第53話

 始まりは生まれたときだった。いや両親が結婚したときだろうか。この瞬間さえなければ、今までの苦悩は幻だったはずなのに。流石に一歳や二歳の時の記憶はあまりなかった。その少しの記憶の中に出てくる母は、笑顔を絶やさなかった。しかし、橙色の笑顔の後に見せた青い表情をはっきりと覚えている。僕が笑うと母さんは必ず、欠けた月のように儚げな表情を見せた。それに違和感を感じたのは、物心がついた頃だった。僕の血縁を持つ父はいなかった。それは、二、三歳の頃に伝えられた。すでに、父のいない生活が当たり前になっていたので、寂しくはなかった。

 しばらくして、妹ができた。当時の記憶はあまり残っていない。僕には、写真でしか映し出せない思い出を、彼女は頭の中で何度も描くことができる。母や望卯の話によると、いつも一緒に遊んであげていたらしい。全く覚えていなかった。

 そして、母はパートナーに出会った。まだ、五歳にも満たない自分には、何が起こったのかわからなかった。突然、父親ができて、もう一人の妹と、弟ができた。兄弟全員を同じように接することは難しかった。できる限り平等に接した。如紀や緋弥は何も知らないから、兄弟全員を同じ天秤にかけて接していた。最後に皐奈に誕生した。なんだか友達の妹のように感じた。如紀と緋弥は友達のように感じていた。唯一、望卯だけを兄弟として受け入れることができた。

 母さんとお父さんは、何も言わなかった。周りから見れば、幸福の溢れるごく一般の家庭だった。

 自分だけが仲間外れにされたようだった。自分だけが違う世界を見ているようだった。何をするにも、事実が頭をよぎった。

 全てを知った上で形だけの家族を演じるのが、どれだけ辛かったか。

 とにかく両親を恨んだ。必要のない悩みに浸されたことを。

 その時はそれだけの悩みで済んだのだからまだよかったのだろう。

 小学生低学年の頃だっただろう。眠れない夜は考え事をした。その内容はしょうもないことだったり、壮大な謎だったり、様々だった。

 ある夜、どうやって思考が繋がっていったのかは覚えていない。しかし、突然まるで天から降ってきたように、記憶の謎が結びついた。飛び起きたのを覚えている。

 結婚と同時に地方へ引っ越したこと。

 僕が消防車やパトカーに夢中になっていたとき、そっと見せてくれた警察手帳。

 段ボールに札束を抱える二人。

 黒ずくめの格好に包まれた二人。

 心から笑えていなかった二人。

 常に眉が垂れ下がっていた二人。

 それから、軽井沢で二人が埋めた箱。木の間から見つからないように身を隠しながら、様子を窺っていたのだ。

 一つ一つの記憶のパーツは昔から常に保持していた。しかし、それの繋げ方を知らなかった。それが、何かをきっかけにぴったりとはまってしまった。

 悲しくなかった。でも、苦しかった。これからが不安だった。誰かに告白するべきなのだろうか。しかし、そんな相手は思い浮かばない。

 何も知らない。だから、橙色の光に包まれている。そんな望卯や皐奈が羨ましかった。そして、憎たらしかった。彼女たちの面影を遠くで見つめている。そんな自分は惨めで情けなかった。それでも、どうしようもなかった。

 それから、部屋に閉じこもるようになった。この際なんか問題でも起こしてやろうかと思った。とりあえず、違法で手に入れたお金を使わせた。通いもしない塾や習い事に入れてもらった。不要な家具を買ってもらった。両親は僕の言うことに従った。もしかしたら、僕の気づきに気がついていたのかもしれない。順風満帆な人生を送らせたくなかった。悲しみに浸り、苦しみに見舞われて欲しかった。罪を犯したものは、それ相当の罰を受けるべきだと思う。

 彼らは許されないことをした。自分勝手そのものだった。

 だから、困らせた。一万円札を盗んだ。使い道はなかった。盗むことよりも、困らせることが目的だったから。

 結果的に寄付をした。これだけじゃ足りないだろうけど、ゼロよりかは良いはず。

 多分、二人は僕の所業に気がついていた。なのに、何も言ってこなかった。ちょっとだけ怖くなった。とんでもないものを相手にしているのじゃないか、と心配になった。

 受験だって、初めっから浪人するつもりで挑んだ。とにかく資金を詰め込まさせた。

 罪悪感は、彼らの罪と比較して潰した。自分独自の基準で。

 あの夏、軽井沢へ久し振りに行ったとき。皆が出かけているすきに箱を掘り起こした。幼き頃の記憶だけが頼りだった。運も味方をしてくれたようで、思いの外、簡単に掘り起こせた。

 それと同時に昔の思いでも掘り返してしまった。その中に良いものはなかった。良いものはなくても、何も知らなかった頃に戻りたい、その時、そう感じたのを覚えている。

 長い間、証拠を隠し持っていた。いつか訪れる時、のために。

 

 兄弟全員がそれぞれの家を持ち、それぞれの生活を築き終えてから、募らせてきた思いを投げつける準備を始めた。

 約束をして、母さんに会った。彼女は、これからの未来を予期しているようだった。覚悟を決めているようだった。

 誰もいないところで、保持していた証拠を見せた。何も言わずに。

 彼女は泣いた。ごめんね。そう言っていた。絶望感に崩れ落とされ、顔を手で覆いながら、僕に落胆した様子を見せつけた。

 何も言わなかった。しばらく彼女を見上げていた。

 謝罪したところで状況は何も変わらない。逆に謝罪は、僕の疑いを完全に事実だと認めてしまった。気がついたら、事実なのだと決定されてしまっていた。

 母さんに手を差し伸べなかった。子供のように大声をあげて泣き叫ぶ彼女は、憎めなかった。橙色の表情で謝られたら、憎めなかった。でも、今ここで、今の自分の判断で行動を起こしてしまったら、昔の自分が可哀想だから、何もしなかった。

「もうこれ以上、僕たちに迷惑をかけないで。それから、ちゃんと罪を償って。

 もう僕は二度と会いたくない。」

 目にかかった髪の毛越しに見える、母の顔。救いを求めるような顔にいらつく。睨みつける。

 ここに来た目的は、母を脅迫することだった。正直、結末はどうなってもよかった。その結末は母さんの決断に任せることにした。

 僕の背中に向けて母は言った。ごめんね。それが彼女の口から発せられた、僕にとって最後の言葉だった。そんなこと意識しなくてもいいはずなのに、なぜか思い返しては後悔に近いものを感じていた。

 それなのに、自分が間違っていたとは思わなかった。


 兄弟の中で行われている捜査を抜けた理由、一つはもちろん自分の行いが明るみになるのが怖かったから。それに自分は最初から最後まで全てこの脳みそに記憶されてしまっているから、楽しくない。

 二つ目は、母さんのように皆が絶望感に浸る様子を見せつけられたくなかったから。その時に自分だけ、立ったままなのもどうかと思ったから。

 最後は、捜査していくうちに、両親の偉大さや優しさに気づいてしまうのが怖かったから。後悔に繋がるような感情を見つけたくなかった。


 望卯から情報を得ているうちに、そろそろ最後まで辿り着くのではないか、と思った。しかし、聞いたところ、まだ勘違いをしている。

 父さんがなぜ身を隠すのか。誰から身を隠しているのか。予想はつくけど、答えは直接尋ねないとわからない。職や信頼以外に失うものはなかった。だから、緋弥と取引をした。彼は僕の所業や目的に感づいているようだった。

 その視線の迷路を抜けるのにどれだけの時間がかかっただろうか。

 緋弥は時々自分と同じ世界を見ているのではないか、と思うくらい、意味深な表情を見せる。強い意志を感じられるけれど、決断力のなさそうな、そんな表情。完璧なのに最後が抜けているような、そんな表情だった。

 目を合わせた瞬間、電気が走ったように脳を刺激した。彼は、僕と同じ世界の中にいる。その中で僕と同じように、不要な不安に襲われている。頑丈そうに見えて薄っぺらい緋弥はため息ばかりをついていた。まるで、僕に問いかけるようなため息だった。

 仲間を見つけた喜びよりも、見破られるのではないかという恐怖の方が大きかった。厄介だと思った。

 彼の視線や行動には全て意味があるように感じ取れてしまう。たとえ、黙っていてもそれが何かを指し示しているように感じられる。

 

 皐奈に連れられて居酒屋に入った。そのときの緋弥は笑っていなかった。僕は監視するように言われていたので、彼のことをじっと見ていた。僕たちの話を入ってこようとはせず、一人で窓の外を眺めていた。僕たちと会話を交わすことが無駄だと考えているようだった。頻繁にお手洗いに行っていた。

 皐奈は必死だった。そんな彼女を親の目線で見ている自分がいた。あどけなさが残っている。でも、その親目線で見れる本物は、もういないのだと気がついた。そして、もういなくなるのだと。

 二人は自分は知らない何かを知っているようなマリアナ海溝より深い表情をしていた。

 しょうもないことで、皐奈と笑い合った。それからはほとんど記憶がない。

 ただ一つ覚えているのは、雨の集中攻撃を受けてびしょ濡れになりながら、訴えかけるような視線を向けた緋弥の表情だった。

 何か悟ったかのような表情。それは母さんの生前最後に見た表情とよく似ていた。

 そして、自分の姿にも見えた。僕の心の中で描く自分自身の像のように思えた。

 彼が向けた背中は小さかった。何も負うことができないほど、小さかった。

 その背中には確実に後悔の二文字が書いてあった。今すぐ隣に、誰かを。そう思ったけど、そうすることは不可能だった。


 冷たい警察署の中で経緯を聞いた。緋弥が用意してくれた弁護士に何一つとして隠さずに伝えた。緋弥は自分との関係を、友人、と伝えたそうだった。確かにそれは最適だった。しかし、友人以下で友人以上だと自分は感じている。防犯カメラに映る僕たちも、証言の中の僕たちも、緋弥の組み立てた僕たちも、全てが一致していたため、思いの外、早く解放された。

 初めに、父さんのことが気になった。僕の行動は誰を喜ばせるのだろう、そう考えると前に行動に移るつもりだった。

 僕はやりたくてやってるわけじゃない、そういうと、返って冷たい視線を受ける。しかし、それは本心だった。やりなくないけど、すでにやるように運命づけられているのだ。実際にはそんなわけないし、自分の思い込みだと自覚している。でも、逆に言えば、そう信じることしかできないから、そうしているのかもしれない。自分の気持ちさえも理解でないなんて。

 皆の顔を見て、突然寂しくなった。ここで全て打ち明けてしまえたら、楽だろうな。楽だから、という理由で物事を判断したことはなかった。楽かどうか、というのは、自分の気持ち次第で変えることのできる要素だったから。自分のちょっとの我慢を差し出すことで、解決する問題だったから。

 なのに、気がついたら、全てを話してしまった。自分じゃない自分のようだった。

 先生に答えを確認するような視線と同じものをなぜか緋弥に向けた。

 これでよかったんだよね?そう聞きたかったのかもしれない。

 もう限界だった。我慢をする容量はもうなかった。今まで溜め込んできたせいで、いっぱいに埋まっていた。

 明かした時の解放感はえげつなかった。数十年間、監禁されていた中から、解放されたような感動的なものだった。

 深呼吸をする。空気が美味しかった。生きているんだな、そう感じた。

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