第49話

「皐奈ちゃん!」

 そう叫びながら、海へ走り出す。砂が宙に舞う。波の音が走る私の背中を押してくれているように聞こえる。

 彼女は逃げるような素振りを見せたが、しばらくすると諦めたようにそこに立ちすくんでいた。海をバックに風に靡かれる彼女は儚かった。今にも消えてしまいそうなほど、切ない表情をしていた。

「無事?」

 彼女が頷く。それと同時に如紀ちゃんは、涙をこぼした。誰よりも皐奈ちゃんの無事を願っていたのは、おそらく彼女だ。

「心配かけちゃってごめんね。」

 皐奈ちゃんは雫を瞳から零しながら言った。いいよ、と声をかけることしかできなかった。彼女は、彼女自身との葛藤に勝ったようだった。

「謝れるくらい冷静なのね。」

 そう言う如紀ちゃんの目は冷たくなかった。むしろ温かかった。

「一応来てみたけど、こんな早く会えるなんて、気が合うのかしら。」

 如紀ちゃんは茶化すようにそう言った。

「みたいだね。」

 私がそう言うと、皐奈ちゃんも微笑んだ。すると、私のお腹がギュイーと鳴ってしまった。時間がなくて、朝から何も食べていないのだ。一瞬時が止まったように感じた。そのあと、大きな笑い声が両脇から聞こえた。

「ご飯行く?」

 如紀ちゃんは散々笑ったあとに、聞いた。申し訳なさそうに頷くと、

「いいよ。ちょうどお腹空いてるし。」

 と皐奈ちゃんも同意してくれた。


 海から徒歩五分くらいにある、イタリアンのレストランへ行った。自然の中にある木造りのレストランだった。お店の方もとても親切な方が多く、また来たくなるようなところだった。

「イタリアンなんて久しぶりだな。ピザ食べよっかな。」

 如紀ちゃんはあっという間に決めてしまった。優柔不断な私と皐奈ちゃんは、悩みに悩んでいた。パスタもいいし、ピザもいいし。悩んでしまう。メニューに一品しかなかったら、一瞬で決まるのにな。それだと、つまらないのかな。せめて、二、三個にして欲しい。

 結局、コーンとチーズのパスタにした。皐奈ちゃんは、鯖のパスタ。如紀ちゃんは、レーズンとパイナップル入りの甘そうなピザを頼んでいた。どれも美味しそうで、もう一度迷路を始めてしまいそうになった。

 料理は幸せと共に運ばれてきた。実物は写真なんかよりよっぽど美味しそうだった。逆にがっかりすることもあるので、期待していなったが、輝いて見えるほど、美味しそうだった。食べてもないのに、おいしい、と言ってしまいそう。

「それで、何があったの?」

 お水を注ぎながら、如紀ちゃんが聞いた。

「特に何があったってわけじゃないけど、急に怖くなった。」

 皐奈ちゃんは泣きそうになりながら、そう言った。

 よく冷えた水が体を震わせた。

「具体的に言うと?」

 皐ちゃんは水がいっぱい体に染み込ませると、ため息をつきながら言う。

「私という存在が、お父さんとお母さんの間に愛があったことを表す一番の証拠なんじゃないかって思った。」

 何か閃いたときのような衝撃を感じた。雷に打たれたようだ。体験したことはないけど。如紀ちゃんも同様に動揺していた。

 そんなことない。そう言えればよかった。でも、無責任に自信のない言葉を言うわけにはいかない。如紀ちゃんも同じ気持ちなのか、黙っている。

「捜査を進めれば進めるほど、明らかになるのはネガティブなことばかり。調査してよかったなんてこと一個もない。」

 彼女の言うことは間違っていなかった。全て同意できる内容だった。

「これからだって、良い方向には進まないと思う。それなのに、平然と普段通りのことをしている皆に置いてかれたような気分だった。」

 私たちも、全てをポジティブに変えようとしているわけではない。涙を隠しているわけではない。何て言うのだろうか。全てはなんとなく、だった。自分の行動が正しいか否かいちいち判別する暇はないのだ。悩んでいたら、次々と新情報が手に入って、それに驚いて、それを対処して。なんてやっていたら、悩む暇なんてなかった。それは、幸せなことだったのかもしれない。最近はそう感じるようになった。

「んー。なんだろう。良いことは言えないけど、私たちもやりたくてやってるわけじゃない。ただ流されるままに行っているだけ。だから、むしろ、自分の意思で疑問を感じる皐奈ちゃんは私たちより大人だと思うよ。」

 如紀ちゃんは必死に励ました。でも、多分彼女がかけて欲しい言葉はこれじゃない。私たちより大人だったところで、何も解決しない。彼女が懸念しているのは、、なんだろうか。

「一番の悩みの原因は何?」

 何か解決するのに、ヒントになるものを探り出そうと聞き出す。

「一番とかない。全部が混ざり合って出来ちゃったみたい。でも、証拠だってのは、私だけが唯一感じる苦しみだから、結構深いかも。」

 それに関しては一番難しかった。彼女が言ったように、私たちには体験できない苦しみである。その場合、どんなに的確な助言でも、あなたにはわからない、で片付けられてしまう。実際間違っていない。確かにわからない。だから、それで会話は終わってしまうのだ。返す言葉がなくなってしまうから。

「ごめんね。私が難しい悩みを押し付けちゃってごめん。そんなの知らないって感じだよね。」

 皐奈ちゃんは、空気が読めすぎるところがあった。もちろん、長所でもあるが、短所でもある。

「それは違う。自分を自分で否定しないで。」

 如紀ちゃんの凛々しい目は頼もしかった。

 その目に溶かされそうな皐奈ちゃんの目が横目に見えた。

「自分がいたら、二人に危険が及ぶから、だから、消えようとしたの?」

「そうかもしれない。」

 あっさりと肯定されて少し落ち込む。私だったらそんな発想に至らなかっただろう。

 如紀ちゃんは宥めるように背中をさする。

「確かに、皐奈ちゃんの言ってることは正しいかもしれない。でも、もしそうだとしても、皐奈ちゃんが責任を負う必要はないじゃない?」

 彼女の言うことを簡単に否定するのは難しかった。責任のない言葉は、苦しみの材料になるだけだから。

「簡単な話、お父さんやお母さんのせいでしょ?全部。二人が悪いんでしょ?一番の原因でしょ?」

 一切の感情を組み入れない、事実だけを並べた言葉を発した。

 皐奈ちゃんは、少し抵抗してから頷いた。

「そうよ。あなたは何も悪いことをしていないんだから、堂々としていればいいの。」

 彼女は頬の筋肉が抜けたように、張り詰めていた表情を緩ませた。それだけでも、ここまで来た価値はあったように思える。

「私は、そこまで自分にプライドがあるわけでもないし、価値があるわけでもないから。私が黙って身を隠すことで、二人を助けられるのなら、それで良いの。むしろ、そうしたい。」

 彼女の気持ちはわからなくもなかった。自分の行動によって誰かが喜ぶというのは、自分の心を満足感で埋めることができる。だから、それは違う、と一概に否定することはできない。でも、なんだか、もやもやしている。それで良いのかどうか。

「あなたがそうしたいのなら、止めない。でも、助言することはできる。それで、本当にお父さんとお母さんが喜ぶと思う?二人を喜ばせたいからするのに、結果的に誰のためにもならなかったら無駄じゃない?」

 如紀ちゃんは私の言いたいことを代弁してくれたようだった。蝶の両側の羽根のように、一ミリも違いのない意見に大きく頷く。考えていた言葉よりかは、厳しい言葉だったけど。

「それから、自分に価値がないって言ったわよね。それだけは許せない。好きなことを自信満々に続けているあなたの方が、私なんかよりずっと輝いているじゃない?そうしたら私なんてゴミレベルよ?」

 最後のは否定すべき?一人混乱していると、如紀ちゃんが睨むようにこっちを見た。

「わ、私だってゴミになっちゃうじゃん。」

 愛想笑いをしながらそう言った。如紀ちゃんは満足げに頷いた。胸を撫で下ろす。

「わかった。ありがとう。」

 笑いながら礼を言った彼女の目から涙が溢れた。ポトンポトンと机に着地する。彼女を苦しみから解放しているかのような爽快感があった。

「でも、ゴミじゃないからね。」

 彼女らしい。如紀ちゃんと目を合わせて微笑んだ。冷めてしまったピザを頬張る。凝縮された旨味は、出来立て、という一つの要素が除かれたからこそ、深く感じられるものだと思った。出来立てに勝るものがないのは、承知の上だけど、どうにかポジティブに考えたかった。この場にネガティブな要素はいらなかった。


 緋弥に皐奈ちゃんの無事を伝えると、よかった、という一言だけが返ってきた。他のことで頭がいっぱいのようだった。


 色々と捜査をして、進んでいるように見えるけど、何も解決していない。プールに入っても泳げず、ただその場でもがいているだけのようだ。そもそも何がゴールなのかそれすらはっきりしない。


 三人でホテルに泊まった。芸術品で埋め尽くされた贅沢なところだった。食事も口に合い、至福の時間を過ごした。温泉も気持ちよく、窓から見える海は絶景だった。水平線の先には何があるのだろう。尽きない疑問を頭に浮かばせる。この壮大な海の中にいくつもの生活や進化の歴史が詰まっている。


 食事を終え、温泉を満喫した如紀ちゃんは、あっという間にベッドに横になってしまった。そして、一分もしないうちに、返事をしなくなった。

 明日帰るための用意をしながら、皐奈ちゃんに話しかける。

「この間のことごめんね。皐奈ちゃんにだって考えがあったはずなのに、裏切り者みたいな言い方をしちゃって。」

 本当に申し訳ないと思っていた。失踪したと聞いたときも、これが原因だったらどうしようと動揺した。責任を負いたくないというのもあったが、自分が傷つけてしまったという事実を認めるのが嫌だった。

「いいの。ちょうど私は誰の味方なんだろうって考えていたときだったの。」

 味方。その反対語にあたるのは敵。悲しい世界だ。

「味方って?どうゆうこと?」

「私だって認めたくないけど、明らかに私たちの間で亀裂が入っているじゃない?」

 それは認めざるを得ないことだった。私もその境界線を無意識に意識しているから。この間の発言も意識しているからこそ出たものだったと思う。なんとなく、見えない糸で分かれているような気がする。

「睦空と望卯ちゃんはセットで、如紀ちゃんと緋弥はセットでしょ?そうしたら私だけ、余っちゃう。」

 確かに、皐奈ちゃんと全く同じ血を受け継いだ兄弟はいない。皐奈ちゃんの気持ちを考えたら、きっと心細いだろう。でも、それは誰が悪いというわけではなく、仕方ないことだから、私がそれを変えることはできない。謝ったら解決する問題だったら簡単なのに。

「だから、考えていたの。もし、分裂したとしたら、私はどちら側に着こうかなって。」

 まるで戦争が勃発するかのような言い方だった。流石にもう喧嘩しないつもりだけど。

「そのときに、緋弥に提案を持ちかけられた。私は真っ白な紙のようだった。何に染まることもできる。だから、彼の提案に乗った。睦空に特別思いを抱いているわけでもないし。それに、何かいけないことをしようとしているのなら、止めるべきだと思った。それが、彼のためにも繋がるんじゃないかなって。」

 彼女は何も間違っていない。彼女なりに悩み判断し、導いた結果がどうなっても、彼女は何も間違っていない。そう断言できる。

「やっぱり私より大人だよ。」

 考え方が幼稚な私とは違った。自分の気持ちを優先してしまう私とは。

「大変だったね。としか言えないよ。」

 なんだか自分の醜さが恥ずかしくなった。私には、皐奈ちゃんの悩みがない。なのに、自分勝手な行動ばかりしてしまった。今更失敬さに気がつくなんて幼稚だな。

「でも、こうして二人が来てくれたから。救われた。」

 救われた。それが何を意味するのか、私には理解し難かった。彼女のためになったのなら、それで十分だ。

「それならよかった。」

 なんともない、こんな時間が貴重だったりするものだ。非日常なホテルという場所は、特別感を味わらせてくれる。それに夜という幻想的な要素が加わったら、エモい空間が出来上がる。すやすやと寝息を立てて眠る如紀ちゃんを二人で見つめた。

「正直言うとね、自殺も考えてた。こんなこと申し訳ないっていうのは自覚している。でも、辛くなったらやっぱりそれを回避する方法しか考えられない。」

 励ます言葉が見つからなかった。やっぱり自分が体験していないことを偉そうに助言することはできない。

「でも、お父さんの言葉を思い出した。死ぬというのは周りとの関係がなくなること。だから、自分が誰にも大切にされず、大切な人がいなくなるまでは死んではいけない、ってやつ。昔はあまりピンと来なかったけど、今なら意味がわかる気がする。」

 父にこのことを伝えたら、きっと喜ぶだろう。いつかの助言が彼女の救命に繋がるなんて。

 私もこの言葉は大切にしていた。自分にはこの言葉の出番がまだ来ないと思っているから、大切にしまってある。

「でも、そのときもう一つ考えたの。」

 体を向ける。皐奈ちゃんは言いたくなさそうに声を縮ませながら言った。

「誰に一番この言葉を届けたかったんだろう。その人には本当に届いたのかなって。」

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