昭和20年8月14日

飛嘉未来

あの日の追憶

 昭和20年8月14日この日私は岐阜のある新聞社に疎開をしておりました。夏の日差しがぎらぎらと照り付けるその日の午後私は衝撃的なことを知ってしまったんです。

 それは「日本が戦争に負ける」たった一言ですがその時の私を怒らせ安堵させ悲しませ不安にさせ嬉しくさせたそんな悪魔とも天使のささやきともとれるそんな言葉を私は新聞社の社長から聞いたんです。

 君も知っている通り玉音放送が流れたのは昭和20年の8月15日だ。しかし新聞社には翌日に号外を出すために事前に厳重秘匿情報として知らされていたんだ。だけど私が疎開していた新聞社の社長さんはねその方を聞くや否や怒り出してしまってね。それで私も知ることとなってしまったんだよ。もちろん言えば警察に連れていかれて何されるかわかったもんじゃないからね。

 私はそのことを深く胸に止めながら、昨日と同じく朝からきつい日差しが照り付けていた中を8月15日正午に「朕深ク世界ノ・・・」とはじまる天皇陛下のお言葉を新聞社で社長さんやおふくろたちと暑い中みな背筋を伸ばしてラジオの前に起立して立って聞いていたんだ。その時の天皇陛下の声はラジオの和えからではあったが深くだが冷静に維持じっくを読み上げられていると若いながらに感じたものだよ。内容に関しては内容の大筋は昨日知っていたこともあるが、言葉自体も少し難しくて薬科大学に通っていた私がかろうじて聞いていた中では内容の意味がすべてわかるといった形だったよ。

 その放送の後新聞社の社長さんたちは内心抑えがたい気持ちはあっただろうけど、

「さあ仕事だ号外を直ちに印刷にかけろ!。」

と社長さんが威勢よく社員さんたちに指示を飛ばして板よ。私も手伝いたくなったが私はまだその時父親の古い縁で疎開という名の居候させてもらっているただの若造だったからね。新聞社に勤めていた年配の方々の自分の気持ちを押し殺してテキパキと町の皆さんに少しでも早く情報を伝えようとする動きに飲み込まれていたよ。

 そして物の1時間で千部を超す号外が出来上がったんだ。せめて号外配りだけは手伝わせてくれと社長さんにお願いをしてね。最初は断られたけど人手が足りないという理由で何とか岐阜の駅前で号外を配らせてもらうことができたよ。

 号外を受け取った人たちの顔はそれはもう凄惨なものだったよ。敗戦をラジオからとはいえ天皇陛下自らの口で発せられたことだけでもショックなのにそれを目で見て改めて実感させられたんだから。みんな戦争に命も財産も親戚もすべてをささげていたんだからね。号外自体は飛ぶように売れたよ。だけど私にはそれを売るのがとてつもない罪悪感になってしまってねそれ以来戦争は死ぬ人だけじゃなくて生きている人もつらいものなんだって思い知らされましたよ。

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昭和20年8月14日 飛嘉未来 @Lyuusin

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