電子の海へ沈む前に
白江桔梗
電子の海へ沈む前に
人は聴覚・視覚・触覚・味覚・嗅覚の順番に忘れるという。つまり、人を忘れる時は声・顔・匂いの順に記憶から消えていくのだ。正確には、必要ないと判断された情報は、記憶という名の大海原に沈み、取り出せなくだけだが。
だから、僕は必死にその声を繋ぎ止めようとする。電気信号で出力された音声を、電気信号で管理されている脳に再び送り込む。あなたの声を忘れないように、無駄なノイズから耳を背ける。
だって、今もどこかであなたが生きていたとしても、その声を思い出せなくなったその瞬間に、僕の中のあなたは死んでしまうから。
「お前、最近元気ないよな。それにヘッドフォンなんて持ってたのかよ」
「……僕の勝手だろ。それに、いくら幼馴染とはいえ、相手の持ち物まで把握してんのかよ、お前」
彼は降参と言わんばかりに両手をあげ、首を振ってみせる。僕は彼に
変わり映えのない画面を見つめながら、再生回数を何度伸ばしたことか。僕のスマホの履歴はその動画のURLで埋め尽くされているが、それでも著名な配信者と比べれば、些細な回数だ。たった一日、いや十分あれば、あっさりと僕の未練を更新する。
もしかしたら、僕は殺人者になりたくなくて、必死に小手先で抗ってるんじゃないか? そうだ、きっとその方が理にかなってるし、こんな狂行の説明がつくだろう。触れられもしない肌に手を伸ばすその愚行は、恋慕と言うには
「そろそろ学校着くし、それ外しとけよ? 今日は入学式だし、きっと先生たちが昇降口付近に溜まってるぜ。初日から目つけられるとか、最悪の高校生活の幕開けになるぜ?」
「んなこと、言われなくても分かってるよ」
彼女がいなくなって溢れ出た感情はありふれているものだった。でも、その感情を塗りつぶすくらいに
指定されたクラス表を見た後、今年もコイツと同じ箱に入れられることに飽き飽きとする。バッグをロッカーに押し込み、適当に相槌を打ちながら大講堂に向かう。
理解者と言えば聞こえはいいが、実の所ただの腐れ縁のようなものだ。ましてや五十音順に並ばせられるようものなら、必ず前後になってしまうアンハッピーセットのおまけつきだ。来年度は別クラスであることを願っている。
講堂に到着してからは、やけに豪勢なイスに腰をかけ、ただぼんやりとステージを見つめていた。
「――でさー、あのアニメの作画が……ってもう始まるな」
「それ……教頭先……開会の……です」
どうやら、入学式が始まったらしい。
ヘッドフォンが恋しい両耳は、嫉妬するかのごとく、他人の声を受け付けない。僕からしてみれば、他人なぞ、ミュートした動画のように、目の前でぱくぱく口を開け閉めしているマネキンにしか見えない。
「続い……生徒会長……挨……です」
壇上に一人の女性が鎮座する。まだ、あどけなさはあるが、二つ歳が離れているだけでこうも違うものかと思ってしまう佇まいであった。
ちらりと周囲を見渡せば、先ほどまでノイズを撒き散らしていたお子ちゃま達が口を
「新入生の皆さん、初めまして」
「なん、で……?」
鈴のような声、しなやかな筆で撫でられるようなこの感覚。僕は間違いなく、
僕は一字一句、彼女の言葉を聞き漏らすことはなかった。それは聴き慣れた曲の歌詞のように、まるで呼吸をするように、それは容易いことであった。
だが、そんな都合の良い話がある訳ない。ずっと同じ動画を見て、気でも触れたのか、僕の耳がイカれたか、それとも別の何かなのか。ぐるぐる廻る思考は淀み、どす黒い泉から伸びた手が僕の両耳を再び覆おうとする。
でも――もし、そうだとしたら?
一際大きい拍手に彼女が気づいたのか、一瞬視線が重なった。交わることのなかった視線は初めて会合を果たした。
僕の中に大切にしまった記録がゆっくりとサルベージされていく。その時、電子の海に沈むはずだった想いは、今目の前で輝きを放ち始めたのである。
電子の海へ沈む前に 白江桔梗 @Shiroe_kikyo
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