異国の旅人      …… 2

 あまりの勢いに、さすがのルナウも数歩 後退あとずさる。そんなルナウを気にする様子もなく、旅人が目指したのは道に置いたバケツだった。


「何か叫びながらその人は、バケツを手にするといきなりバサッと水を自分に掛けたのです。よっぽど乾いていたのでしょう」

懐かしむようにルナウが微笑む。


「えぇ、本当に――その人は乾いていたのです。皮膚さえ水分を失って皺々しわしわでした」


 その乾きを潤すにはバケツ一杯では到底たりそうもない。旅人は空になったバケツをひっくり返しては少しでも水を浴びようとしている。


「わたしはバケツを引っ張って、旅人を庭に連れて行きました。庭には井戸があります」


 井戸に気が付くと旅人はバケツを放り投げ、一心不乱に水を汲み上げては浴びている。咽喉のどが渇いているのではなく、やはり体が乾いているのだとルナウが感心していると、とうとう着ていた服を全て脱いでしまった。身体に貼り付いて、動きにくかったのだ。


「そこでわたしは、その服を拾い上げ、洗濯してサンザシの枝にかけて乾かすことにしました。もちろんです。その服はとても汚れていて、触るには勇気が必要でした」


 緑色だと思っていた服は、洗いあがると同じ緑色でも織模様おりもようの入った、金属光沢をもつ美しい物だった。広げると服はガウンのような形、帯はプラチナに輝き、下履きは闇のように黒い、どれも上質な絹織物だ。


 旅人が無造作に足元に置いた巾着は多分銭入れ、それも凝った刺繍ししゅうが贅沢に配された洒落しゃれた作り、ぷっくり膨らんでいるところを見るとかねがなくて食い倒れたわけではない。この旅人は裕福だ。


「これはあの、に棲む妖精に虐められたのだとピンときました。あの森の妖精は本当に意地悪なんです。わたしもこの村に来た時、あの森を抜けましたが……えぇ、それはそれは意地悪でした」


 食べ物も飲み水も見つけられず、森の中をいったい何日、彷徨さまよわさせられたのだろう? 気の毒に思ってルナウが見ていると、旅人の皺くちゃな皮膚も張りが出て、色も緑から薄い若草色に変わっていった。髪もツヤツヤと光沢のある焦げ茶だ。だけどルナウを驚かせたのは皮膚や髪の変化ではなかった。


「頭にあった白いのは帽子ではありませんでした。そこだけ髪がないのです。かと言って頭皮には見えません。わたしの目には骨のように見えました。それに――背中には甲羅こうらがあったのです。よく見ると指には水掻きもありました。でも魚人ではありません。口が小さなクチバシだったので最初は鳥族かと思いましたが、翼がないうえ甲羅となれば違うと思うしかありません。そんな種族はわたしの記憶では、会ったことがないのはもちろん、聞いたことも、書物で読んだこともありませんでした」


 でも、服を着ているのだから人なのだろう。井戸を使えるのだから人だ。ルナウは旅人が満足して水を被るのをやめるのをじっと待った。


 やがて被るのをやめ、汲み上げた水をごくごくと旅人は飲み干した。そして大きく息をく。


「落ち着きましたか?」

ルナウの声にギクッと身体を強張こわばらせ、恐る恐る振り返ってルナウを見た。


「あ、あ……」

「怖がらないでください。わたしは、わたしにできることがあるならお手伝いをしたいと思っているだけですよ」


 ルナウがサンザシの枝に干した旅人の服を指し、乾いたタオルもそこに添えて、サンザシから少し離れる。干してあるのが自分の服だと気が付いた旅人が慌ててサンザシに駆け寄って、服を身に着けた。ルナウが魔法を使ったのか、服はカラカラと気持ちよく乾いている。


「ア、アリガト」

旅人が小さな声で言った。その声にニッコリ微笑みながらルナウが答える。


「よかったら、朝ご飯をご一緒しませんか? 一人で食べるのは寂しいな、と思っていたところなのです。わたしが作る料理ですから、大したものではありませんが、喫茶店をしているのでお茶だけは美味しいですよ」


「ダ、ダ、代金ハ?」

「わたしが付き合ってもらうのです。お代などいただけません」

「ソレ、イケナイ。オ金、持ッテル。心配ナイ」


 片言混じり、たどたどしい旅人の言葉にルナウが微笑む。

「では、旅のお話や、あなたのお国のことをお聞かせ願えませんか? そのお礼に食事、これでいかがでしょう?」

ルナウの微笑みに釣られたのか、旅人もニッコリと笑った。


 旅人はカワタロと名乗った。遠い海を越えた島国の生まれだという。

「妻ト出会ッタ浜辺。美シイ海。ワタシノ故郷ふるさと


ある日、浜辺に漂着した女性を介抱し、世話を焼いた。最初は言葉も通じずおびえるばかりだったが、女性はやがて言葉を覚え、意思の疎通も叶えば、二人はいつしか恋に落ち結ばれる。


「デモ妻、寂シイ。生マレタ国、恋シイ。海ヲ見テハ泣ク」

 忍び泣く妻の姿にカワタロの心は震える。何とか妻を故郷に帰してやりたい。でも、愛しい妻と離れるなんて耐えられない。

「ワタシ、言イマシタ。イッショニ行コウ」


 カワタロの言葉に妻はさらに泣いたという。驚いて狼狽うろたえるカワタロに妻は言った。わたしはなんて幸運に恵まれたのか……妻の涙は嬉し泣きだった。


 だが、妻の故郷にはどう行けばいいのだろう。いろいろと尋ねまわり、やっと手掛かりを得た。年に一度だけ海の向こうの大陸に渡る船がある。でもそれも今年で終わりだ。苦労の割には利益が出ないと、これを最後にやめるらしい。


 急がなくては行けなくなる。そして行ったらもう戻れない。迷った末、カワタロは私財を投げうって旅費を作った。自分の両親や友人には妻と旅行するとだけ言った。


「親ヤ友、ワタシ、心配」

カワタロの目に涙が光る。


 両親や友達がカワタロのことを心配しているのか、カワタロが彼らのことを心配しているのか――カワタロの言葉をどう受け止めればいいか判らかったが、きっと両方なのだろうとルナウは思った。


 苦労して大陸を渡り、渡ってからは妻の故郷を目指して旅は続いた。幸いカワタロが用意した金は大陸ではびっくりするような大金に変わった。お陰でその面での苦労はなかった。それに妻がいてくれさえすればカワタロは満足だった。それなのに――


「妻、病気ニナッタ。医者、ダメ、言ッタ」

 長旅の疲れで病に倒れた妻に医者もさじを投げた。カワタロに看取られて妻は静かに息を引き取る。


「幸セダッタ、妻、言ッタ。幸セダ、ワタシ、言ッタ。デモ、妻イナイ。ワタシ、幸セ、ナイ」


 すすり泣くカワタロを静かにルナウは見守った。こんな時は見守って、気が済むまで泣かせてあげるほかはない。慰めるなんて誰であろうと無理だ。


「シバラク妻ノ墓、守ッタ。今デモ妻ノ墓、気ニナル」


 ある日見た夢にカワタロは故郷に帰る決意をする。


 故郷の浜辺、美しい海。そこで微笑む優しい妻。二人が出会い、恋を語り、愛を結んだわたしの故郷――


「夢ノ中、妻、言ッタ。モウ一度、アノ海ガ見タイ」


 妻が言うあの海、それはカワタロの故郷の海に違いない。形見にと、取っておいた妻の髪束を大事に包むと、有り金を持って故郷へと旅立った。


 帰ろう二人で。二人が出会ったあの海へ――

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