賢者は空を見る …… 1
庭に面したテラス窓を開け、ルナウが庭へ降りていく。爽やかな風に乗り、庭に咲く花々の香りが店の中に忍び込む。今日はどの花を選ぶのかしら? 期待に瞳を輝かせて、ナッシシムがルナウの姿を目で追った。
ルナウが手にしているは繊細な造りの銀のハサミ、ナッシシムが
『魔法でキレ味を良くしているのです。よく切れるハサミなら花の感じる痛みも少なく済むことでしょう』
ルナウはそう言って、少しだけ悲しそうな目をした。ひょっとしたら、切り花にしたくないのかもしれない。
「わぁ、綺麗……なんていうお花?」
「アマリリスですよ、ナッシシムさん。そしてこちらはアザミ」
ルナウが庭から抱えてきたのは赤いアマリリスが一輪と数本のアザミ、それをルナウが小さな花瓶に一輪ずつ
「アマリリスは一本だけなのね」
「えぇ、他はまだ
店の表のウッドデッキにテーブルを一つ出したいのです、とルナウが言う。
店内のテーブル一つ一つにアザミの花瓶を置いてから、ウッドデッキに出したテーブルにはアマリリスを飾り、店の入り口の階段の下に『本日のメニュー』と書かれた黒板を設置すれば、『フルムーン』の開店準備は完了だ。
カモミール・ミント・ローズヒップ・紅茶、そしてそれらのブレンド、お好みでイチゴジャム・マーマレード・ハチミツ・ミルク・レモンをお付けします。お茶請けはサンザシケーキ。ごゆっくりお寛ぎくださいませ。
黒板に書かれた文字を確認してから店に戻ったナッシシムだ。今日はどのお茶にしよう?
三段だけの階段を昇ると、店の横幅いっぱいに広がるウッドデッキ、いつもは何もないけれど、今日はアマリリスで華やかなテーブルが一つ、端のほうに置いてある。階段の正面、ウッドデッキの中央のドアを開ければドアベルがチリンと可愛い音を立て、中にはゆったりとスペースを取って置かれたテーブル、テラス窓からは花畑のようなお庭が見える。
もちろんテーブルには摘みたてのアザミの花が揺れ、壁に並んだ小さな窓では太陽の光を受けたレースのカーテンが恥ずかし気に輝いている。いつ来てもルナウのお店は素敵、何とも言えない満足感を味わいながらナッシシムは奥のカウンター席に座った。
「ご注文はお決まりですか?」
カウンターの中からルナウがナッシシムに微笑んだ。中は簡単なキッチンだ。
「サンザシケーキにはどれがお勧め?」
「そうですね……お茶に何も入れないのなら、ローズヒップ以外どれでも。サンザシが甘酸っぱいので、同じような味だと打ち消しあいそうです」
「ねぇ、ルナウ。お茶とケーキの相性を考えずにメニューを決めたでしょ?」
するとルナウの頬がほんのり赤みを帯びた。
「はい、まったく考えていませんでした――先日、ナッシシムさんによく考えましょうと言われたのに、忘れていました」
「いつも、思い付きですものね」
クスクス笑うナッシシムに、
「はい、思い付きです」
と、ルナウも笑う。
「ウッドデッキにテーブルを出したのも思いつき?」
「いいえ、あれは今日いらっしゃるお客様のためですよ」
「お客様って、結婚相談の?」
「はい、そのお客様です」
「そのお客様って……」
ナッシシムが耳をヒクヒクさせて言う。
「馬に乗ってくる?
「どうやらいらしたようですね」
ルナウがカウンターから出てきてドアに向かう。店の前で出迎えるらしい。慌ててナッシシムもドアに向かう。
「仕方のないかたですね、ナッシシムさん。自分のお席にいらして欲しいのですが」
「お邪魔はしないってば」
「失礼なことを言ってはダメですよ。間違っても馬なんて言わないでくださいね」
「馬?」
ドアのところにナッシシムを置いてルナウは階段を下り、少し広くとった敷地の入り口に向かう。近づく蹄の音はサンザシの生け垣の向こうだ。ナッシシムは半開きのドアに
蹄の音が生け垣を出たところで止まる。背の高い人影、あれ、馬はどこ? ナッシシムがよく見ようとドアから身を乗り出す。
「ハーバデシラムさんですね? お待ちしておりました」
ルナウがお客を見あげて声をかける。
(ケンタウロス――初めて見た)
馬の体、首から上は人間の上半身、『底なしになれなかった沼の森』に
ルナウはケンタウロスに慣れているのか、驚いた様子もなく、
「店はこちらです」
と生垣の端から店の敷地に入ってくる。
「実はケンタウロスのお客様は初めてで、知り合いもいないものですから、どうしたら一番いいのか迷っているのです」
ハーバデシラムを見あげながらルナウが言う。
「その立派なお身体では、わたしの小さな店では狭苦しいのではないかと、それに椅子に腰かけるのはお辛くはありませんか?」
「ふむ。ルナウさん、あなたの気遣いは『底なしになれなかった沼の森』でも評判だが、本当だね。横たわることはあっても椅子に座るなどという事はしたことがない。立っているのが一番楽だ」
「そうでしたか……では、店の前のウッドデッキにテーブルをお出ししたので、ウッドデッキの下に立たれてお茶を召し上がるのはいかがでしょう?」
「おおお、程よい高さ――ルナウさんが椅子に腰かけたら、ちょうど視線が同じ高さになりそうだ」
「では、ただいまお茶とお菓子をご用意いたします。少々お待ちくださいませ」
「うん、ルナウさんの菓子も評判で、楽しみにしている――ところでテーブルに飾られた花は?」
「アマリリスですよ。今年最初のアマリリスです」
「ほう、アマリリス。美しい花だ」
では、とルナウが階段を昇ってくる。慌ててナッシシムがカウンター席に戻った。
「ルナウぅ……あの人、ケンタウロスでしょう? 初めて見た」
「ナッシシムさん、いくら声を小さくしても失礼ですよ」
「だって、森の賢者、滅多に人里には来ないんでしょう?」
「そうらしいですね。わたしも遭遇は初めてです」
「底なしになれなかった沼の森ではお相手が見つからなかったのかしら?」
「どうでしょうね。ゆっくりお話を聞いてみましょう――ナッシシムさんは店から出てはいけませんよ。自分のお席でおとなしくなさっていてくださいね」
「窓から覗いちゃダメ?」
「お行儀が悪いとアッリリユさんが嘆きますよ?」
「ルナウが黙っていてくれればいいわ」
「いいえ、承知できません――ケーキを特別に二切れ差し上げます。これで我慢なさってください」
「それじゃ、お茶はミルクティーにして」
はいはい、とルナウが笑う。困ったお嬢さんですね――
ナッシシムに二切れケーキを乗せた菓子皿とミルクティーを出すと、トレイに二人分のティーセットと菓子皿を乗せてルナウがウッドデッキに向かう。
「お待たせいたしました」
と窓越しにルナウの声を聞いてから、ナッシシムが立ち上がる。ナッシシムにルナウの言いつけを守る気なんかあるはずもない。
窓辺で耳をヒクヒクさせて、盗み聞きする気満々だ――
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