4
降り積もっていく砂は、もはや死へのカウントダウンだった。静かに、だが確実に……橋場の息の根を止めに来ている。
「嘘だろ……」
両方の目から、熱い雫がとめどなくしたたり落ちた。
橋場はまだ自由な両手でそれを拭った。そのうちこの手も砂に埋もれて、身動き一つ取れなくなるに違いない。
はぁーっ、はぁーっと、洗い呼吸を繰り返す。差し迫る死への恐怖で、腰が抜けてしまいそうだった。
震えながら目を閉じると、脳裡に田舎の母の姿が浮かんだ。
子供のころ、母はよく寝しなに絵本を読んでくれた。日本の昔話や、童話の本が多かったように思う。
中でも、橋場は少し怖い話が好きだった。鬼やお化けが出てくる物語もいいが、一番怖いと思ったのは、意外にも人間しか出てこない話だ。
タイトルは『
主人公は、山で茸を採って生計を立てている吉作という青年である。
ある日、この吉作は縄を使って絶壁の途中にある岩場に降り、茸を採る。しかしそこで不慮の事態が起こり、崖の上に戻れなくなってしまう。
吉作が岩場にいることは周りの誰も知らない。ほぼ着の身着のままの青年は、崖の中腹で一人、どうすることもできなくなるのだ。
「まるで、今の俺にそっくりじゃないか……」
橋場は自嘲めいた笑みを浮かべて呟く。
崖の中腹で、吉作はただ、死にゆくのを待つしかなかった。
幼いころの橋場は、じわじわと追い込まれていく吉作の気持ちを思い、身震いした。吉作が助けを求めて叫ぶシーンでは、心の中で一緒に叫んだ。
全く同じではないか。今の自分と。
助けを呼んでも誰も来ない。できるのは、落ちてくる砂の音を聞きながら、ただただ埋もれていく身体を見つめることだけ。
吉作と自分の姿が、橋場の頭の中でぴたりと重なった。物語の最後、吉作はどうしたのか……。
思い出そうとしたとき、羽織っていた上着のポケットに偶然手が触れた。
ゆっくりと中を改めてみると、そこに入っていたのは一本の折り畳みナイフだった。柄についているボタンを押すと、銀色の刃が勢いよく飛び出してくる。
ところどころに傷が付いていた。先ほどこのナイフで右足を固定している鉄の輪を外そうとして、刃こぼれを起こしたのだ。
結局、鉄の輪にはちっとも歯が立たなかった。
――だが『鉄ではないもの』が相手だったら?
橋場はナイフを右手で持ち、左手の小指の腹に刃をスーッと滑らせた。そこにはたちまち筋が入り、赤い血が流れ落ちてくる。
再び、橋場の脳裡で吉作と己の姿が重なった。
物語の最後、吉作は岩場から飛び降りる。そのまま、崖下へ真っ逆さまに落ちていく。
死への恐怖と散々戦ったあと、もしかしたら助かるかもしれないと考えたのか……それとも苦しみに耐えられなくて、いっそのこと死にたいと思ったのか……。
橋場の手元にある、銀のナイフ。
これで頸動脈を切るか、心臓を刺し貫けば
今なら、崖から飛び降りた吉作の気持ちがよく分かる気がした。
あと少しで死ぬかもしれない――いつまで続くか分からないその恐怖と戦うのは、もう疲れた。
窒息死はとても苦しいと聞く。あと少し経てば腕まで砂に埋まり、ナイフさえ使えなくなるだろう。
やるなら今しかない。砂に埋もれて無様にもがくより、いっそこのまま……。
橋場はごくりと喉を鳴らして、ナイフをゆっくりと首元に当てた。
キラリと光る刃に、恐れおののいている自分の顔が写った。
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