた。


「ひゃっ?! んっ……!」

 アルフォンスは何も言わないまま、私の乳房の間……そう、胸骨の位置に口づけをした。

 その瞬間に身体が跳ね、私の腰はひとりでに浮いた。

 

「まっ、やっ……ぁっ……」

 そして彼は、そのまま羽根で撫でるかのような優しさで私の肉体に指を這われた。

 上半身の皮膚が感じるこそばゆさに、なぜか無関係な下半身が呼応して熱を帯びる。


 おかしい、おかしい、おかしい。

 だって私、男性に近付かれることが嫌だったはずではなかったの。


 死霊術の師匠が、少女への力加減も解らずに手取り足取り教えてきた時も。

 容姿や性別の物珍しさもあれど、兵士達が不躾なまでに向けてくる視線も。

 比較的軽めの負傷兵が、私に縋る素振りで腕を伸ばしてきた時も。


 その度に身体の奥から吹きすさぶ寒気のような恐怖と不快感を覚えてきたというのに。

 未知の感覚に怯えて彼の行為を止めさせたい自分と、この心地良い感覚が終わって欲しくない自分に分かれ、徐々に後者が勝ってゆく。

 

 私はいま狂おうとしているのだ。こんなことがあってはならない。


 「や、やめてっ……」

 薄れゆく理性の欠片から、辛うじて声を出した。


 だがその拒絶を耳にした瞬間、アルフォンスの目に侮蔑の色が宿り、先程までとは一転して直立して私を冷たく見下ろした。まるで初めて彼に挨拶したあの瞬間のように。


 「あっ、ちがっ……待ってください!」


 そして彼は引き留める私を無視し、不機嫌そうに天幕から出ていった。

 あれほど戸惑っていたのに、彼が去った瞬間に私の肉体は先程までの感覚を求める。

 一人、取り残された私は淋しさと悲しみに暮れて膝を抱えて嗚咽した。


 

 どれだけの時間、そうしていただろうか。

 顔を上げると、そこには聖都の美麗な街並みが広がっていた。


 自分の手は今よりも小さく薄汚れており、不潔な灰色の髪が長く垂れさがっている。

 これは遥か前の孤児だった時の記憶だ。

 当時よくやっていたように、裕福な者が住まう通りの橋の陰で物乞いをしていたようだ。眼前には私が手に出来なかった幸福を手にしている者達が一瞥もくれずに通り過ぎる。


 あれやこれやと何かの段取りを話す女に、少し困ったように調子を合わせる笑う男。

 腹部だけが膨らんでいる女に、身長に対して不自然なまでに遅く歩く男。

 無邪気に先走る小さな子供二人に、何かを言い聞かせている女と男。

 風景を見ながら、過去にあった出来事を懐かしむように語らう年老いた女と男。


 このような会話は物乞いをしている時に何度も聞いていたはずなのに、当時の私は彼らが話している幸福を理解出来なかった。

 私が羨ましく思ったのは彼らが雨風をしのげる屋根の下で暮らしていること、新鮮な手付かずの食べ物に不自由しないこと、清潔で豪奢な服を身にまとっていることだけだった。


 ふと視線を前に戻すと、そこに今の姿のアルフォンスが立っていた。


「俺の元へ来てくれ」

 先程聞いた言葉。そして彼は私へと手を指し伸ばした。


「君に生きてほしい」

 私は迷わず、垢と泥にまみれた小さな手で彼の手を取った。



 だが、その瞬間に声が頭の中で鳴り響く。


「普通の女になって、死霊術士を辞めるの?」


 突然、辺りが漆黒の闇に包まれた。


 もう一人の私。すぐ隣には今の姿の私が立っていた。


「生も死も冒涜する忌まわしき術って、最初に彼が言ってたのよね?」

 その”私”は下卑た笑みを浮かべ、こちらを揶揄するように続ける。


「でも、それこそが唯一の存在価値だったって、私がずっと思ってたんじゃない」

「それは……そうだけど。でも、アルフォンスは違うって」


「まさか、本気であの男の言葉を信じてるの?」


「私が今生きていられるのは? 学院に拾われたわけは? その前は何してたの? 死霊術がなかったら私は、下水道の汚らしい鼠みたいな孤児のままだったでしょ?」

「それは……そうだけど……」

「結局、死霊術がなければあの男が私を見出すこともなかったでしょ?」

「でもそれは、ただの切っ掛けで……!」

「それなのに、本当に死霊術抜きで自分が愛されると思ってるの?」


 その”私”はけらけらと笑いながら、私の心の奥底の恐れを容赦なく突き付ける。

「同情心で拾われたところで、いつか飽きて捨てられるのは目に見えてるじゃない」

「わ、私の価値はそれだけじゃないって、彼が言ってくれた!」


「お前が人間に搾取されたくないから、と言って羊に毛が生えない呪いを掛けるようなものよ。その羊は羊として存在する価値を失くして、惨めに野垂れ死ぬことになるでしょうね」



 もう一人の私は言うだけ言った後に消え去り、暗闇の中でアルフォンスと私だけが取り残された。そして彼は私に背中を向けて歩き出した。


「ア、アルフォンス様っ……!」

 彼は聞こえていないかのように歩き続けた。


「私……私……貴方の元へ行きますっ!」

 現実では言えなかった言葉を、ここで言った。


「もう私の価値が死霊術だけだなんて思いません。私は……誰かに必要とされたかっただけなんです! 何も持たない存在へと戻るのが怖くて仕方なかったんです!」


 離れていくアルフォンスを追って、駆けだす私。

「二度と使わないから行かないでください!私……もう独りぼっちは嫌なんです……!」

 だが走れども走れども彼は遠ざかってゆく。


「行かないでっ!」


 そして彼はそのまま、闇に溶け込むように消えていった……




「いやだっ……!!」


 頭上には天幕の布があった。私は訳もわからず辺りを見回した。


「はっ……はっ……あれ、全部、夢だったの……?」

 飛び起きたためか、鼓動が凄まじい早さで私の胸を衝いている。じっとりと汗ばんだ衣服が不快で、目は流れたばかりの涙で塗れていた。


 徐々に記憶が戻っていく。昨晩にこのアルフォンスの天幕を訪れ、最終的には彼に看病されて眠りについた。布越しに微かな光が透けており、既に夜は明けているようだ。

 妙な胸騒ぎがする。アルフォンスはどこにいるのだろうか。なぜ私は誰にも起こされることなく眠り続けていたのだろう。それに、日中の駐屯地ならば忙しなく動く兵達の足音や喧噪が聞こえてくるはずなのに、今は不自然なほどの静寂に包まれている。

 私は、まだ微かに鈍痛が残る身体でのっそりと寝台から起き上がった。


 天幕の外に出ると、空は淀んだ灰色に包まれ、冷たい雨が降り注いでいた。

 まだどこか顔に幼さが残る一人の雑用役が見張っていた。私の足音を聞き、驚いた様子で振り返る。


「えっと、おはようございます。皆さんはいません……出陣してます」

「……そう、なんだ」

 その事実が確かとなり、感情が徐々に湧き上がってくる。

「それで、ここを見張るように言いつけられて……」


「私は平気だから……彼らが帰還した時のための準備をしてあげて」

「でも……」

 私の顔を伺いながら、彼は困ったような様子を見せる。


「行きなさいっ!!」

「ひっ……わ、わかりましたっ!」

 その見張りは一礼し、足早に天幕が密集する方向へと下っていった。

 彼が見えなくなり、周囲に人影がないことを確認して私は出てきた天幕へと戻った。


「………………」

 聞こえるのは微かな雨音。自分の鼓動と呼吸が聞こえるほどの静寂であった。


「…………ねえ、どうして?」

 その問いかけへの返事などない。ただ私だけがいる空間に虚しく響くだけ。



「うあああぁぁぁぁぁぁああああああっ!!!」


 昨夜の優しさと戸惑い。淫靡で残酷な先程の夢。彼が何も告げず発った現実。

 そしてついに、私の感情は決壊した。


「なんでっ……なんでよっ!!」

 私はアルフォンスに押し倒された中央の机に両手を思い切り打ち付けて喚いた。


「なんであのまま死なせてくれなかったの!!」

 だがその硬質の木材は小柄な女の殴打では軋む音すら発さず、むしろ叩く私の拳を痛めつけてゆく。


「そしたら誇りながら死ねたのにっ……!! あんたが来なかったら……!」


 幸せを思い浮かべられなければ、自分の孤独を知ることもなかったのに。

 自分の境遇が、どれだけ惨めで悲惨なものかを思い知らされることもなかったのに。

 今や前の私には戻れない。憧れていた景色を彼と歩む自分の姿を想像してしまったのだ。


「起こしてくれたら……一言だけでも言えたのに……」


 夢の貴方に言った、私の本音を。



「……うっ……ひっく……」

 暴れ疲れ、机に突っ伏して嗚咽する私。


「お願い、もう一人はいや……」

 この激情は彼への怒りなどではない。孤独になることへの底知れぬ恐れである。


「早く戻ってきて、お願い、お願いお願い……」

 今までのどの戦いでも彼は無事に戻ってきた。にもかかわらず拭い去れぬ最悪の想定。


「死にたくない、幸せになりたい……」


「貴方にもう一度会いたい……」


「こんな私でも、貴方となら……羨んできた人達と同じようなれるかな……?」



 少し平静を取り戻した私は、小雨が降る外に出て遠くを眺めた。


 頭の中で、彼のあの言葉をもう一度再生する。

『もし君がそれを信じられないのならば、戦争が終結した後には俺の元へ来てくれ』


「だったら、信じさせてよ……貴方が私の元へ戻ってくるって」


 全ての熱を奪うような、冷たく不吉な雨だった。

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