少し前のこと。

 目を開けた橋場は、自分が半畳もないじめじめした地面の上で身体を丸めて倒れていることに気付いた。

 砂はそのときから降っていた。始めは足元の地面が見えていたのに、今はすっかり埋もれている。

 好きでこんな狭苦しい場所に来たわけではない。覚えているのは、山の中腹でコーヒーをすすったところまでだ。

(そうだ。俺はキャンプをしてたんだ――)


 橋場は普段は都内で一人暮らしをしており、都内の会社に通勤するごくありふれた会社員だ。

 独身だが現在恋人はおらず、ウイークデーはほぼ毎日、狭いアパートとオフィスの往復だけで一日が終わってしまう。

 そんな平凡な男の唯一の趣味が、ソロキャンプだった。

 学生時代から、月に一回はテントや道具を背負って出かけている。仲間とわいわい楽しむのではなく、一人静かに自然を楽しむのが好きだ。


 キャンプができる場所はいろいろあるが、人ごみが苦手なせいか、誰もいない山奥でテントを張ることが多かった。

 キャンプだからといって、特別なことはしない。

 湧き水で淹れたコーヒーを飲みながら、鳥の鳴き声や葉擦れの音に耳を澄ますだけの時間が、橋場にとっては最高の贅沢である。


 この週末は、山の中で一泊することにした。

 橋場は土曜日の早朝に家を出て、都内から車で三時間ほどの距離にある低山を訪れた。

 一応名称はあるが、地元の住民からはただ『山』と呼ばれているだけの寂れた場所で、ガイドブックなどには載っていない。

 こんなマイナーな場所に来る者はほとんどいないだろう。ここなら、思う存分ソロキャンプを楽しめる。


 橋場は麓の駐車場に愛車のSUVを停めて山に入り、中腹のやや開けた場所で荷物を降ろした。さっさとテントを張って火を起こし、早速お気に入りのマグカップを手にする。

 ドリップして淹れたコーヒーの香りに、酔いしれた。自然の中で楽しむ一杯は格別だ。

(じきに日が暮れる。夕飯まで、しばらくのんびりするか)


 そう思ったとき、ふいに背後で草が揺れる音がした。

 振り向くと、身長が二メートルはありそうな大男がぬっと姿を現した。ウインドブレーカーを羽織っていて、足元は登山靴。橋場とよく似た格好をしている。

 ということは、この大男もソロキャンプに来たのだろうか。

 山の中で、テントを張るのに都合がいい場所は限られている。ソロキャンプ勢同士、陣地がかちあってしまうことが稀にあった。


 橋場はとりあえず礼儀として座ったまま会釈したが、内心では舌打ちしていた。

 誰もいないと思ったからここに来たのに、近くでテントを張られたら、せっかくのソロキャンプが台無しだ。

 大男は黙ってその場に立ち尽くしていた。荷物を降ろす気配はない。

(ただちょっと通り掛かっただけか)

 橋場は幾分ほっとして、飲みかけのコーヒーを再びすすった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る