第52話

「睦空がそろそろ帰るよ。」

 翌週も集合がかかった。

 緋弥がそう言うと沈黙が広がった。大声で感嘆するわけにもいかず、喜びを噛み締める皐奈ちゃん。無関係そうにそっぽを向く如紀ちゃん。そして、何もできない私。

みんなが不思議そうに私を見ている。事情を理解している緋弥は、知らんぷりをしていた。

 今会うか、一生会えないか。この二つの選択肢しかなかったら、当然一つ目を選ぶ。でも、その間にもう少ししてから会う、という選択肢があれば、それを選ぶ。いつかは会いたい。会えることは決まっている。それで十分だった。逆にそれが一番良かった。今会うのはなんだか違う気がする。まだ、気持ちの整理がついていないから。もう少ししてから、様子を見て、

「逃げてんの?」

 鋭い声が耳に入った。すぐに緋弥の声だと判別した。さっきまで知らん顔をしていたくせに。

 返す言葉がなかった。でも、逃げてるつもりはない。ただ、こちら側としても向こう側としても、都合が良いから、今は会わないようにしているだけ。

「逃げてない。ただその方が都合が良いから。それだけの理由。」

 嘘はついていない。本心だ。恐る恐る視線を上げながらそう言った。すると、緋弥は鼻で笑ってから言った。

「別になんでも良いけど。いつまで待っても変わらないと思うけどな。」

 返事はしなかった。再び下を向いた。彼の言葉なんてどうでもいい。そう思っていたのに、なぜか心に深く染み付いて離れなかった。

「じゃあ、いいよ。会うから。」

 投げやりに言った。あくまでしょうがなく、という感じに。

 その言葉になぜか皆がニコッと笑った。

 何よ。みんな揃って。


 その後、なぜか私と皐奈ちゃんが迎えに行くことになった。これも緋弥が指示した。運転できるのは、皐奈ちゃんと緋弥だから、多分、彼女に押し付けたのだろう。皐奈ちゃんは気まずそうにしていた。初め、私と如紀ちゃんに押し付けようとしたら、如紀ちゃんにタクシー代がもったいないと却下されたから。意地でも行きたくないのか。

「どうしよう。私会う顔がない。」

 皐奈ちゃんは嘆くようにそう言った。私はそれに笑いながら、少し安心した。よかった。恨まれるようなことをしていなくて。

「大丈夫だよ。」

 何が大丈夫か、わからないけど。とりあえず、そう言っておいた。適当じゃないけど。

「私の方が緊張する。」

 安心しているけど、緊張していた。どう接すればいいのかわからないのは、私も同じだった。

「いつも通りでいいんじゃない?」

 運転する彼女の横顔を見る。運転に集中していて、適当に言ったのか否かわからなかった。でも、少しホッとした。張り詰めていた緊張が解けていく感じ。つった足が戻っていく感じ。


 警察署の前につき、出てくる睦空を待った。緊張で埋め尽くされ、楽しみは私の心を占領していなかった。

「来たよ。」

 緋弥が用意した弁護士に連れられ、睦空が顔を見せた。多分、彼に降りかかった日光は、絶望の中の光に見えたのだろう。微笑みながら空に手をかざした。私は彼には気付かれず、横から見ているだけの存在だった。それがなんとも心地よかった。この関係で良い。この関係が良い。なびく風に連れられるように彼は私たちに近づいた。一歩だけ遠ざかる。無意識だった。それに気がついた皐奈ちゃんは、私の背中を押した。

 何を言うべきか考えた。ごめんね、はいきなりおかしい。ありがとう、はもっと意味がわからない。逆に馬鹿にしているように聞こえる。久しぶり、もなんだか合わない。そんなことを考えている間に、距離は少しずつ縮まる。あっという間に目の前まで来てしまった。

「睦空。おかえり。」

 それが咄嗟に出た言葉だった。

「ただいま。」

 太陽に照らされた睦空はやはり眩しかった。目を閉じても、その光は感じることができてしまった。


 車に乗って、皆が待つ緋弥の家に向かった。

 皐奈ちゃんと睦空はまだ会話を交わしていない。お互いになんと声をかけたらいいのかわからないようだった。その背中を押すのは私じゃない、と思ってしまった。自分のタイミングがあるのだ。誰かのサポートはいらない。

 でも、沈黙は寂しいので、話題を考えた。しかし、あまり良い話題は見つからない。何を言っても彼を傷つけてしまいそうだ。それなら、思い切って聞いてみるか。

「ねえ、今まで私が迷惑だと思ったことある?」

 皐奈ちゃんはギョッとして助手席の私を見た。さっきの皐奈ちゃんのような凛とした顔をして動じていない、ように見せた。

「ないよ。急にどうしたの?」

 彼の表情は知らない。私が振り向かないからだけど。どういうつもりで否定したのか、わからなかった。

「本当にないの?私は壁になるから、なんでも言っていいよ。」

 壁は悪口を聞いても変形しない。彼はクスリと笑ってから言った。

「ないよ。本当に。また、緋弥が余計なこと言ったんだろうけど。」

 信じていいのかな。また、絶望を繰り返すのは、嫌だ。鏡越しに彼を見つめる。無表情な彼からはなんの情報も得られなかった。

 信じるって何を持って信じるというのだろうか。相手に伝えたら?自分の中でそう決心したら?わからなかった。でも、相手に伝えなければ、何の意味もない。自分の理想に相手が敵わなかったときに、ただ勝手に自分が傷つくだけだ。

「じゃあ、信じてるよ。」

 トイレ行ってくるね、と同じテンションで言った。何でもないように。

 彼は静かに頷いた。黙ってたら、迷惑だと思った?って指摘するつもりだったのに。それが迷惑な気もしなくもないけど。

 そうしているうちに、目的地に到着した。ここからが心配だった。二人がぶつかったりしないだろうか。

 弁護士の方に礼をしてから、三人で部屋へ向かった。

 インターホンを押し、中に入る。おかえり、と如紀ちゃんは明るい声で言った。それには誰も続かなかった。

 緊張感が漂っていた。何か言動を起こすべきか、如紀ちゃんと視線を交わす。全ては睦空次第だった。彼はいつも通りに荷物を置いた。

「それで、今どうなってんの?」

 皆、反応が遅れた。張り詰めていた空気が一気にプツリと切れたようだ。はあはあ、と息をつく。よかった。また喧嘩にならなくて。

「何も言わないの?」

 包帯を外し、元通りになった緋弥が声を張り上げた。再び緊張が幕を張る。睦空が気にしていないのだから、そのままにしておけばいいじゃない。皐奈ちゃんも如紀ちゃんも頭をかかえる。睦空に視線が集まる。

 睦空は静かに口を開いた。

「はめられたって気がついたのは、冷静になってから。それまでは、ほとんど記憶がないくらい。全部読めてたから、それを阻止する方法を考えたんだよね。」

 何のことを言っているのか、さっぱりわからなかった。

「全部じゃないけど、なんとなく。」

 まるで、二人だけの言語で話しているようなようだった。主題が全くわからない。でも、雰囲気的にそれを問うわけにはいかなかった。私たちには一歩も入らせないような間があった。何か線を引かれているように感じる。

「それで、諦めたの?」

 彼らの視線は電気を放っているように見えた。そこに触れたらすぐに命を落としてしまいそうなくらいの強さで。

「長年溜め込んだ思いは簡単には消えないけど、もうお前が想像してるようなことはしない。」

 はっきりとそう宣言した睦空は、太陽に照らされていた。日を浴びて紳士な表情を浮かべる彼が、やっぱり愛らしかった。私も長年溜め込んだ想いは簡単に消えない。

「でも、最後まで辿り着いたら、全てを世に晒して、明らかにして欲しい。」

 何のことを言っているのだろうか。隠しているようなことはあるだろうか。

「そうするつもりだから。」

 緋弥の一言で、私たちが今突き止めようとしていること、について会話を交わしているのだと気がついた。

 やっぱり明らかにさせなくてはいけないのだろうか。間違えなく両親にとっても私たちにとってもマイナスになることだ。その必要性を私は感じない。一体何が睦空の目的なのだろうか。

「それならいい。」


 その後、彼は一度家に帰り、再び戻ってきた。ある物を持って。

「これ、探してたんでしょ?」

 そう言って睦空は、袋に包まれたものを出した。

 その瞬間、皆が息を飲んだ。箱から取り上げられた、証拠だった。書類やら、ノートパソコンやらがあった。

 頭の中で大雨が降った。吹雪が舞った。

 そして全てのピースが見つかった。パズルは完成した。出来上がった絵は想像していたものとは違った。でも、その絵を好きなものだと認識しなければいけないのだ。

 テレビの画面を消すように、今までの全てを真っ黒に塗りつぶしたかった。何も感じたくなかった。何も考えたくなかった。

「いつ、これを?」

 如紀ちゃんは恐る恐る聞いた。

「高三の夏。」

 その言葉は重みを知らずに外に出た。自分の重みに耐えられず、下へ下へと落ちていく。

 緋弥はその証拠を取り上げると、内容を確認した。そして、箱に残されていた紙の切れ端を書類と照らし合わせる。ピッタリとはまるところがあった。緋弥は睦空を見上げる。

「どうするつもりで取り出したの?」

「順を追って全部話すよ。」

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