第32話
翌る日。夏休みの続きを過ごしたような昨日を、もう一度過ごしたかったのだが、そんな暇はなかった。朝食を終わらせ、今日は何をしようか、なんて予定を考えていた頃。インターホンが鳴った。その深刻そうな野太い音は、これから始まる悲劇を暗示しているようだ。
「とりあえず、私隠れるから。」
ひそひそとする必要はないが、存在を消していた方が今後楽になると思ったから。向こうが変な憶測をしないように、隠れた。
絶対に来ないような浴場に隠れた。湿った空気が肌に熱を籠らせる。
遠いリビングから、緋弥の声が聞こえる。なんと言っているのか、判別はできないけれど。
「緋弥くん行った。追いかけるよ。」
彼女は、緋弥が出発するとすぐに、浴場へ駆けてきた。
事前に借りていた車を、彼女は自分の一部のように走らせる。あっという間に追いついてしまった。車のゴーゴーという走る音が心地よさと焦りを感じさせる。事実をこの目で確かめたい、と思うのと同時に、その事実を知らないままにしておいたい、と感じる。この二つの気持ちの中で迷う。私はそういった状況にあるとき、いつも成り行きに決断を任せる。どちらに転んでも、受け入れるそれを受け入れる勇気を持たなければ。
ぼんやりと外を眺める。目に写る不鮮明な都会は、私を一人にさせる。あなたの問題なんだから、あなたが決めなさい。そう言われているような不快感が心を直撃する。自分の気持ちがわからない。理解できない、というわけではなく、ぼんやりとしていて答えが出ない。何をしたいのだろう。何の目的を持って行動しているのだろう。誰を信じているのだろう。そんな簡単な疑問に、回答はセットじゃなかった。また、別だそうだ。
夢がある人が羨ましい。幼い頃はそんな願望が脳裏を横切ることはなかった。自由に思い描いた未来。その中で笑っている私。何一つとして実現しなかった。呆れる。皆、そういうものなのだろうか。もしそうだったら、私はその皆と一緒の類に入るのだろうか。
いつからだろうか。夢が実現しない未来を想像し、恐怖感に襲われるようになったのは。夢を描くことに後退感を伴うようになったのは。
今はそんな悠長なことを考えている場合ではない。目を凝らして緋弥を追わなくてはいけない。その行動が正しいのかさえ、わからないまま突き進まなくてはいけない。
「結構距離あるね。」
皐奈ちゃんは少し疲れたように言う。確かに、想定していたよりも長距離だ。
「なんか気が抜けそう。」
ボソッと呟く。もうすでに気が抜けてた、とは言えない。
「お、到着したみたい。」
コインパーキングに車を止める、緋弥の姿が目に入る。結果的に、一時間ほどかかった。随分と田舎の方にきた。見覚えのない地名ばかりだ。しばらく車の中で見張りながら、目で跡を追う。どうやら一軒の家に用事があるようだ。家と言っても一人暮らし用のアパートだ。確かにその家に入っていくのを確認してから、車を降りた。
インターホンを押す。ピンポーン、と音が鳴り響く。
「はい。」
緋弥の声が聞こえた。
何と装うべきだろうか。いや、装わない方がいいのだろうか。
「皐奈です。開けて。」
私が頭を悩ませている間に、彼女は凛とした声を上げた。
案の定すぐに、返事はなかった。ドアも閉められたままだった。
しばらくして物音が聞こえた。怪しい。そう思い、裏口を探した。皐奈ちゃんには、玄関に留まっていてもらった。
どこからか、窓を開けるような音が聞こえた。しかし、私はその音を追うことができなかった。その音に反応し、理解し、追いかけるまでの時間に、窓を開けた人物は逃亡してしまったようだった。私がアパートを一周しても見当たらなかった。悔しさが胸に染みて、頭を抱えていたとき、皐奈ちゃんが緋弥を連れて、駆け寄ってきた。
「ごめん。逃しちゃった。」
私がそう言うと、皐奈ちゃんは、首を横に振った。
「説明して。」
皐奈ちゃんは、緋弥へ向き返ると、鋭い声を上げた。
「とりあえず、車乗るか。」
話を逸らした。車の方へ身を運ぶ彼を横目で流した。皐奈ちゃんと目を合わせる。はぁとため息をついた。
「如紀はいないの?」
問われることを避けるかのように彼は聞いた。
「予定が合わなかったから。」
もちろん嘘だ。しかし、この嘘は真実を話すより、良いと思った。私の気持ちをここで告白して関係性が悪くなるより、簡単で誰にも被害のない嘘をつく方が、断然適切だと感じた。
「それで?何があったの?」
私たちは呆れながら、最後の押しをかけた。
彼は観念したように話し始める。
「騙したことは申し訳なかった。でも、仕方がないと思ってる。父さんに一連の行動をしろ、と頼まれたんだ。俺は言われた通りに動いていただけだ。」
憎めない哀れみの顔を見せつけながら、彼は言った。
まるで自分は何も悪くないと主張しているようだ。実際には、そうなのかもしれないけれど。
私も母に同じことを頼まれたら同じ行動をしているだろう。それだけ親というのは、偉大な存在なのだ。
皐奈ちゃんはどうしていいのか、わからない、というようなぽかんとした顔をしている。
「その理由とか目的とかはわからないの?」
彼は私の質問に頷いた。
「どうして引き受けたの?」
それが一番の疑問だった。彼と父の関係性を完璧に認知しているわけではないが、私と母以上の関係でも、以下の関係でもなさそうだった。
「そういうもんじゃないのか?」
当たり前のようにそう言う彼を見つめる。その目線は憐れむように見えたか、同情するように見えたか、軽侮するように見えたか、私にはわからない。
そう問われればイエスとしか答えられない。ノーと答える勇気はない。
彼の理念を言葉にするのは畏れ多い。それくらい攻撃力があった。心を抉るような、ある空間へ誘われているような感覚を覚える。
その言葉を丁寧に理解して閉じ込めるには大分時間がかかった。
「具体的に言えば何をしていたの?」
皐奈ちゃんは攻める。
「全部話すと、母さんが亡くなる前あたりに会ったときに、半強制的だったけど提案を受け入れた。匿ってくれ、と言われた。俺以外に姿を見せたくない、と言われた。皐奈に車を借りたのは、食料とかの生活必需品を運ぶため。」
真剣な瞳を覗き込むと、疑う余地はなかった。
「それ以外、というか、何も教えてくれなかった。目的も理由も。」
それでもその提案を受け入れた彼を称賛すべきなのだろうか。
「じゃあそのためにわざわざ免許まで取ったの?」
皐奈ちゃんは思い出したように尋ねる。
「まあそういうこと。」
信じられなかった。誰かのためにそれまでの労力をかけられることが。
それは正しいことなのかわからなかったが、一瞬だけ彼を敬うことにした。
「これから、お父さんはどうなるの?」
私たちにばれてしまった以上、昨日の延長線上の生活をすることは不可能だろう。全く同じ生活をすることはできないだろう。
「多分、後で連絡が来ると思う。また、違う住居を探して、今まで通りに暮らすと思う。」
他人事のようにさらっと彼は言った。
「でも、その住所を教えることはできない。多分父さんには何か意図のいつか分かると思う。だから、それまで会わないで欲しい。追わないで欲しい。」
簡単に了承できるような内容ではなかった。距離を感じる。それが嫌だった。
それに、彼の行動が正しいことだったら、応援するだろう。しかし、お父さんの意図がわからないまま、協力するのは、何というは危ない気がする。
「わかった。」
決断とは呼べない決定だった。無理矢理、自分を言い聞かせただけだ。
皐奈ちゃんも静かに頷いていた。彼女は、今回の彼の一連の行動をどのように感じ取っているのだろう。
「私たちが今日追跡したのは無駄だったってこと?」
皐奈ちゃんが問いかける。
「おそらく。まあこちら側としては、罪悪感が一つ減ったけど。」
そちら側のメリットは聞いていない。
良かったのか悪かったのか。父の無事を確認することができて、良かったと思えるほど、純粋な人間ではない。むしろ、今まで隠されていたことに腹を立てる。私はともかく、皐奈ちゃんは、ものすごく心配していたのに。
チラリと皐奈ちゃんの方を向く。すると彼女は安堵の涙を浮かべていた。解放されたような笑みも浮かべていた。緋弥に目で指示を送る。
「悪かったって。」
そうじゃない。謝れって言ってるの。
「いいよ?私を信用できないのは。でも、無事なら、それだけでも、伝えてくれても、よかったじゃない。」
涙に止められながらも彼女は一所懸命にそう言った。
慌てる緋弥を見て、思わず口が緩む。この構図は昔から何度も見てきた。違う意味で泣けてきそうだ。
その後、二人は仲直りをしたようだった。仲直りというより、皐奈ちゃんが、緋弥を許容してあげた、というような感じだったけれど。
そして、それぞれの住まいへ散った。
この件については、皐奈ちゃんを通して、如紀ちゃんにも伝えられた。
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