第22話
当日。
早ければ早い方がいい、ということで、早朝から向かうことにした。まだ人気がない頃、皐奈ちゃんが私の家まで迎えに来てくれた。私が乗車すると、すでに乗っていた姉がいた。チェック柄のワンピースがとてもよく似合っていた。巻かれた髪も可憐で、私よりも若者だった。
朝日に照らされた木々が、塀に影を作る。その模様は人類が作り出せないような繊細さと絢爛さを持ち合わせていて、美術館にいるような気分になった。そこにある塀は灰色に過ぎなかったが、目に見えた塀は橙色で暖かかった。
「いきなり熱海に行けって結構無茶だよね。」
それには同感だ。
「まだ、熱海はいい方だよ。これから軽井沢と北海道が待ち構えてるんだから。」
皐奈ちゃんが笑いながら言った。
「そうだった。ほんと、お金無くなるって。」
それにも同感だ。
「だったら旅行として楽しもうよ。」
これは本心だった。
「随分と乗り気なのね。確かに、文句を言うよりそっちの方がいいわね。」
姉が同意してくれて、嬉しかった。認められたような気持ちになった。
「それにしても、みんな、大分落ち着いてるよね。お父さんが失踪したっていうのに。」
皐奈ちゃんが心配そうに言う。
「みんな内心思ってるのよ。大したことないって。そもそも本当にいなくなったのかまで怪しい。」
姉が言った。確かに私も心配して寝れないわけではない。その心配は頭の一部分しか占めていない。
「緋弥を疑ってるの?」
「やりかねない。これは私の直感だけどね、何か考えてそうなのよ。」
長年ともに過ごしている姉が言うのだから、その直感は信じられるかもしれない。
「いつも誤魔化すでしょ、あの人。」
うんうん、と頷く。その経験は私にもあった。
「昔はただ生意気なだけだったのにな。なんか偽っているような気がする。」
姉が悲しそうに言う。確かに全て演技だと言われても、納得がいく。どこまでが本心なのか、知り得ない部分もあった。
「それにね、ときどき不審な行動をするの。何かを探っているような。聞いても答えてくれないけど。」
それは気になる。何をしているのだろう。
「ついにお兄ちゃんもボケちゃったのか。」
皐奈ちゃんの冗談にみんなが笑った。 「でも、みんな変わったよね。」
そっと呟いた。特に如紀ちゃんと緋弥。
「そうね。でもあなたは変わらないわね。」
如紀ちゃんは私の方を見ながら言った。
「それは良い意味?」
恐る恐る聞いてみる。
「さあ。」
微妙な返しに微妙な反応をしてしまった。さあ、ってどっちなのよ。
熱海についた。腹がすいては戦はできぬ、ということでいきなり海鮮丼を食べることにした。よく通っていた店だ。姉は迷わずに一番豪華なものを、妹は天ぷら定食を、私は好物のサーモン丼を頼んだ。昔とは頼むものが変わっていたことに成長を感じた。
「うわー。美味しそう。」
皐奈ちゃんが賞賛の声を上げる。海が近いだけあって、鮮度が違った。サーモンは安定のオレンジ色で豪華に盛り付けられていた。いくらもいつもより大粒で一つ一つが輝いて見えた。
「手を合わせて、せーの。」
皐奈ちゃんが言った。
「いただきます。」
懐かしい。それは母のセリフだった。毎日毎日同じトーンで、合図をする。それがルーティンのようになっていた。母がいなくなってもそのルーティンは私たちに刻まれていた。
美味しい、という声を上げる。
「やっぱ新鮮だねー。」
「天ぷらサクサクしてる!」
この懐かしい一シーンを本の一ページとして収めたいくらい愛しかった。そっとこの場を離れて、第三者として見ていたいくらい、愛らしかった。
その後、別荘へ向かった。だんだんと木々の暗闇が濃くなっていくほど、心の躍りは激しくなった。
「到着でーす。」
皐奈ちゃんが言った。如紀ちゃんがおつかれ、と声をかける。
さっと見た感じ、人気は無さそうだった。
「とりあえず、中に入ってみるか。」
姉はそう言って鍵を取り出した。
「お邪魔しまーす。」
元気にそう言いながら、皐奈ちゃんは中へ入っていった。続けて姉と私も入る。
「真っ暗だね。」
これはハズレのパターンかな。
「誰もいなーい。」
皐奈ちゃんが残念そうに言う。
久しぶりに入ったこの家は、ホコリの匂いが漂っていた。古びた木の匂いも感じ取れる。人が住んでいないとこうなってしまうのか。蜘蛛の巣も作り放題だった。
「仕方ない。何か手がかりでも探すか、って口実で色々と懐かしいもの探したいなー。」
姉が提案した。
「せっかく来たんだし、いいね!」
同意した。
庭からの壮観は変わり果てていた。丁寧に手入れされていた花も、整えられていた草木も、枯れたり異常に発達したりで、思い思いに茂っていた。自然の美しさと言うべきなのか、手抜きの庭、と言うべきなのか。もう新葉が生える隙間もないこの土地は、激しい社会を表しているようだった。
「お母さん、お花が好きだったよね。」
気がついたら隣に姉と妹がいた。
「いつも手紙には、花の絵を添えてたくらいだもん。」
母は絵の才能もある。儚く消えてしまいそうな絵は、母自身を表しているようだった。
「亡くなってから偉大さに気がつくなんて、こんな酷い話ないよ。」
空気を重くするつもりはなかったのだが、つい、思ったことを口に出してしまった。
「これからは、大事にしよう。」
そうだね。
ホコリの被った童話の本。布をかけられたまま放置されているソファ。閉められたカーテン。七つ用意された歯ブラシ。七つ用意された食卓の椅子。静まり返った家。
これらの思い出作りの材料は、私を昔の思い出の中に連れて行ってくれた。しかし、その思い出の中に入ることは不可能だった。
結局何も見つからなかった。ホテルで一泊して、東京へ戻った。夜は遅くまでみんなで愚痴を共有した。久しぶりの女子会は私に休息を与えてくれた。思い出を辿るようなこの旅は心に残り続けた。
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