第41話
「睦空は今捕まってる。」
緋弥はそう言った。
耳に水が入っているときのように、ぼんやりとしか頭に入ってこなかった。自分だけが浮いているような感覚もある。
「え?」
しばらく頭が真っ白になり、何も考えられなくなった。高まる鼓動を抑えるのに精一杯だった。心臓ごと引っ張り出され奪われそうな感覚を覚える。呼吸の仕方がわからなくなった。全てが真っ白になり、くらくらする。
そばにあった椅子に座り込む。顔を隠すために下を向いた。
「なんで?どうして?何をしたの?」
一言喋るのに相当な気力と労力を使う。呼吸がおぼつかない。吐き気を誘う不規則な呼吸。開いたまま閉じない口。全てをぶち壊してやりたい気分だった。
すでに知っていたかのように私を見守る皐奈ちゃんと如紀ちゃんが、視界の隅にしか映らない。
「ごめん。俺が。」
その瞬間、パチンと何かが切れて弾けたような音が鳴る。私が緋弥の頬を叩いた音だった。自分でもそう認識するのが、遅くなるほどに混乱していた。多分私は涙目だ。
「あ、ごめん。」
即座に謝る。周りの皆は先ほどの私のように驚愕していた。時が止まったように、誰一人として動かなかった。
彼も無理矢理向けさせられた方向へ視線を向け、そこから微塵たりとも動かない。ただ静かに瞬きしながら、遠くを眺めている。それからしばらく考えごとをしていた。
「ごめん。」
彼も謝る。しかし、その内容が理解できない私には何の効果もない。
焦点が合わず、目を彷徨わせる彼の視線の先には、何もなかった。
再び沈黙が訪れる。
「ごめんね。私もなの。」
皐奈ちゃんが静まり返った部屋の中に凛とした声を響かせた。
「ちょっと、まって。わからない。さっきから何を言ってるのかわからない。説明して。」
次から次へと入ってくる新情報は耳を通り過ぎて行った。頭の中に残るものは何一つとしてない。
「説明するから、とりあえず落ち着いて。」
急かすような彼の声に余計に気持ちが高まる。
「わかってる。」
深呼吸をして心を落ち着かせた。久しぶりにまともな呼吸をした気がする。
ダイニングの机に向かい合って座る。
「取引をしたんだ。」
一つ一つの単語が連なり彼の口から出てくる。
「父さんの居場所を教えろって、突然やってきた睦空に言われた。もし、教えなかったら、両親のことを警察に告発すると言われた。結果的にはそうなるかもしれない、と思ったが、独断で彼らの運命を決定するわけにはいかないから、教えた。」
睦空は何をするつもりだったのだろうか。両親を特別に嫌っているわけではなさそうだったし、告発する理由がわからない。もし、お父さんが捕まったりしたら、睦空や私たちも生きにくい立場になるはずなのに。それは彼なら安易に想像できることだと思う。
私の知らない睦空が明らかにされるような気がして、続きを聞くのが怖かった。
「もう一つ、父の居場所を教えるということは、彼が父をを好きにすることを許すということだ。それは心配だったけど、最悪の事態を阻止する方法があった。」
「最悪の事態って何?」
彼は、やっぱり引っかかるか、と言うような顔をしている。
「睦空が自分自身で望んでいないのに、不法なことを行うこと。」
は?と言いたくなるほど、内容がわからなかった。まるで辞書に書いてある文面のように。
「何を根拠にそう考えたの?」
如紀ちゃんは問い詰めるように聞いた。
「勘。」
呼吸が荒くなるのを感じた。ため息をつく。呆れたように。
なんだか腹を立てるのさえ馬鹿らしいと感じる。
「つまり、あなたの信用できない勘で睦空を犯罪者に仕立て上げたわけ?」
椅子から立ち上がり怒鳴るようにそう言った。
「聞こえの悪い言い方をすれば、合ってる。」
大したことじゃない、というかのような惚けた表情を殴りたくなる。もちろんそんなことはしないけど。
「ほんと、馬鹿みたい。」
結局簡単な言葉で貶すことしかできなかった。
「それで、その阻止する方法ってのは何なの?」
如紀ちゃんが冷静に問いかけた。
「それが睦空を逮捕させることだった。」
そう言われた瞬間、ドクンと胸が鳴った。
「どうやって?」
「皐奈に彼を居酒屋に連れて行ってもらった。俺だと警戒されると思ったから。」
皐奈ちゃんも申し訳なさそうに頷いた。
「なんで、あなたまで協力してるの?私たち側でしょ?」
火花を皐奈ちゃんの方は向けた。
「最後まで話聞いてくれよ。」
呆れたように言う緋弥の声も届かない。
「私は緋弥の説明を聞いて、彼の方が信じられると思ったから。それに、睦空が何か不法なことに手を染めようとしているなら、止めないとって感じだから。」
なんで信じるの?そう問いたかった。でも、悲しくなる答えが返ってくるだけだと思い、やめた。そうなったら損をするのは私の方だ。
皆、何かを遠回りして言おうとする。その何かをダイレクトに教えてほしい。
「あと、こちら側とかあちら側とかないから。みんな同じ兄弟でしょ?」
誠に腹が立つ。そのような綺麗事で片付けないでほしい。私だって分裂したくはないけど、意見が食い違うのならそれも仕方ないことだと思っている。
「そうだけど、皐奈ちゃんは、私と同じ意見を持っていて欲しかった。なんて、わがままだよね。ごめん。」
自分勝手すぎる意見だってことはわかっている。それでも彼女には同意して欲しかった。彼女は難しいというような顔をしている。
沈黙を切り裂くように再び緋弥が口を開いた。
「それで、さっきの続きだけど、酔わせてから暴行事件を起こさせた。」
もうなんだかどうでもよくなるくらいに、意味がわからなかった。いや、意味はわかるけど、ふわふわしていた。忠実に言葉を追わずに、簡単に受け流してしまえそうなくらい。
「被害者は誰?」
如紀ちゃんは静かに問いかけた。
「俺。だから文句ないだろ。誰も傷ついてない。誰にも迷惑をかけていない。」
彼も必死なのだろう。乱れた髪と絆創膏や包帯がまかれた顔や腕がそれを表していた。今までその変貌した姿に気がつかないくらい衝撃的な言葉が続いたのだ。
確かに、被害者が他にいないという点に関しては文句はなかった。
「文句ないわけない。あなたが殴られようか蹴られようがどうでもいい。問題は睦空が加害者にさせられたことなの。」
多分、緋弥は今の言葉に傷ついただろう。でも、彼には傷ついてもらう必要があった。自分がどれだけのことをしたのか、どれだけ私の心を抉るようなことをしたのか、気がついてもらうために。
言い返そうとする緋弥を止めるように如紀ちゃんは口を開く。
「そんな簡単に暴行しないでしょ。ただ単に酔っただけじゃ。」
何か睦空がかにするようなことをしたのなら許せない。
「確かに、簡単じゃなかった。でも、俺の想像をぶつけたら簡単に動いた。」
睦空を馬鹿にする彼は、今までと比にならないくらいムカついた。私も手が出てしまいそうなくらい、むやむやした。心臓が焼かれているほどに熱くなった。鼻がむずむずした。泣き叫びたい。
「想像って?」
「なんだろうね。」
彼はヒントを与えなかった。凛としたその目を見つめる。振り切るように目を逸らす。
「みんなおかしい。なんでこんなことを受容できるの?間違ってる。馬鹿なの?なんで?どうして?この人を信じるの?睦空を信じないの?」
全てをぶつけた。私の気持ちを何一つとして誤魔化さずに直接伝えた。自分の心を映し出しているように。緋弥は言い返すようにヒートアップさせた。
「おかしいはお前だ。みんなそう思ってる。紅組に白組が混ざって、周りがみんな間違ってるって言ったって、周りから見れば間違ってるのはお前ただ一人。」
現実を突きつけているのだろう言葉。でも、私は現実のようには感じられなかった。皐奈ちゃんは自分のことのように深く心を痛めているようだった。如紀ちゃんは口論が始まってしまったことに苛立っているようだ。
「今から望卯を多分傷つける。でも伝える。人は生きていく上で、軸となる人物が必要だ。」
急に悟りが始まった。哀れな目で彼を見つめる。同じように彼も憐れみを込めた目で私を見つめた。
「これは客観的な意見だから否定しくれて構わないが、多分お前のその軸は睦空だろ。優しくされたからだからなのか知らないが。」
「どうゆうこと?」
緋弥は呆れたような表情を見せながらも丁寧に説明をしだす。
「もし、俺と睦空が同時に命の危険に晒されていたら、望卯はどっちを助ける?」
返す言葉がなかった。確かに睦空のことは、特別な目で見ているかもしれない。でも、それと今回の件は関係ないはずだ。
「だから疑えないんだろ。信じていたいんだろ。」
問いかけるようなその目線に体の動きを止められた。瞳を動かすことさえできなかった。全てが監視されているようで。
「それを変えろとは言わないが、意見を言うな。人を水平な目線で見れないやつの意見は参考にならない。むしろ邪魔だ。こんなこと言うのは申し訳ないが、お前が想像しているのは、お前の理想の兄だ。理想の中の人を現実に持ち込まないでくれ。」
誰もその緋弥の意見を反対しなかった。他の二人も同じことを感じていたのかな。私を哀れな目で見ていたのかな。可哀想だと見下していたのかな。そうだとしたら、なんだか全てを投げ出してしまいたいくらいに腹が立つ。ぽろりと涙が溢れる。意地でも目は閉じなかった。涙が滑り台のように頬をつたる。まるで、波が溢れていないように振る舞った。
そんな目で見ないで。
可哀想だと思わないで。
哀れだと思わないで。
私の気持ちを理解しないで。
「すごいね。まるでヒーローみたいだね。」
冷たい目でそう言い放ちながら、廊下に繋がるドアを開く。
「どこに行く?」
無視した。彼から出る言葉に価値はないと感じたから。
「ちょっとまって。」
その言葉も振り払う私を彼は無理矢理引き留めた。
「今睦空がしていることは、睦空が心からやりたいことじゃない気がする。ただ何か彼を責めるものにそうさせられそうになっただけだと思う。だから、止めないといけない。だから、俺だって、それを止める行動をした。これは義務なんだ。」
美術館で展示されそうなほど彼の目は、異妙な輝きを放っていた。私が見つめ返してしまったらもったいないくらい。思わず陶酔してしまった。
私に言い聞かせるようなその言葉は、彼が自分自身に言い聞かせているようにも聞こえた。
「あなたは多分正解。でも、私は不正解だとしても睦空を捨てることはできない。」
自分でも信じられないくらいの力で、緋弥を投げ倒すと部屋を出て行った。これが私の判決では正解だから。涙を投げ捨てる。
緋弥の言うことは正しいのかもしれない。いや、きっと正しい。百人に聞いたら、全員が彼を支持するだろう。もし私が第三者の視点でこの物語を見ることができたら、私は彼の言葉を正しいと断言していると思う。しかし、それは不可能なのだ。この迷いの加害者は私で、被害者も私なのだ。私の物語なのだ。そうなると情というものが嫌でも入ってきてしまう。間違いだとわかっていながらも、その間違った方向へ突っ走ってしまう。それが未熟なのか当然なのかわからないが、それが私なのだ。彼には止めることができない。
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