第10話 この先もあなたと共に
流石の私も口を開けている事しか出来ない。三年前、スタコラサッサと国外へ逃げて行ったはずのお父様が、どうして当たり前のような顔をして王国の王宮に居るのか?
一番驚愕したのが私だとしたら、二番目に驚愕したのは恐らく国王陛下だったろう。先にも言ったが国王陛下と宰相であったお父様の付き合いは長い。先代国王様から引き継いだ宰相として、時には頼り、時には煙たくも思っただろう相手だ。息子の婚約者の親でもあった。そして三年前に断罪して自ら追放処分を下した相手でもある。
「あ、アンボロク!なぜここに!?」
するとお父様は国王陛下に向けて嫌味なほど優雅な礼をしてみせた。
「私は陛下の忠実なる臣ですからな。陛下がお困りの際にはいつでも駆け付けますとも」
その言葉に国王陛下はこめかみを引き攣らせた。
「私が困っていると?何故だ。イマリアス王国の侵攻は無事に撃退し、私には今、悩みなど無いぞ」
しかしお父様は口ひげを撫でながら芝居掛かった口調で言った。
「いえいえ。陛下はお若い上に戦争をなさった事が無いからご存知ないのです。戦争は終わらせるのが面倒なのですよ。敵を国境の外に追い出したら終わりなどという簡単なものではありませぬ。だから私は戦争が嫌いなのです」
国王陛下が思わず口をつぐむ。そう。王国はお父様が宰相になってからはお父様の手腕で全ての戦争を回避してきた。国王陛下は戦争の経験が無いのである。お父様の言葉を否定する事が出来ない。
「イマリアス王国にも面子があります。負けてはいそうですかという訳には参りませんよ。今回は五千で敗北したなら次は一万で攻めればどうか、と考えるものなのです」
国王陛下の周囲に居る大臣たちが呻いた。もしもイマリアス王国が一万もの兵で攻め込んできたら大変な事になる。しかし、国王陛下はそこまでお父様の話を聞いて、お父様のペースに巻き込まれる危険に気が付いたようだ。
「そうか。だからどうした。それが其方と何の関係があるのだ」
するとお父様は待ってましたとばかりに両手を広げて言った。
「流石は国王陛下。よくぞ聞いて下さいました。そうです。私がイマリアス王国へ行き、終戦の交渉をしてまいりましょう。幸い、私はイマリアス王国に知り合いが多うございます」
「亡命を受け入れてくれる程にな」
「さようです。私のためなら親身になってくれる者もいてですな。私の交渉の助けになってくれるでしょう」
確かにお父様は領地に近接するイマリアス王国に強い人脈を持っていた。そのおかげでお父様が宰相の頃はイマリアス王国との関係は良好で、逆にお父様がいなくなって人脈が丸ごと無くなった事が今回の侵攻を呼び込んだのである。・・・まさか、お父様・・・。
「貴様が行って交渉するだと?イマリアス王国に有利な条約を結んでくるつもりか?」
「そんな事は致しません。私は陛下の臣でございますゆえ、必ず我が国の利益になる終戦条約を結んできますとも。私は陛下の臣ですからな」
二回言った。二回言ったよ。つまり・・・。
「・・・つまり、我が国に有利な条約と引き換えに追放処分を解除しろと言いたいわけか」
お父様は無言でニッコリと笑った。言わずもがなという事だ。国王陛下は額に青筋を浮かべながら怒声を上げた。
「笑わせるでない!其方の横領の罪はまだ消えてはおらぬのだ!国家の予算を自らの私欲のために使った罪は重い!其方の国家への裏切りの償いは必ずさせる!」
すると、お父様は大げさに驚いてみせた。
「横領ですか?それはまた驚きですな。いつ私が横領など致しましたか?」
豪快に惚けましたよこの人。あまりの惚けっぷりに流石の国王陛下も怒りを忘れて呆れたようだ。
「・・・証拠はきちんと残っている。其方が横領した金を、領地にある別荘とそこに隠した宝物につぎ込んだ証拠がな。言い逃れが出来るものならやって見よ」
お父様は国王陛下のお言葉をフンフンと頷いて聞いていたが、ああ、という感じで手を打った。
「その件でございますか。それでしたら、あの別荘は国防のために建てたのでございますよ。私欲のためなどとんでもない」
はぁー?とこの場の全員の頭の中に?が飛び交った。あの田舎に似つかわしくない豪華絢爛な別荘のどこに国防要素があったというのか。城壁でもあれば兎も角。
「なんだそれは」
「ですから、あれは国防のために建てたのです。つまりですな、もしもイマリアス王国が攻め込んで来た時に、あそこに豪華な屋敷があれば連中は真っ先にそこに殺到して略奪をしますわな。その分防衛の態勢を整えるための時間が稼げる訳です。実際、今回の侵攻でも連中はあの屋敷に夢中になったせいで侵攻が遅れましたし、領都の民衆が避難する時間も稼げました」
唖然呆然、荒唐無稽な屁理屈である。しかしながら恐ろしいことに辻褄が合っている。国王陛下が額に汗を浮かべながら、それでも必死に否定する。
「そ、そんな屁理屈が通ると思うな!」
「そう言われると思ったから、別の事業に紛れ込ませた予算を流用したのですよ。機密性の高い国家事業では良くある事であることは陛下もお分かりの筈」
国王陛下が沈黙を余儀なくされる。確かに、国家予算の中に流用を前提とした事業計画を組み込むことはよくある事だ。機密性の高い砦の建設や、秘密裏に軍事用の街道整備を行う際などにはその様な予算が組まれる。中には歴代の国王が愛人につぎ込むためにそういう予算が使われた事もあるらしいけど。
「ですから、私は横領などはしておりませんよ完全な誤解です。実際、あの屋敷は役に立ったでしょう?ねぇ、殿下?」
お父様はアステリウス様に話を振った。アステリウス様は渋々言う。
「確かに、調べによるとあの別荘の略奪と、宝物の分配や後送のために揉めたせいで、イマリアス王国の進撃は遅滞したし、綱紀も緩んで士気も下がったようだな」
「そうですそうです。狙い通りです。ね?陛下」
今や国王陛下は額を押さえて俯いてしまっていた。お父様のそのあまりにも荒唐無稽な屁理屈を論破する事が出来ないのである。恐ろしい事に。真面目で厳密にモノを考える人になればなるほど、この屁理屈は論破出来無いだろう。頭を抱えてしまった国王陛下を見て、お父様はにんまり笑った。
「いや、国王陛下を誤解させてしまったのも私の罪になるでしょうな。ですから償いのためにも私は陛下の御ために、イマリアス王国との交渉を成し遂げて来ましょうぞ。敵国に乗り込んでの交渉ですからな。危険な任務です。誰か代わりたいものがいるならその者に行かせても構いませんが」
いけしゃあしゃあと、という言葉の見本みたいな話である。先ほど自分でイマリアス王国との繋がりの深さを自慢したばかりではないか。そもそも今はイマリアス王国に亡命している身なのだろうに。
悪いことをしていないと思うなら何故亡命したのかとか、イマリアス王国が攻め込んで来る事に本当に関係していないのかとか、どうやってこの王国の王宮にまでやってきたのかとか、色々突っ込みどころが満載過ぎて逆に突っ込めない。私はお父様の恐ろしさを今更ながら思い知った。
「・・・良かろう。其方に命ずる。イマリアス王国と終戦の交渉を行い、条約を締結せよ」
遂に、あの国王陛下が陥落した。疲れ果てたような表情でお父様に命ずる。お父様は満面の笑みを浮かべて、優雅に一礼した。
「承りました。粉骨砕身して我が国に最善の利益を齎せるように致します!では失礼!」
そして、目にも止まらぬ速度で身体を翻すと、あっという間に謁見の間を出て行ってしまった。お母様の無事を問い掛ける暇さえない。
その場にいる者達の全員が毒気を抜かれたようになって呆然としている。アステリウス様が呻くように呟いた。
「あれが私の義理の父になるのか?」
二ヶ月後、お父様は見事にイマリアス王国との終戦条約を締結して帰って来た。
しかも、かなりの額の賠償金と、国境の砦三つを割譲させるという、我が国にとって物凄く有利な条件でだ。それを聞いて私の疑惑は更に深まったわよね。そう。お父様がイマリアス王国を唆して侵攻に踏み切らせたのではないかという疑惑だ。
あくまでも疑惑だが、それとなく国境のすぐそこに自分の別荘がある事を触れ回ったのではないだろうか。そこには財宝が溜め込んである事を匂わせる。そして策も吹き込む。お父様の復権のためという大義名分を振りかざせば、王国は対応が委縮するのではないかと。そうすれば別荘を略奪するくらいの間は王国軍は来ないだろう、と。
そうしてイマリアス王国軍は誘惑に負けて攻め込んできて、アステリウス様に撃退された訳だが、今度は王国の代理人として、王国が怒っていて今にも全面侵攻があるかのように吹聴する。そうして王国に有利な条約を手土産に王国に帰還する。
あまりにも出来過ぎていて嘘くさいくらいだが、どうもお父様ならこれくらいの事はやってのけそうな気がする。お父様はケチだが、投資の重要性は良く知っていた。大きな利益を出すためなら短期的な損を甘受するくらいの我慢強さはあるのだ。王国に元通り復帰出来るなら、別荘の一つくらいは安い投資だと思ったのかも知れない。どうせ横領で築いた物であるし、自分の懐は痛まないし。
実際、満面の笑みで帰還したお父様に、国王様は苦々しい顔をしながら、追放処分の取り消しと財産の返還、そして宰相への復帰を認めた。お父様の完全復活である。当たり前のように元々の侯爵邸にお母様と帰還すると、さもどこへも行った事などありませんよ?というような顔で普通に生活を始めたのだからどういう面の皮の厚さなのか。宰相としても元気に出仕して、大臣たちを元通りに使って職務をこなしているらしい。ちなみに、ハラルド伯爵は家族まし国外に逃亡した。お父様が復帰し、自分の汚職の証拠まで確保されていては、王国にいたら危ないと考えたのだろう。賢明な判断だが、果たしてあの執念深いお父様から逃げられるのかどうか。
お父様が復活したのであるから、私の身分も復活して侯爵令嬢に戻った。のだが、私はどうにもこうにも、私を放置して逃げたお父様が許せなかった。帰還したお父様がへらへらと笑って言うには「王太子殿下にあれだけ愛されていたのだから、国内に残しても悪いことにはなるまいと思った」のだそうだ。私は激怒し、お父様を正座させて長時間お説教をした。因みにお母様はあたかも旅行にでも行っていたかのように、大量のイマリアス王国の品物をお土産にくれた。全く!この夫婦は!
怒りが収まらない私は、コルンスト伯爵家の養女の籍を抜かなかった。侯爵家に戻らなかったのである。コルンスト伯爵は困った顔をしていたが、正式に養女になっているのだから追い出すわけにもいかない。伯爵家のお屋敷に部屋を用意してもらいそこに住むことにした。どうせアステリウス様と結婚するまでの短い期間だ。
そう、お父様の罪が帳消しになったのなら、婚約破棄の理由が消滅した事になり、私とアステリウス様の婚約は自動的に復活した。何もかも無かった事になった訳である。・・・そんな訳あるか!と私は叫びたい。この三年間のアンとしての庶民生活は無かった事にはならないし、養父母や下町の人への恩も無くならない。そして、オルセイヤーとの出会いも無かった事にはならないのだ。
しかしながら、再婚約の手間が省けて有難かった事は確かである。誰よりアステリウス様が喜んだ。早急に、半年以内に結婚すると宣言し、関係省庁に準備を命じた。本来であれば王族の結婚式など二年くらいの準備期間を置くものだが、二年も置いたら私が二十歳を越えてしまう。以前に途中まで準備が進んでいたのだから大丈夫だろう、とアステリウス様がゴリ押しをして五ヶ月後の結婚式の予定が決まった。そんなに期間が短いと準備も超特急だ。周辺諸国に王太子殿下結婚の案内を出すのも大急ぎだし、教会に寄付をして王族の結婚式に相応しく綺麗に修繕して飾り付けて貰ったり、披露宴の会場の準備と段取りを決めなければならないし(王族の結婚式なので三日に渡って行われるから大変なのだ)、私のウエディングドレスも大至急縫ってもらわなければならない。
そうして結婚式の準備でバタバタしていたある日。
オルセイヤーが帰国するという話が突然飛び込んできた。
何でもフサヤ王国から強く帰国の要請があり、オルセイヤー本人も帰国を希望したのだという。そうなっては国王陛下も無理に国内に留めておく事が出来ない。アステリウス様は何度も引き止めたらしいが、結局オルセイヤーは私達の結婚式の前に帰国が決まってしまった。
何となく、そんな気はしていた。オルセイヤーはあの凱旋の日以来、一度も私の所に来なかったのだ。あの余興の模擬試合で、何らかのけじめを付けたのだと思う。私は正直、物凄く寂しかったが、結婚間近の女性が婚約者以外の男性に単独で会うのは好ましくない事もあり、会わないままズルズルと日々が過ぎてしまったのだ。もしかしたら学校に行けばオルセイヤーがいるかも知れない、とは思ったものの、既に貴族復帰してコルンスト伯爵家に住んでいる現状で、抜け出して庶民として下町に行くのは容易ではない。セレスを始めとした侍女が常に身辺にいるのだ。
帰国の報を聞いて私はやや取り乱した。身体が震え、立っていられず、セレスが慌てて身体を支えてくれた程だ。
「大丈夫ですか?お嬢様!」
セレスは元通り私をお嬢様と呼ぶようになっている。二人だけの時はアンと呼んでくれるようにお願いしてあるけど。
「・・・オルセイヤーが・・・」
セレスはオルセイヤーと私が婚約していた事を知っている。私がオルセイヤーに未練がある事も、多分知っていてくれるだろう。セレスは私の頭を無言で抱いて慰めてくれた。
実は、オルセイヤーとの婚約はまだ完全に解消されてはいない。ボックルが婚約解消の申し入れをした筈だが、オルセイヤーからの返答は無いし、私もまだ彼との婚約指輪を持っているので、婚約中であるとさえ言える。
「ゆ、指輪を返さなければなりません。帰国前にどうしてもオルセイヤーに会わなければ」
私が言うと、セレスはコルンスト伯爵に話をしてくれて、コルンスト伯爵はアステリウス様に話をしてくれたようだ。王太子業務と結婚式の準備で殺人的な忙しさになっているらしいアステリウス様とはしばらく会えていなかったのだが、どうにか時間を作って来てくれたアステリウス様は少し怖い顔をしていた。
「リュビアンネ。オルセイヤーの指輪をまだ持っているとはどういうことだ?」
「返す暇が無かったのです。凱旋の日以来、オルセイヤーには会っていませんし」
「人を使って返せば良かっただろう。何も自分で手渡す事は無い」
私はムッとした。
「婚約指輪は、愛する人のために想いを込めて贈るものではありませんか!それを人伝に返すなんて事は出来ません!私はそう思ったから殿下の指輪も返せなかったのですよ!殿下は人伝に自分の指輪が返されたらどう思われるのですか!」
アステリウス様は私の剣幕に仰け反った。そしてはーっと、溜息を吐いた。
「・・・その結果、二重婚約とかいう訳の分からぬ事になったのではないか。おかげで私が助かったのは確かだが。・・・分かった。オルセイヤーの帰国前に会えるように手配しておく。ただし、私も同席するからな」
別に殿下が立ち会う必要は無い、とは思うものの、結婚式間近な女性が独身男性に一人で会うのは宜しく無いので仕方が無い事ではある。私は了承した。
ところが、私も殿下も大忙しである事と、オルセイヤーも帰国の準備で忙しいとの事で、中々会う予定が組めず、結局オルセイヤーと会う事が出来たのは、正に彼が帰国する日、その帰国の馬車の前でという土壇場になってしまった。・・・いや、違うわね。そうなる様にオルセイヤーが仕向けたんだわ。そんなに私に会いたくなかったのかと思うと、少し心が沈む。
その日。別れの日。私は若草色のドレスを着て、オルセイヤーの屋敷に向かった。馬車にはアステリウス様も同乗している。アステリウス様は物凄く機嫌が悪そうで、その麗しい顔を顰めていた。
「オルセイヤーめ。あれほど帰国したくないと言っていたくせに」
先ほどからブツブツと文句を言っている。どうやらオルセイヤーが帰国する事が不満らしい。それはそうだろう。あれほど仲が良い友人が遠く離れたフサヤ王国に帰国してしまうのだ。しかも帰ればすぐに立太子される事が確実なのである。当然、我が国に再び来ることは容易では無くなるだろう。もしかしたら二度と来られないかもしれない。いや、多分来る事は出来ないだろう。
そう。アステリウス様にとっては初めての親友との今生の別れなのだ。もしかしたら、私よりも辛い思いを抱えているのかも知れない。
以前に一度だけ来たオルセイヤーのお屋敷。その車寄せには既に数台の馬車が停まっていた。帰国のための荷物が積んであるのだろう。その中の一台、それだけは華麗な装飾を施してある、貴人が乗る旅行用の馬車の前に彼はいた。久しぶりに見るオルセイヤーは特に変わった様子も無かった。私がアステリウス様のエスコートを受けて馬車から降りるのをじっと見ていた。
「おい、アステリウス!なんだこの馬車は!こんな目立つ馬車では盗賊に狙われるぞ!」
「王族としての帰還なのだから威厳は大事だろう。有り難く使え!」
どうやらその豪奢な馬車はアステリウス様が贈ったものらしい。
「それにしてもこんなに急に帰国して、其方、あっちでやる事があるのか?」
「帰国しろと言ってくるくらいだから、仕事は用意されているだろうよ」
オルセイヤーはフンと鼻息を吐いた。
「あのいけ好かない父上の補佐をするなど願い下げだが、母上からも帰国を頼まれたしな。やむを得ぬ」
「なんだ。母上の言う事なら聞くのか?」
「既に母親がおらぬ其方は知らぬだろうが。母親というのは怖いものなのだ」
アステリウス様の母親、お妃様はずいぶん前に亡くなっている。
「女性の怖さは良く知っているさ」
「確かにな」
そこで何で二人して私を見るんですかね?
「・・・其方、帰国しないで、私のために働かぬか?」
アステリウス様がポツリと言った。オルセイヤーが少し目を見開く。
「其方の才能は貴重だ。其方が私を宰相なり将軍なりとして支えてくれると、私は助かるし、嬉しい」
アステリウス様が他人をこれほど褒め、認める事は大変珍しい事だった。オルセイヤーにもそれは分かったのだろう。彼は満足そうに微笑んだ。
「・・・嬉しい誘いだが、無理だな。私は其方を見ていて、私も王になってみたくなってしまったのだ。王は並び立てぬだろう」
私は驚いた。王族としての自覚があれほど薄かったオルセイヤーが王になりたいだなんて。一体どういう心境の変化なのか。
「ふん。王はそれほど簡単な地位では無いぞ。今まで遊び暮らしていた其方に勤まるものか」
「確かにな。しかし、私はやってみたくなったのだ。この国で学んだ事を使って、フサヤ王国を大きく。強くしたい」
オルセイヤーの目には決意の色があった。どうやら本気で、オルセイヤーは王を目指す気らしかった。それは、素晴らしい事だと思える。この才気溢れる男なら、きっと素晴らしい、アステリウス様に負けないような王になれるに違いない。
「ふん、で、強くなったら我が国に攻めてくるのか?たまらんな」
「そんな事は絶対にしないと、約束しよう。将来の王と王妃に」
オルセイヤーは真剣な顔をして、胸に右手を置いて、私達に誓った。アステリウス様も同じ格好をして、誓う。
「では私も、フサヤ王国には絶対に敵対しないと誓おう。そして、人質を取る事ももうしない」
私も右手を胸に当てて誓った。それを見てオルセイヤーが漸く彼らしく破顔した。
「二人が誓ってくれたなら安心だ。これで後背の憂いなく他に勢力を拡張出来る」
「ぬかせ。その前に私が我が国をもっと強く大きくしてやる」
二人はニヤッと笑い合い、両手でお互いの肩を掴んだ。
「頑張れよ。弟分」
「そっちこそな。兄貴分」
そして二人は屈託無く笑い合った。そうよね。離れても、国が違っても、この二人はずっと兄貴分弟分。親友同士でいるのだろう。私は何だか涙が出て来そうになってしまった。
アステリウス様はオルセイヤーから離れると、私の事をチラッと見た。何でしょう。そしてしばらく逡巡していたが、やがて思い切るように首を振ると、私とオルセイヤーに言った。
「わ、私は用事を思い出した。馬車の中にいるからな!」
そしてなんだがギクシャクした足取りで私達が乗って来た馬車に入ると扉を閉めてしまった。私は思わず噴き出した。不器用な事だ。オルセイヤーも呆れたように言った。
「なんだあれは。婚約者を残して行くとはどういう了見だ。攫って行ってしまうぞ?」
「攫って行ってもいい、というつもりかも知れませんよ?」
私が言うと、オルセイヤーが真剣な顔で私を睨んだ。私はふふん、と微笑む。オルセイヤーがここで私を、アステリウス様から攫っていける人なら、私はとっくにオルセイヤーの嫁になっている。この人は、他の人は兎も角アステリウス様は裏切れない人だ。
「馬鹿な事を言わないで下さい。リュビアンネ様」
「アンですよ。今は、アンです」
そして、私は右手を差し出した。手の平に、銀色のシンプルなリングが載っている。
「これを、お返しいたします」
オルセイヤーの顔が苦痛に耐えるように歪んだ。私は微笑んでいるつもりだが、ちょっと自信がない。
「本当にすみませんでした。でも、この指輪を頂いた時、私は本当に幸せだったのですよ?本当に、あなたと結婚する気だったのです。それは、信じて下さい」
「・・・信じるとも。・・・アン。だから、そう。泣かなくても良い」
あれ?私、泣いていますかね?私は微笑みを浮かべているつもりなのに。
オルセイヤーは私の右手から、リングをそっと取り上げた。そしてそれを、何だか儚いものを扱うかのようにそっと指で持ち、日に翳した。
「・・・やはり、君にはサファイヤの方が似合うな」
「そんな事はありません。私はその指輪も大好きでした。とっても、嬉しかったのですよ」
上手く舌が回らないわね。もっともっとオルセイヤーには言いたい事、謝りたい事が沢山ある筈なのに。言葉が出て来ない。もうごまかせない程涙が溢れて来て、嗚咽で声を出す事も難しい。しかしどうにか泣きながらもこの言葉だけは言えた。
「ありがとうオルセイヤー。そして、ごめんなさい」
オルセイヤーは私の醜態を黙って見ていた。そして、チラッとアステリウス様が閉じこもった馬車を見て、それから私を見て、笑った。
「・・・アン。頼みがあるのだ。最後にこの指輪をもう一度だけ嵌めてもらえないか?」
そう言って指輪を差し出してくる。結婚間近の女性が婚約者以外からの指輪を嵌めるなんて言語道断だ。しかし、オルセイヤーはまだ、私の婚約者だ。アステリウス様は見ない振りをして下さっている。私は頷いて、左手の手袋を外した。そして、オルセイヤーから指輪を受け取り、自分で薬指に差し込んだ。そして、手を顔の前に上げてオルセイヤーに見せる。
「これで、良いですか・・・、あ!」
その瞬間、オルセイヤーはその私の左手を取って、私を引き寄せ、腰を強く抱き寄せると、私の唇に優しくキスをした。
・・・私は動けない。やがて、オルセイヤーは唇を離すと、身体を離しながら、私の指から指輪を抜き取った。
「婚約指輪をしながらの唇へのキスは、簡易な結婚の意味がある。そして、指輪の返還には離婚の意味があるな」
オルセイヤーはいたずら小僧のような表情で笑った。
「これで、其方の最初の結婚相手はアステリウスでは無く私になったわけだ。これを知ったらアステリウスは悔しがるだろうな」
私は呆然とし、次に羞恥で顔を赤らめ、次に憤然とし、遂には笑い出してしまった。何という事を考えるのか。私が笑ったので安心したのか、オルセイヤーも声を出して笑う。
「すまんすまん。アステリウスにはどうも負けっぱなしだったからな。一矢くらいは報いたかったのだ」
「もう!個人的な勝ち負けに人を利用しないで下さい!大体あなた達は!あの凱旋の日にも私を賞品扱いしたでしょう!あんな事は女性に対して失礼だと思わないのですか!二度とそんな事はしないと誓いなさい!」
「ああ、分かった。誓うとも」
苦笑するオルセイヤー。ここ半年、私のお説教が炸裂した時に何時も見せられた表情だった。アンにとっては、彼のこの表情は日常だったのだ。それが、もう見る事が出来なくなる。そう。オルセイヤーが帰国してしまえば、いよいよアンは本当にいなくなることになる。
・・・いや、違うかな。私は、少しオルセイヤーに歩み寄った。声を潜める。
「私の最初の結婚相手があなたになった、と言いましたね?」
「?ああ。そうだな」
「違いますよ」
「?」
私はなるべくあけすけに、庶民らしく笑顔を作った。
「アンの夫は生涯あなた一人ですよ」
オルセイヤーが衝撃を受けたような顔をした。
「アンはこの先もあなたと共に」
「・・・そうか」
オルセイヤーは私を見て、そして自分が握っていた銀のリングを見た。
「分かった。アンは、私が連れて行こう。生涯、大事にする」
そう。アンはいなくなるのではなく、オルセイヤーの所にお嫁に行ったのだ。私が完全にリュビアンネになってしまっても、アンはオルセイヤーの所にずっといてくれるだろう。
ごまかしだとは思う。でもそう思う事で私はどこか救われたような気分になった。アンがオルセイヤーの所にいてくれるのだと思えば、私はもうアンとしての生活に未練を覚えないと思う。
私とオルセイヤーは間近で見つめ合った。もう私は泣かなかった。ちゃんと笑えていると思う。
やがて、オルセイヤーは頷くと、機敏な動作で身を翻し、無言で自分の馬車に乗り込んだ。御者が私に礼をして、馬車が動き出した。
オルセイヤーの帰国の車列はガラガラと音を立てながら、ゆっくりとお屋敷の門を次々と出て行く。やがて、最後の一台が門を出てしまい、お屋敷の庭は静かになってしまった。私はじっと立って、全てを見送っていた。
「行ったか」
いつの間にかアステリウス様が私の横に立っていた。
「そうですね」
「・・・あいつがいなくなると、寂しくなるな」
アステリウス様が珍しく弱音を吐かれた。それくらいオルセイヤーはアステリウス様には重要な存在だったのだろう。
「・・・私は、ずっとあなたの側にいますよ」
思わず言ってしまった。アステリウス様が驚きに目を見張る。しかし、直ぐにムスッとしたような顔で仰った。
「当たり前だ。其方は私の妻になるのだからな!」
まぁ!私はムッとした。
「殿下!殿下の妻になるからと言って、私は殿下の所有物になる訳ではありませんよ!側にいるのが当然だなどと思われては困ります!今度殿下が私の愛想を尽かすような事をしたら、二度と殿下の所には帰って来てあげませんからね!」
「わ、分かった!悪かった。承知した!」
アステリウス様は困り果てたような顔で仰った。昔から私のお説教に対して殿下がするお顔だった。これからは、このお顔を何度となく見る事になるのだろう。私達は結婚して、夫婦になり、ずっと一緒なのだから。
その時、一陣の風が吹き抜けて主無き庭園の木々や花を揺らした。私と殿下は手を取り合って、しばしその風景に見入ったのだった。
その後、オルセイヤーはフサヤ王国に帰国すると、僅かに二年後、父王を追放して自分が王になってしまった。その知らせを聞いた時にはアステリウス様も私も唖然としたわよね。
王になったオルセイヤーは反対派を抑え込み、内政の充実に努め国力を増大させると、別れの時の宣言通り近隣諸国へ勢力拡張を図った。その優れた手腕でどんどん領土を拡大して行くオルセイヤーに、国王陛下は頭を抱え、アステリウス様は悔しがっていたわね。
結局、アステリウス様が国王になられる頃にはフサヤ王国との勢力比はすっかり逆転して、フサヤ王国の方が優勢になってしまっていた。しかしそれでもオルセイヤーは我が国にだけは侵攻せず、無条件で友好関係を保ってくれた。流石に本人は一度も来ることは無かったけれど、何度と無く使者が往復してオルセイヤー直筆の書簡が届いた。読むたびにアステリウス様が真っ赤になって悔しがるような内容だったけれど。
オルセイヤーは王になっても妃を迎える事は無かった。公妾を何人か娶り、子供は結構得たようだけど、妃は頑として置かなかったそうだ。理由を問われると「もう妃の座は塞がっているから」と、答えていたそうである。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます