#4 黒衣を纏いし天使

「ふぅ。まさかここを懐かしく、気を休められる場所だと思う日が来るなんてね」


 私は、数ヵ月ぶりに二年前まで在籍していた魔道学院の地下学級へと帰還した。

 そして様々な動物の検体や薬品が並ぶ解剖室へと入り、駐屯地から戻った際に個人的に行ってきた研究に取り掛かった。


 裏で地下学級へと届けられている罪人や貧民の遺体の腹を裂き、人体の内部構造を学習する。漂わせる死臭にも触れることにもすっかり不快感を覚えなくなった。常人ならば醜悪にしか感じられないような人間の内部組織も、私にとってはありがたい現物資料だ。



 同じように数日を過ごしていた時、予想だにしない来客が突然扉を開けた。


「失礼する」


「あ、アルフォンス様?!」

 その声を聞いて私の心臓は飛び跳ねる。現在の彼の立場ならば部下がかつて在籍していたこの地下学級へ入る許可は降りているだろうが、高貴な生まれである彼がこのような場所まで私を訪ねてくる可能性など欠片も考えていなかった。


「死体の解剖か」

「なぜここに……いえ、このような不愉快な場所、貴方様には相応しくありませんわ!」

「構わない。戦場に立つ人間からすれば、此処の死体はまだ見られる方だ。だが、なぜ君はその不愉快な場所に籠ってこんな事をしているんだ?」


「だって、誰かさんの言い付けでもう長いこと死霊術を使っていませんもの。今の私には勘が鈍らないよう、知識の地道な復習くらいしかやることがありませんわ」

「ふむ……」

 彼は私の遠回しの抗議が聞こえていないかのように、無表情を崩さなかった。


「教会の正式な治療者の殆どは、人体の中にある臓器の数すら知らない」


「えっ? あの、いきなり何を……」

「なぜならここ聖教国における医療とは、奇跡の名の元に行なわれる光術を用いた治癒だからだ。手を汚す必要も、人体に精通している必要もない。そしてそれで救えなかった者は、ただ信仰が足りなかった、と見做せば済む事だからな」

「ええ、そうですわね。それに比べ私のような癒し手となる才がない人間は、死臭に塗れてその目で人体を観察し、知識を蓄えなければ人を治すことができませんわ」


「だが君は、光術士には無い知識や技術を持っている。そして研鑽し続ける心も」


「…………アルフォンス様?」

 私の目を見つめながら彼が意味深に言った言葉。表情から感情は読み取れなかったが、その目は今までとは違い、どこか温かい真摯さを感じさせるものだった。


「ああ、ここへ来たのは召集の為だ。明後日の夜明けまでに東城門へと来てくれ」

「わかりました。貴方様直々のお呼びとあらば、早々に向かわなければなりませんね」


 彼は上官としての伝令を言い放った後、足早に去っていった。


「……いくら学があっても、こんなの……何にもならないわよ」


◆◇


 戦場を知らぬ者は、兵士は長く苦しむことなく一瞬で死ねるものだと思い込んでいる。


 きっと前線に立ったことがない上層部の人間にとって、戦死者とはただ戦争によって命を落とした者でしかないのだろう。

 だが私は知っている。戦争では戦いの最中に殺される者よりも、安全なはずの駐屯地の天幕の下で死ぬ者の方が多いということを。



「ひぃっ……ひぃぃっっ……いひっ……」


 二日前の戦いで脚を斬られた兵士が不自然な体勢に身体を強張らせたまま痙攣している。開けぬ口で必死に呼吸し、その表情は元の人相がわからぬほどに苦悶に歪みきっていた。

 同様の状態になった者を今までに何度も見た。外傷の治療を適切に行ったにもかかわらず、不潔な傷口から何らかの病魔に犯されたのだ。雨の後などで負傷時に土や泥が混入しやすい環境となると大幅に発症の危険性が高まる。


「しっかり……しっかりして……!」

「うっ、うっ……クラリスざん……もう、無理しねぇでください。こうなったら、こいつは……」


 一人の兵士が短剣を構えて私を押し退ける。

 聖典において自決は大罪なため、助かる見込みや暇がない時に戦友が急所を刺して即死させてやるために常に携行している慈悲の刃だ。


「だって……この人はまだ生きてるじゃない……!」


 しかし看護の甲斐もなく、その兵士は地獄の苦しみの果てに息絶える。呆然自失として絶命した目の前の死体を見つけている時、アルフォンスが私に声を掛けた。


「君は充分に良くやっている。あまり自分を責めてはいけない」

「よく、やった……?」


「どこが……どこがですかっ!! 言ってみなさいよ!!」


 突如として、爆発する私の感情。


 普段のように高貴な女性紛いの口調を取り繕う余裕すら無くなっていた。

「彼は死んだのよ! 何が充分なんですか、私が何をやれたっていうんですか!」

 

 部下に気遣いの言葉を送った上官であるはずの彼に、激昂して食ってかかる私。

 この一件に対してだけの感情ではない。今まで生かすことができなかった全ての者達への後悔と、彼らを救えなかったことへの無力感と自責の念がついに決壊したのだ。


 部隊に入った二年前から何十人もの傷病者に立ち合い、設備も道具も不足している戦地で懸命な治療を行ってきたが、その半数以上は死んでいった。

 死霊術を学ぶ過程で得た解剖学の知識も、独学で習得した薬草学も、結局この凄惨たる戦場で兵を生かす力にはならない。


「私は何もできなかった……! 私が、わたし、がっ……もっと……」

 涙がとめどなく溢れ出てきた。彼に怒るのはただの八つ当たりでしかないと頭では理解しているのに、自分を許せない感情が行き場もなく怒声となって漏れ出てしまう。


「彼らが死んだ責任を自らに求めるのは傲慢だぞ。兵士は誰もが自分の戦いに臨み、そして自分の戦いによって死んでいったのだ。君も、本当に背負うのは自分の命だけでいい」

「よくもそんなことが言えますねっ! いくら私に人体の知識や医学の心得があっても、ここではほとんど役に立たないんですよ!!」

「………………」


「もし私が光術を使えたら、清潔な布をすぐに用意できなくたって安全に傷の手当てができるのに! 苦しみ少なく、安らかに癒してあげられるのに……! 光術士たちは安全な教会でぬくぬくして一番要るここには来ない! 私がいたって……!」


「そうだ、たとえ君に光術の素養があったとしても、ここには来られなくなる」

「だからっ……! ここでの私は死霊術のほかにはちっとも役に立てないんですっ!! 今までその力で認められてきたのに……! 今までずっとそのためだけに頑張ってきたのに……! なんで貴方は私のたった一つの存在価値を奪うのよ!!」


「…………本当にそうか?」



「あ、あのぅ…………」


「おいっ、止めとけって! 今、隊長と揉めてるみてーだし……」

「だ、だからこそ、今言っておきたいっつーか……」

 私とアルフォンスが言い争っている中、一人の隊員が私の元へと何か言いたげな様子で歩み出てきた。一切の武装をしていない所を見るに、後方支援の雑用役だろうか。


「あ、貴方は……どちらさまでしょうか」

「覚えてないでしょうけど、半年ほど前に戦いで右脛を折った者です」

「足を……」

 骨折の治療は今まで何度か行ってきたが、その後の彼らの経過は殆ど知らない。だが目の前の兵士は僅かに脚を引きずってはいたものの、杖も突かずに二足で直立をしていた。


「バキバキに折れてて、誰もが二度と歩けないだろうって言いました。でもあなたが診察して、指示した通りの骨接ぎを受けたら……この通り治ったんです。まだ本調子ではないですけど……本当にありがとうございますっ!」

 兵士は私に向かって深く頭を下げ、そのまま顔を上げなかった。


「……ええと……いえ、別に、私がやれることをしただけで……」

「と、とにかく……あなたがいなかったら俺は一生不具の身体で生きて……いや、そのまま死んでたかもしれません。クラリスさんが自分をどう思おうと……それだけは確かです」

 お話中失礼しました、と一礼してその隊員は去っていった。


「…………………」

 感謝を告げた兵士の方を見つめている私に、アルフォンスが告げる。


「これでも君はまだ、自分には何も出来ないと卑下するか? 本当に君の価値は死霊術にしかないのか? それをもう少しよく考えてみるといい」

 あの兵士とアルフォンスの発言のおかげで、先程まで感じていた重く息苦しい感情はいつの間にか私の胸の内から消え去っていた。


「その……貴方様に対する数々の不適切な言動、心よりお詫び申し上げます」

「構わない。部下の為に懸命に働いている君の態度を不服に思うほど俺は狭量ではない」

 しばらく離れていった後に、アルフォンスはもう一度私の方を振り向いて言う。


「死の力を用いる君が、この国で誰よりも人を生かす為に奮闘しているとはな……」


「それは、どういう……」

「……いや、何でもない」

 目線を逸らして伏せられた彼の瞳は、どこか悲しげな色を宿していた。




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