第48話

 辛いとき、寂しいとき、苦しいときに思い出す、古の記憶。エベレストの頂上。その中の登場人物を置いて、独り歩く。

 私、皐奈は、一人逃げてきた。


 皆、変わらないで、と言った。そのままでいて。そう言った。どれだけ無責任なの?そう言いたい。

 どんなことでも変化を伴う。変化こそが世の要なのかもしれない。なのに、皆、口を揃えて言う。変わらないで。

 変わる、何を持ってそう言うのだろう。外見が変わったら?性格が変わったら?目立つようなことをしたら?

 〇〇ちゃん変わったよね。みんなそう噂する。それは、プラスな意味の時もあれば、マイナスな意味の時もある。私はそう言われないように努力してきた。まるで呪いのようにかけられた言葉に操られるように。無駄な考えを熟考して、出た答えを忠実にこなし続けた。その成果なのか、変わった、と言われることは今までなかった。それが良いのか果たしては悪いのか。私には良いことだと信じるしかなかった。

 もちろん外見は変わったはず。身長高くなったね、と言われることはある。美人になったね、なんてお世辞を言われることもある。

 でも、みんなの想像する、皐奈ちゃん、は壊さないように守り続けた。

 自分を客観視して、みんなの求めていることに忠実に応えた。

 そのせいだろうか、肩幅を狭くして生きているように感じるのは。


 笑顔だけを見せてきた。雰囲気に合うように見えて、合わせているだけの笑顔。誰もそれに気がついてくれなかった。

 よかった、気付かれなくて。そう感じるべきなのかもしれない。私はみんなの中心にいながら、独りだった。それが特別嫌だったというわけではない。独りでいて、落ち着くときもある。でも、それは心地の良い独りではなかった。暖かくなるような孤独ではなく、凍えるような孤独だった。確かに、暖房はあった。でも、何かが妨げになり、私には届かなかった。確実に目の前にあるのに、手には届かなかった。そのことにも、もう諦めがついた。私がこの性格を変えない限り、寄ってきてくれる人はいないのだろう。私も意思のない人間と友達になりたい、とは思わない。「なんでもいいよ。」が口癖な人間とは友達になりたいとは思わない。


 重荷は下へ下へと降りてくる。重力に操作されているように。良いことも悪いことも全て例外なく降りてくる。

 皆が作った道の上を歩く。自由なようで全く自由ではなかった。一歩も踏み外さないように慎重に歩いた。

 まるで人形のように扱われた。意思のないものとして扱われた。とりあえず、皐奈。一番最初に出てくる名前だった。五十音にしても。

 しかし、そう一番に呼ばれることに、いつしか生きがいまでを感じてしまうようになった。元気よく返事をするようになった。それを期待するようになった。

 それでよかったのに。そのままの気持ちでいられたら、変わらない気持ちでいられたら、こうやってまた苦しむ日は来なかったのに。なのに。疑問を感じてしまった。


 何度も訪れた懐かしの場所。唯一、自由を誘ってくれる場所。砂浜をギシリと踏みながら歩く。平日のこんな時間に海でくつろぐ人はいなかった。静まり返った海は、私一人のもののように感じた。壮大な海を独り占めした。

 学校も休んだ。無断で。それに快感を感じた私はいよいよ終わりなのだろうか。

 何にも追われず、目的もなく、歩く砂浜は、開放感で溢れていた。もはや、何色でも無いような海は、この世のものではないかのように美麗だった。波が届くところまで行く。


 私の元まで届かず、もどかしさを残す小波。

 バランスを崩してしまうほど派手な大波。

 忘れ物をしたかのように私を置いて引き戻る波。

 横から唐突に発生する迷子の波。

 行き場をなくした波。

 磁石があるかのように急いで引き返す波に止められ、岸辺まで届くことのできない波。

 鳥肌を立たせる冷たい波。

 私に居場所を作る温かい波。

 それを壊す勢いのある波。

 砂もサンダルもがむしゃらに奪い取ろうとする波。

 勢いをつけて遠くまで旅をする波。

 ビールの泡のように白く濁った波。

 遠くで消滅し、私のところまで届かない幼い波。

 その全てを美しいと思えたら。その全てを愛らしいと思えたら。

 そうしたら、きっと、私の周りは幸福で溢れていた。

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