第9話
これから何かが始まる、予兆のような温かい風が好きだ。背中に汗の湿りが残る。日向を避けて日陰を通る。自転車でウキウキしたこの空気感の中を駆け抜ける。
今日から夏休み。今からなら何でもできるようなそんな気持ちになる。実際には後悔のみが残ることを経験上知っていたが。
家に帰ると、母が旅行の準備をしていた。うちには毎年恒例の行事がある。それは熱海旅行と軽井沢旅行。生まれてから今まで、毎年欠かさず行っていた。なのに、今回、兄は行かないそうだ。受験があるなら仕方ないのだろうけど。
翌日。父の運転で熱海まで行った。渋滞の中でしりとりをして遊ぶのも恒例行事だ。大抵、皐奈ちゃんが、んをついて負ける。如紀ちゃんもなんやかんや言って参加するのだ。緋弥はいつも難しい単語を得意げに言う。こっそり調べているのを私は知っている。
毎年通うビーチと海鮮料理屋さん。貝類が苦手な緋弥と脂っこいマグロが苦手な如紀ちゃん。全体的に少食な皐奈ちゃん。各々好きな料理を頼む。帽子を深く被ったお母さんがその様子を見て微笑む。やはり、欠けた席が目に入るが、十分円満な家庭だと思った。いつまでもこの幸福が続けばいいのに。そう考えると胸を締め付けられたような気持ちになった。
そしてビーチへ。海パンだけを履いて、太陽に全身を照らされている私たちと、日焼け防止の服を身に纏うお父さんとお母さん。対蹠的だった。
一番に海へ駆けていくのは、怖いもの知らずの皐奈ちゃん。浜辺でスマホを片手に写真を撮る如紀ちゃん。恐る恐る浅いところから進んでいく緋弥。仲良く浜辺で横になる両親。思い出を毎年毎年繰り返して、更新していけたら、いいのにな。
別荘に到着すると、皆思い思いの場所で、好きなことをやる。会話は無いが、同じ時間を同じ場所で共有している、この時間が好きだ。いつもと違う環境で心が躍る。
夕食も豪華で食べきれないと言いながら結局食べてしまう。海鮮系が特に絶品で、無限に食べていたいくらい。
夜中遅くまでやるカードゲームは最高だ。いつもは早く寝なさい、と口うるさい親もこの日は目を瞑ってくれる。眠い目を擦りながら、少しでも長く起きていたいと皆、意地を張る。限られている時間を埋めていくような感覚だ。段々と参加人数が減っていくと、心のウキウキが減少していく。膨らました風船がしぼんでいくような感覚だ。
平日にこんな早く起きれればいいのに、ってくらい早く起きてしまう。それも楽しみが心の中に残って離れないからだろう。
みんなで用意する朝食の味も別格だ。少し下手くそになっても、味が良ければ全て良し、ってことで。
時間の流れがいつもより早い。あと何回寝たら帰るのか、そんなことばかり考えてしまう。そのカウントダウンが切ない。
帰りの車の中で外を眺める。一週間前に戻れたらな。思い出となってしまった日々をしみじみと思い返す。
家に帰ると、持っていたものを片付けるのがめんどくさくなる。それが私たちの旅行だ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます