第19話
締め付けられたような肌寒い空間に包み込まれた私たち。そこに両親の姿はなかった。
秋が深まり、心地よい寒さに身を包まれるこの頃。皮肉にもこの家族の再会の場に選ばれたのは、葬式場だった。生前の母が好んでいた、母の名前でもある
両親の離婚後、別々になった私たち兄弟は、それぞれで家庭を築いていた。私は母と生活をしていたため、父が作り上げた家庭の中にはいない。しかし、二つの家庭に共通していること、それは、最近は親しか住んでいなかった、ということだ。私たちは成人すると同時に独立し、それぞれの家を持った。つまり、家族全員が別々の囲いの中で生活をしていたのだ。なんとも寂しい家庭だが、理由があったのだろう。
そして、今、再会したわけだ。しかし、母の葬式場で父の姿を見つけることは不可能だった。単純に彼が参加することを拒んだからだ。私が理由を尋ねる余地はなかった。すでに理解者と化していた緋弥と如紀ちゃんによって、距離感を築かれてしまったから。
母が死んだ。その告知を耳にしたとき、離婚を発表されたときと同じ感情に包まれた。自分だけが置いてきぼりにされているような、空っぽの心が再建築された。
自殺だと言う。信じられない。時には腹が立つほど陽気で、常に笑顔が絶えなかったあの母のことだ。離婚後も伸び伸びと割と裕福な生活を送っていた。不安や憂鬱な感情が彼女から垣間見れることは一度としてなかった。心に隠し込んでいたのなら哀れだが、私にはその話を事実として受け取る術がなかった。
先日のお通夜の場で、その死体に触れても実感として湧かなかった。ひんやりとした感触だけが残った。今朝、入り口で繁田茜、葬式の字面を見ても実感が湧かなかった。
これから別れの儀式が行われる。一連の葬式の準備は男性陣に任せている。
「ご主人様はどちらに?」
会場スタッフの質問に兄が淡々と答える。
「あいにく仕事の日程が合わず、本日は欠席です。取り仕切りは私が行いますので。」
スタッフは信じられないというような顔を見せた。寂しい家族だと思われただろうか。実際その通りだ。否定することができない。
用意された椅子に座り、ぼんやりの会場を見渡す。さっさと働く睦空と緋弥。お菓子をバリバリと食べて気を紛らす皐奈ちゃん。無関心だというかのような表情で退屈そうにしている如紀ちゃん。そして何も出来ずただおとなしく席に座る私。
誰かと話す気にもなれなかった。母との思い出を頑張って思い出すことで暇を潰した。
そしてその儀式の時間が来た。母との本当の別れだった。この顔を実物で見ることはこれから一切ない。
喪失感を噛み締める睦空。思いのあまり涙が溢れる皐奈ちゃん。無表情で見つめる如紀ちゃんと緋弥。そして未だに何も失っていない私。
茜の花に包まれる母に視線を向ける。その視線はいつまで経っても一方通行だった。私がどんなに温かい眼差しを向けても人情のこもった言葉をかけても、それは一方通行で返事はない。その思想を追求した先に涙があった。ただただ静かに雫が頬をつたると同時に、理性を伴う思考が疎かになっていった。これが失うということなのだろうか。この涙が喪失感なのだろうか。初めての経験に動揺した。意地でも声を上げないとつぐんだ口が緩む。兄が駆け寄り、胸の中に私を閉じ込める。私の感情を全て理解し切ったかのような表情をされるのが嫌だったので、その手を振り払い母に近づいた。この美しく優美な母の姿を目に焼き付けなくては。その一心で見つめ続ける。しかし、返事はやはりなかった。
しばらくすると、皆この状況に飽きてしまい満足したような顔で背を向けた。意外にも私はその別れを受け入れることができた。びしょびしょに濡れたハンカチが今まで私に注いでくれた愛を表しているような気がした。
火葬をする部屋に小部屋に収容された母は、勇ましくその生涯を満喫し切ったような雰囲気に包まれていた。その雰囲気に私も安心しながら別れを惜しんだ。
次の会場へと移る我々は、突然警察の方々から話しかけられた。
「今日は
紫苑、というのは父の名前だ。緋弥が首を傾げる。
「あいにく仕事が忙しいようで。申し訳ございません。」
睦空が丁寧に返答する。その後、警察の方々は帰っていった。その背中は悔しさが残っていた。
「なんで警察の人がいるの?」
皐奈ちゃんが言った。
「自死の可能性が高いから、調査をしているんだって。気にしなくていいからね。」
丁寧にそう答える睦空を、緋弥は睨むような目で見つめていた。自分が答えたかったのだろうか。それともその説明に不備があると思っているのだろうか。
私たちは、別れを惜しむ会と名付けられた食事の催しをするためのレストランへ向かう。
「唯一免許を持ってるのが一番下ってどゆことよ?」
挨拶以外聞こえなかった姉が珍しく口を開いた。
確かに自動車の免許を取得していたのは、皐奈ちゃんだけだった。
「なんやかんや言って時間かかるし、お金もかかるし。自然と後回しになるものだ。」
兄のその意見には同感だった。
「免許なんていらない。公共の交通機関で十分だ。自動車を所有するのは、個人主義のやつらだけだ。あとは、何か隠すべきものがある者とか?」
緋弥のそのひとりよがりな意見は、誰も相手にしなかった。自分の意見をよくもそんな堂々と言えるものだ。
「あなた、自分が空気ぶっ壊してるの自覚してんの?」
まあまあ、と兄が慰める。
「ところで皆、今何やってんの?」
空気を入れ替えるために新しい話題を作った。
「私はさっさと就職しちゃった。そこらへんの企業よ。」
一番初めに声を出したのは如紀ちゃんだった。一緒に暮らしていた頃は、あまり口を出さないタイプだったのに、すっかり変わってしまった。
「俺もそんな感じ。」
適当に誤魔化したな、これは。
「まあ私もそんな感じだなー。詳しく言えば薬品を扱う会社かな。」
自分から話題を振ったものの、大した仕事もしていないのでさらっとしか伝えられなかった。
「僕は一応IT企業に勤めてる。」
なんだかITというと格好がつく。
「一応って謙遜してる感じイラつくな。」
またすぐに引っ掛かる緋弥。
「皐奈ちゃんはすごいもんね。この中で唯一子供の頃の夢を追いかけてる。」
私がそう言うと、注目が妹に集まった。
「まあ。やりたいことやってるだけだけどね。」
姉が驚いたように言う。
「もしかしてパティシエ?」
うん、控え方に彼女はそう言った。どこまでも謙虚でなんて優しい子だろう。恥ずかしそうに頷く彼女が愛おしい。
姉が感心したように声を上げる。
「よかったね。めっちゃ頑張ったんだよね。」
橙色の声を上げる如紀ちゃんは、昔とは別人のようだった。人に関心を持つようになったらしい。
「勉強、すごい頑張ってた。きっと叶えられるって思ってたもん。」
彼女の努力には誰も文句をつけられないと思う。好きなことに向けて励むことの辛さを、少年少女時代より何倍も理解している私たちは、それぞれ感心していた。
皐奈ちゃんの安全運転で無事にレストランに到着した。
情趣のある、中華料理の店だ。すでに予約されている個室に、遺影の中の母を招いて座る。
このような高級感漂うレストランにも、両親に連れ行ってもらったな、と思い出が蘇る。風雅な食事を楽しむ機会は久しぶりだったため、緊張していた。
おしゃれに盛られ、丁寧に運ばれた料理は、どれも申し分なく美味しかった。ただ、頭の中心には、埋まらない一つの席があった。今どこで何をして、何を思っているのだろうか。
久しぶりの食事は案外盛り上がった。皐奈ちゃんには申し訳ないが、彼女を除いて皆、酒に酔い顔が若干赤く染まっていた。皐奈ちゃんは、元々飲めないので、と言っていたがそれも優しい嘘なのかもしれない。
酒に弱いのか、笑い声で溢れた姉が突拍子もないことを言った。
「ねえ知ってる?この人の夢。」
彼女は、緋弥を指さした。彼はまた始まった、とばかりに顔を伏せた。どう足掻いても彼女を口を塞ぎ切れないことを知っているのだろう。観念したようだった。
「弁護士目指してたんだよ、こいつ。」
驚いた。法を守るより破る側だと勝手に思っていたから。でも悪口や皮肉な言葉が簡単に思いつくところを考えれば、賢いのかもしれない。ただその賢さが方向を間違えただけで。
「なんだっけ?司法試験?一回受けたんだけどさ、落ちて、諦めたんだよね。確か。」
如紀ちゃんは、彼の気持ちを一ミリも考慮してないように見えた。
「なんで諦めたの?もったいないじゃない?」
デリカシーなんて気にせず、口に出した。
「なんだっていいだろ。」
誤魔化したな。そう思った。
「お前さぁ、勝手に暴露するな。兄ちゃん、もうこいつどっか連れてけよ。」
呆れたように緋弥が言った。えー、と姉は可愛らしい声を出す。
顔を見合わせて頬を吊り上げる、私と兄。五人でいたときは、ほぼ会話をしていなかった如紀ちゃんと緋弥が、ここまで仲良くなっていることに驚いた。
如紀ちゃんを引っ張り出す、緋弥。それを笑いながら止める睦空。その様子を優しく見守る皐奈ちゃん。
その温かい家族を私は見ていた。
楽しい、だけで会が終了したことにホッとした。緋弥が完全に酔った如紀ちゃんをゴミ袋のような扱いで車に乗せていた。皆、住んでいる場所が異なるため、近場の駅で皐奈ちゃんに下ろしてもらった。
兄は心配だからと言い、姉を乗せてタクシーで帰った。おそらく彼女を家まで送っていくつもりだろう。
緋弥と私は方面が一緒だったため、共に電車で帰ることになった。それはいいのだが、話題が見つからなかった。私が知っている彼は、まだ生意気、いやそれは今もだが、幼い頃の彼だ。
「お姉ちゃんと仲良くなったんだね、すごく。」
私の歩幅に合わせてくれているのだろう。親目線の成長を感じる。
「仲良いのかどうかは知らないが、しばらく同じ家で暮らしていたら、ある程度仲は深まるものだと思うけど。」
そう言われたらふーん、としか言いようがない。
「そっちはどうなの?」
改札口を通りながら、彼が言う。
「どうなのって?」
「どうゆう生活してたの?」
どうゆう生活と言われても、普通としか言いようがない。
「特に変哲もない家庭だったよ。」
「何そのつまらない回答。」
彼はクスッと笑った。昔なら鼻についていたのかもしれないが、今はなぜか笑ってくれたことに喜びを感じていた。
「兄ちゃん結局受かったの?」
電車に乗りながら彼が聞く。
「第一志望は落ちちゃったけど、第二志望のところに受かってた。」
離婚のこともあって精神的にも疲れていたのが原因だろう。
「そりゃ勉強してなかったからな。」
「え、そうなの?」
「あれ、知らなかったの?」
初耳だ。
「なんでそう考えるの?」
彼は私にちらっと視線を向けてから、少し黙り、再び口を開いた。
「まあいいや。俺の見間違いだったかもしれないし、誤った情報を流すわけにはいかないから。忘れて。」
また何か、誤魔化されたような気がした。問い詰めるのもおかしいなと思い、忘れることにした。
「ねぇ、さっき弁護士目指してたって言ってたけど、緋弥って頭いいの?」
思い出したように言った。
「それ俺に聞くか?自分で言わないだろ。頭いいんだって。」
苦笑していた。
多分同じ質問を繰り返してもまた誤魔化されるだけだ。
「じゃあさ、なんで諦めちゃったの?」
「飽きたから。」
へ?と思わず間抜けな声が出てしまった。
彼は笑いながら続けた。
「弁護士です、ってかっこつくかなと思って勉強したけど、めんどくさかったから諦めただけ。きっかけも大したことないし、やめた理由もどうでもいいでしょ?」
強いるような同意に頷いてしまった。
「じゃあ俺ここだから。また。」
短く手を振って降りる、彼に手を振り返した。
「じゃあね。」
葬式は本当に身内だけで済まされた。私たち兄弟のみだ。そもそも親戚の方との交流が生まれてから一度もなかったのだ。
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