「ゼロの偽証」 反作用 -Recoil-

 時折、自分が何者なのかわからなくなる時がある。


 最も古い記憶は真っ白な病院の天井だ。

 体は上手く動かなかったが、それでも右手に触れた温かな感触を忘れたことは無かった。それはきっと、これからも変わることはない。

 あの日、彼は首都から少し離れた郊外のとある森で見つかったらしい。何故森に向かったのか、何故森で倒れていたのか、それを思い出すことはできなかった。

 後天性記憶障害、それがマジック・リコイルの症状の一つだとわかったのはもっと後のことだった。

 美しい髪を撫でた。つややかな感触が仄かに甘い香りと共に記憶に残っている。

 彼の右手を掴んだまま疲れて寝てしまっているその女性に、心惹かれた。心配されているのはこちらなのに、彼女のことを思いやってしまう。

「ありがとう」

 わずかに絞り出した声で感謝を伝えると、彼女はぱちりと目を覚ました。数瞬、彼女は辺りを見回した後に飛び起きて彼のことをまじまじと眺める。

 彼女の目元がわずかに赤く腫れている。

「あ、あの……」

「わっ! その、あ、ナースさん!」

 慌ただしくどこかへ走り去ってしまった彼女の背中を眺めることしかできなかった。


 彼女と再会するのは、そう先ではなかった。


 退院から2ヶ月ほど経ってからだ。彼はとある企業から招待を受けていた。その名を「スペクター」、対テロ特殊工作を担う企業であり、高度に政治的な問題を扱う場でもあった。その分、最先端の研究や様々な情報が集まる場所だ。

 そこの所長を名乗る人物から、彼は様々な支援を受けていた。

 一時的な住居の確保や生活支援の手配に限らず、戸籍登録や関係各所への面倒な手続き諸々を退院までに済ませてくれていた。

 そこで初めて、彼はエーリッヒと出会う。


「君を採用したいんだ」

 今でも鮮明に覚えている。入院中に測定した身体能力の数値は常人よりも高かったようで、スカウトしたようだった。

「我がスペクターとは、誰の目からも見ることのできない不可視の『亡霊』スペクターだ。悪く言うわけではないが、君のように素性のわからない人間を採用した方がこちらとしても都合がいい」

 ヘキサゴンタワーの八階、応接室でエーリッヒは静かに微笑みながら語った。

「無論、君にとっても悪い話ではないだろう。報酬はそこらの民間企業よりも数倍高いし、住居も提供できる。なにより」

 コーヒーを啜ってから、エーリッヒは続けた。

「なにより、君が何者であるか。それを知れる」

 その言葉は、黙って聞いていた彼の心を直接揺さぶった。

 エーリッヒは無言で笑って見せた。心を見透したことを勝ち誇ったような笑顔でもあった。

「どうだ、受ける気になったかね?」


 そこからはあまり記憶に残っていない。たしか、大量の書類を読まされて生体署名をしまくったはずだ。

 山のようにあった書類の最後の一枚、うろ覚えだが表面に大鷲のマークが印刷された、保安局の管理する国際運転免許についての書類だったと思う。

「……これで大丈夫ですか」

 大量の活字で散々疲弊させられた後だったので文章の半分以上は読み飛ばしていた。てんかん症状の有無だとか、研修期間だとか、細かいことばかり書かれていた気がする。

「よし、ようやく長い事務作業が終わったな。これで晴れて君もスペクターの正式な職員だ」

 書類を読んだだけなので実感などありはしないが、それでも心のどこかに満足の欠片があった。

「おめでとう、君を歓迎しよう」

「ありがとうございます」

 握手を交わしたエーリッヒの手は少し荒れており、使い込まれていた。

「早速セーフハウスの鍵や職員IDを渡したいところだが……」

 エーリッヒは右手首に巻き付いているスマートウォッチを覗く素振りを見せた。

「そろそろかな」

 エーリッヒがそう言うのと同時に、扉が開く。立っていたのは荷物だ。あまりに段ボールの量が多く、向こうに立っているのが誰かはわからない。

「中将、レラジェ中尉です。言われたものを全て持ってきました」

「ありがとう、荷物はそのままでいいから中へ入ってくれ」

 返事が聞こえた。段ボールが答えたわけではない、段ボールの山を掻き分けて出てきたのはあの時の女性だった。

「ご苦労だった。すまないね、オフィスとここを何往復もさせてしまって」

「いえ、なんてことありませんよ」

 あの日と同じスーツ姿の彼女に彼の視線は釘付けだった。

 エーリッヒがレラジェに座るよう促し、彼の隣に座る。

「そう硬くなるな、二人とも。これから一緒に住むというのに」

「えっ!」

 まず声を上げたのはレラジェの方だった。

「中将、思い付きの発言はやめてくださいよ」

「思い付きとは何だ。協議の結果だよ、君たちは職員である以上従わなければならない」

 しばらくの間、掛け合いを呆けながら眺めていた。

 ようやく、レラジェが折れる形で話し合いは幕を閉じたようで、ちらと彼を一瞥したエーリッヒが微笑む。

「蚊帳の外にしてすまなかったね。彼女はレラジェ・フォーラス、未来のエースだよ」

「エースだなんて、そんな……」

 謙遜するように笑うレラジェに、どことなく親近感を覚えていた。何故かはわからなかったのだが。

「トート森林で君を見つけたのも彼女。そして、君と同じ『ジョン・ドゥ身元不明者』だ。仲良くやりたまえ」

 頬をぽりぽりと掻いてこちらを見遣ったレラジェと目が合う。

 整った顔立ちだ。どこか憂いを湛える瞳もまた、妙に美しく思える。綺麗だ。

「まあ、その」

 レラジェが薄く笑いながら左手を差し出す。

「よろしく」

 頬を朱に染めながら言う彼女を、もしかしたらこの時にはもう好いていたのかもしれない。

 見惚れてしまった。

 握手を交わして、離れてしまう体温を名残り惜しく思いながら手を離す。

「さて、挨拶も終わったことだ。早速、に帰るといい」

 エーリッヒが満足そうな笑顔で言った。レラジェと彼は同時に立ち上がって扉の方へ向かう。

 扉に手をかけたところで、レラジェの手が止まった。

「そういえば」

 レラジェはこちらをじっと見つめて言う。

「貴方の名前は?」

 エーリッヒの方を覗き込むと、彼はうっかりしていたと言わんばかりに肩をすくめた。

「今日から彼の名は、イポスだ」




 度重なる脳震盪に精神的ショック、切創挫傷などからの過度の出血。加えて重度のマジック・リコイルに曝されていた。もはや人の形を保って息をしていることが奇跡だと、医師は語った。

「貴方もしぶといわね」

「……ああ、まだ死なせてくれないらしい」

 ましてや、意識を取り戻す可能性など天文学的な数値だったに違いない。

「調子はどう?」

 イポスが目覚めたのはテロ鎮圧の三日後、二日前のことだ。目覚めた直後は体もまともに動かず、ただ天井を眺めることしかできなかった。喋れるほどに回復してからは、鎮静剤と点滴に頼った療養生活だ。

「良いと思うか?」

「それもそうね」

 真っ白なベッドの傍らに置かれた椅子を引き出し、マルガは座った。

「……彼女の死体は原形をとどめてなかった。誰かを判別できないほどにね」

 マルガはイポスと目を合わせようとはしなかった。

「ごめんなさい、あの時は言いすぎたわ」

「いいさ、別に。あの場で喝をいれてくれなかったら、今こうして生きてなかった。それどころか」

 視線を穏やかに時間が流れる秋の街へと移した。

 外ではしゃぎながら子供たちが道を走っている。カップルが手をつなぎながら歩いている。スーツを着た誰かが忙しそうに小走りしている。

「この日常が消えてたかもしれない。犠牲を無駄にしてしまうところだった」

「……あの時は自棄になってた。誰でもいいから怒りを、哀しみを、行き場のない感情をぶつけたかっただけ。そんなつもりで貴方を𠮟責したんじゃない」

「結果的には正しかった、それでいいじゃないか。俺だって無念を割り切れずにいたから立ち止まってしまったんだ」

 朱や黄に染まっていた木々は葉を落とし始めていた。もうすぐ冬が来る。

「だから、そう気に病むな。各々がその時々で正しい、最良の道を選択しようとした結果だ。あの場ではレラジェが道連れになることが正しかったし、俺を叱責することが正しかった」

 マルガはようやく顔を上げ、イポスの目をじっと見つめた。

「もっと良い選択肢があったはずよ」

「それは神にしか分かり得ないことだ」

 永遠に正しくあり続けることはできない。どれだけ願おうとも、それは人間にはできないことだ。

「俺たちは、正しかった。失った友人たちの決断も正しかった。それを証明できるのは生き残った人間だけだ」

 マルガは視線を落とした。

「……気に病むな。そう悲しそうにしていたら、レラジェも安らかに眠れないだろ」

「彼女は一度寝たら、てこでも起きなかったわよ」

 二人して笑ってしまった。

 マルガもようやく肩の荷が下りたかのように、一つ深呼吸をしてから内ポケットから封のされた手紙を取り出した。

「ジョンからの手紙よ。目覚めない貴方の心配をしていたわ」

 白い封筒の一辺を破り、中の手紙と数枚の写真を抜き取る。

 手紙を広げてみれば、あの硬い雰囲気とは真逆の褒め言葉と安否を憂う文章ばかりだった。

「ジョンがここまで褒めちぎってくれるとは思わなかったな」

「誇りなさい、貴方はこれだけのことをしたのよ。失意の中でも未知の怪物を相手に生還したのだから」

 マルガもまた、イポスを褒め称える。だが、イポスの心中には一つの疑問があった。

「マルガ、ジョンの手紙を届けるためだけにここまで来たわけではないだろ」

 マルガは目を丸くし、気まずそうに目を逸らした。

「……なんでもお見通しね、さすがはレラジェの弟子だわ」

 マルガが一つ、ため息を漏らした。

「どうしたんだ」

「どうもこうも、私なりに区切りをつけた。ただそれだけよ」

 マルガが立ち上がった。

「辞めたのか」

「お察しの通りよ。今回の件で血が流れすぎた。私がこれから先も無事でいられるとは思えない」

「そうか。もう一度お前と仕事がしたかったよ」

 差し出した左手をマルガは掴んだ。

「もう御免よ、貴方と組んでも足手まといになるだけだもの」

 笑って握手を止め、踵を返して病室からマルガは立ち去ろうとする。

 そうだ、とマルガはポケットから紙の端切れをイポスに手渡す。見れば、住所と連絡先が書かれている。

「何か困ったことがあったら連絡して。しばらくは暇なはずよ」

「引退したなら迷惑はかけられない」

「構わないわよ、貴方も引退を考えたら? 退職手続きの方法くらいなら教えてあげられるわよ」

 薄く笑って、ベッドを離れた。

「マルガ!」

 スライド扉の取手に手をかけたマルガがこちらを見ずに止まった。

「レラジェは、最後までお前を気にしてたよ。自暴自棄にならないかって」

 取手を持つ指がわずかに震えているのがわかった。マルガはそのままドアを開けて何も言わずにそれをくぐった。

 最後に一度だけ振り返って、マルガは口を開いた。

「たまには飲みにでも誘って。積もる話はいくらでもある」

 そう言って、マルガは出ていってしまった。

 彼女もまた、失った者なのだ。それ以上は何も言えなかったし、何も言わなかった。ただ、足音が不自然に途切れたことだけが、鍛え上げられたイポスの耳にはわかった。

 一人取り残されたイポスはぎこちなくジョンの手紙と同封されていた写真を見る。写真に写っているのはあの後のタワーの様子や戦闘の最中に破れてしまったらしい例の文書だ。

 幸い、破れて修復不能になったのは背表紙だけで他のページは判読可能なレベルには修復できたようだった。

 回収されたMOD爆弾やタワーの最上階から撮ったらしい写真もあった。ふと裏面を見れば、ジョンの自筆で「お前の成果だ」と一言だけ書かれていた。

 そこでようやく、手紙に二枚目があったことに気づいた。


————今回の件で惜しくも命を落としてしまった者たちは出来る限りの遺品と遺体を回収して丁重に葬った。無論、レラジェもだ。本当に惜しい奴だよ。

 レラジェは良き仲間であり、良き友でもあった。私よりも付き合いが親密な君にとっては、それ以上のものであったのだろう。

 どうか、気負いすぎないで欲しい。同封した写真を見てみろ。イポス、君はこれだけのことを成したんだ。それを拠りどころにしたって誰も責めはしない。払った犠牲は大きいが、それでも大きなものを守り抜いたんだ。

 忘れてはいけない、時に死の意味を考えることは有れど、そこに意味などないことを。生にのみ意味があり、死後に残るのは生前の幻影でしかない。

 彼女たちは、残された者が前へ進むための後押しをしてくれたんだ。これは物理学で言うところの作用・反作用の法則のようなものだ。前へ前へと進んでいくためには必要な犠牲だった。

 彼女に生かされた君は、割り切って進むことしかできない。どうか、レラジェのためにも止まらずに進み続けてくれ。 ジョン・パターソン————


「進むことしかできない、か」

 手紙を封筒に戻して外をもう一度見た。

 部屋の外から聞こえる啜り泣きを、イポスにはどうすることもできない。吹き続ける冷たく、晴天は鈍く翳り始めていた。



 ようやく退院の日だ、とは言ってもまたしばらくの間は通院し続けなければならないらしい。意識を失ってから一週間の間に世話になった看護師と医師に礼を言ってから中央玄関の扉をくぐった。首都の中では最も大きい病院なので玄関を出ると救急車や患者の車が駐車できるロータリーがある。

 ところどころに緑が見えるロータリーを見回す。迎えは時間通りには来ていないらしい。

「イポス隊長!」

 聞き覚えのある声が彼の名を呼んだ。振り向いてみればハルがいた。

「お久しぶりです。ご無事、と言うわけではなさそうですけど」

「それはお互い様だな」

 ハルの包帯に巻かれて吊るされた左腕を見ながら答える。

「はは、笑えない話ですね」

 風が二人の間を駆け抜けていく。

「腕の調子はどうだ?」

 ハルが真っ白な包帯に巻かれた左腕を撫でた。

「残念ながら、芳しくありません。正中神経が切断されたらしく、もう動くことは無いかもしれないと」

 ハルは力なく笑って見せた。ひどく疲弊しているようにも、諦めているようにも見える。

「……そうか、すまなかったな」

「隊長が謝る必要はないですよ。前線にはもう立てないと思いますが、幸い利き腕はまだ動きます」

「強かだな、ますます部隊が再編されてしまうのが惜しいよ」

 ハルと重傷を負った若干名の隊員を残して全滅した『泣く鬼』は解体、再編されてしまうらしい。僅か一日のみの付き合いではあったが、背中を預けた仲間たちを思うと心が痛む。

 頬をポリポリと搔きながらハルは照れくさそうにする。

「隊長に褒められるのは気分が良いですね。でも心配しないでください、パターソン大佐に研究部門へスカウトされたのでこれからも機動部隊のみんなを支援できます」

「頼もしい限りだよ」

 ハルが、先ほどイポスがそうしたように彼の体を眺めた。

「隊長こそ、戦線を離れないんですか? あなたは十分働いたと思いますよ」

「そう、かもしれないな。だがまあ、行き場もなくてな」

 曖昧に答えたイポスの視界に見覚えのある車が入り込んでくる。

「イポス、迎えにきてやったぞ」

 車の窓を開けてマイクが声をかけてきた。

「すまない、もう行く」

「いえ、お大事になさってください」

 ハルと別れの挨拶を交わして、迎えの車へと向かった。車から降りたマイクが助手席のドアを開けてくれる。

「ありがとう、マイク。小間使いして悪かった」

「気にすんな。英雄様は黙って馬車に揺られてりゃいいんだ」

 助手席のドアを閉めて、マイクは運転席へと戻った。

「一旦家に帰るか?」

「……いや、ここへ向かってくれ」

 少し考えた後、メモの端切れを渡す。そこには住所が書かれている。

「わかった」

 マイクはメモを見ることなく、車を発進させた。

「マイク?」

「見なくてもわかるさ。スペクターの共同墓地だろ?」

 呆気に取られていると、マイクが勝ち誇ったように笑った。

「あんまり舐めてもらっちゃ困るぜ。調べ物の一つや二つ、お前が寝てる間に終わるさ」

 どこか冗談じみて聞こえるその声色から、イポスは考えた。

「知ってたのか」

 バツが悪そうにマイクが頬を掻きながら笑った。

「……お前には敵わねえな」

 マイクが煙草のソフト箱を懐から取り出して、器用に一本だけを咥えて火をつけた。

「実はな、知ってたんだ。お前の家に前住んでた奴は例のエージェントだろ」

「ああ」

 煙草の先端がチリチリと焦げていく。

「どういう関係だったか、何があったか。大体わかるさ、お前の顔見てれば彼女が」

 マイクが煙を吐いて、車の窓を開ける。

「お前にとってどんな存在だったか。随分とデカい存在だったんだな」

 イポスは黙って頷いた。

 イポスにとってレラジェとは、追いかけた背中であり、肩を並べた仲間であった。それは師弟としても、想い人としても同様だった。

「彼女を蝕んだ呪いが、ついに彼女に副作用をもたらしちまった。しょうがないと割り切るしかないさ。遅かれ早かれ、こんな仕事をしてる以上は別れの時が来たんだ」

「……分かってる。頭ではな」

 流れていく都会の風景を眺めることしかできなかった。

「まあ、いつ死ぬともわからない世界なんだ。ほんの一瞬であっても、命を捧げてでも救いたいと思える相手がいたことは、誇っていい事実だ」

「そう、だな」

 ん、と無言でマイクが煙草の箱を差し出した。吸えという事だろう。

「俺も、お前みたいになれたらな」

 一本取りだしたのをマイクが確認すると、ライターを差し出してきた。

 左手でそのライターを下げさせて、持っているとジェスチャーで伝える。

「お前、煙草吸ってたのか?」

「吸ってない」

 マイクが怪訝な顔をした。

「よく、失くしてたからな」

 ほんの少し、脳裏で慌ただしく煙草を咥えながらライターを探す彼女の姿がよぎった。自分でもわかるほど、寂しそうな声だった。

 マイクが少し申し訳なさそうに頭を掻いて煙を吐く。

 イポスは使う当てのなくなったライターを胸ポケットから取り出して咥えていた煙草に火をつけた。

「どうだ、煙草の味は」

 マイクがイポス側の窓を開けながら聞いてきた。

「……つまらない味だ」

 進むことしかできない。手紙に書かれたジョンの言葉が頭の中を反響し続けている。イポスはただ、煙が外へと流れていくのを見つめ続けるしかなかった。


 ヘキサゴンタワーから程近い共同墓地には大理石で造り上げられた真っ白な十字架がズラリと並んでいる。その数はおよそ三千にも及ぶ。

 この墓地には殉職してしまったスペクター職員の他にも、これまでのテロで犠牲になった一般人の遺体も埋葬されている。

「それじゃ、終わったら連絡してくれ」

「お前は来ないのか?」

「葬送ってのは静かに行われるべきだ。二人の時間を邪魔出来るほど、俺は出来た人間じゃない」

「……すまないな」

 微笑むマイクを、少し羨ましく思ってしまった。

「そうだ、イポス」

 扉を開けて、外へ出ようとしていた彼の名をマイクは呼んだ。

「リザ……うちの部隊長の命を救ってくれた礼を言ってなかったな」

「無事だったのか?」

「無事、とは言えないが命だけは助かった。回復するのは時間の問題だろうと思う」

 ありがとう、とマイクは柄にもなくかしこまって言った。

「それじゃ、終わったら呼んでくれ。迎えに来る」

 そう言い残して、車は走り去っていった。イポスは花束を片手にそれを見送った後、墓地の中へ入る。

 かつての相棒は皆、ここに眠っている。そう言って彼女は律儀に墓の前へ足繁く通っていた。

 どれだけの重責だったろうか。

 広い墓地の中ほど、妙に新しい大理石の墓石があった。全て、今回のルシッフルタワー爆破未遂テロの犠牲者達だ。

 どれだけの人数が犠牲になっただろうか。それは、本当に必要な犠牲だったのだろうか。そんな思考が頭をもたげる。

 そよ風が頬を撫でた。何かに呼ばれた気がしてそちらを振り向けば、そこには無銘の墓石が佇んでいた。

「少し時間が空いてしまいましたね、レラジェ」

 花を供えながら、そこに眠る人の名前を呼ぶ。

「どうにも、実感が湧きませんね。あれだけ強かった貴女が死んでしまったというのもありますし」

 マイクに貰った退院祝いのボトルウイスキーをコートの内から取り出して、栓を咥えて思い切り抜く。キュポンという軽快な音と共に微量の酒が溢れてしまった。

 勿体ないとは思いつつ、しょうがないかと割り切って半分を墓にかけてやる。

「ずっと隣にいた貴女が居ないという事実が、俺には信じられない」

 酒瓶を呷って、喉の奥をアルコールで満たす。随分上等なウイスキーだ、焼きたてのパンのような甘い香りが鼻を抜けていく。

「短い付き合いでしたけど、随分色々なものを与えられてばかりでしたね。……俺は何も返せていないのに」

 酒瓶のふたを閉めて懐へと戻す。

「手向けの花も、酒も、何もかも似合いませんね。やっぱり貴女は元気に軽口叩いてる方が綺麗だ」

 そういえば、酒癖は割と悪い方だったな、などと考える。

 空は憎いほどに青く澄んでいた。太陽はうざったいほどに照りつけて、そこら中のビルの窓ガラスに反射している。

「自分が思っている以上に俺にとっての貴女という存在は、大きかった」

 頬を何かが伝った。

 それが、人の手ほど温かみのあるものではないことはもう分かっている。

「言いたい言葉ってのは、どうして全部手遅れになってからしか紡げないんですかね」

 土に膝をついて彼女をはっきりと見据える。

「この命を投げ捨てでも、貴女と共にいたかった」

 そして、もう右腕で墓を抱いた。

「貴女を愛しています」

 風がそよいだ。涙で何もかもが滲んでしまう。

 こんなにも単純な一言のために、イポスは右腕を失った。仲間を失った。そして、その言葉を伝えるべき想い人を失った。

 もう、彼女はイポスに笑いかけてはくれない。

 仕方がないのだ。イポスが何かできた状況ではなかった。謂わば決定された運命だったのだ。それを変えられるとすれば、神くらいであろう。

 そんなことは分かっている。分かっているからこそ。

「俺は、俺が許せない」

 無銘の墓にそっと、サイラスとの戦闘で千切れてしまった二式警棒のシャフトを供えた。

「俺が今、こうして生きているのは貴女のおかげです。この命は貴女のために使います」

 涙を拭って立ち上がった。残った左手には、遺された左腕には二式警棒にリングが握られている。

 敬礼をする。これは、イポスの決意であり誓いであり選別だ。

 やはり、与えられてばかりだった。

「何が『全部、託す』ですか。『貴方は生きて』ですか。本当に」

 敬礼を解いたイポスは微笑む。墓は滲んでよく見えなかった。

「本当に、貴女は馬鹿だ。バカみたいに真面目で、バカみたいに……」

 その先の言葉は、もはや紡げなかった。

 

「やあ、イポス。君も来ていたんだね」

 レラジェの墓を後にし、墓地の入り口まで戻ったイポスの眼前に立つのは護衛を一人だけ連れたエーリッヒだ。

「中将も墓参りですか?」

「ああ、旧友の方は墓すらないがね」

 ブースの遺体はスペクターが回収し、焼却。遺灰はブースの故郷であるウェスティンディア南西のベルノ湾に水葬された。ジョン曰く、友人としてのせめてもの気配りらしい。

 エーリッヒは少し寂しそうな色を滲ませて笑った。

「まったく、歳はとりたくないな。どうにも感傷的になってしまう」

「……そんなもんですか」

 エーリッヒはこちらの顔を伺うようにして申し訳なさそうな顔をする。

「すまない、君にする話ではなかったな。結果的とはいえ、ブースは君が殺したし、何より君はレラジェを失っているからね」

「いえ、大丈夫です。覚悟はできていましたから」

 エーリッヒはイポスの顔をじっと見た後、いたずらに笑う。

「泣きはらした顔で何を言うか。無理はするな」

 はっとして少し目元に触れると、確かに少し腫れている。

「私の前で隠し事など無駄だぞ、イポス。まだまだ若いな」

 エーリッヒの勝ち誇ったかのような顔には、明らかな喪失感が見てとれた。表面上は明るく振る舞っているが、腹心の部下を失ったのは辛いのだろう。

「……レラジェはいい戦士だった。私の頼もしい部下であり、私の良き友人だった。君も同じ、いやそれ以上か。辛いのは当たり前だよ」

「私は、彼女の……レラジェの代わりなれるでしょうか」

 エーリッヒは少し考える素振りを見せて、それから口を開いた。

「君はレラジェになれない。だが、彼女もまた君になれない。死した者の亡霊スペクターを追おうとするな、君は君でいい」

「そう、ですか。……そういえば、撃たれた傷は大丈夫ですか?」

 嘆息を漏らしながら、エーリッヒは胸の下部あたりを撫でた。

「幸い、弾は抜けていてね。大事には至らなかった」

 エーリッヒが護衛にその場で待つよう言い、歩き出してイポスの肩を持った。

「私がこうして生きているのは君たちのおかげだ。ありがとう」

 エーリッヒは肩に置いた右手を外して、そのまま歩いて行った。


────違和感。


 それは違和感と呼ぶにはあまりに些細だった。ただの言い間違いや聞き間違いなだけ。ひょっとすると、レラジェを失ったことを正当化したかったのかもしれないし、数日の昏睡で記憶が曖昧だっただけかもしれない。

 とにかく、ひどく小さな違和感だった。

 その違和感が、今まで感じていた違和感を全て芋づる式に引き出した。

「……エーリッヒ」

 声が震えている。振り向けるほどの確信はなかった。

 ヘキサゴンタワー、襲撃、狙撃、人体実験、荒れたオフィス、二人の怪物、文書、職員名簿、MOD爆弾、ゴーストガン。

 もし、その違和感が正しいとしたら。

 イポスは振り返って、エーリッヒの背中を見据えた。

「あんたは、誰なんだ?」

 全てに説明がついてしまう、それが彼なのだとしたら。

 エーリッヒは立ち止まって、顔を左手で覆った。

「……ああ、しくじった」

 エーリッヒは深くため息を吐きながら言う。

「そうだったな、銃弾は貫通してなかった。忘れていたよ、だから歳をとるのは嫌なんだ」

 振り返ったエーリッヒの顔にはいつものものとは違う、嘲るような薄ら笑いが張り付いていた。その顔は、死者を冒涜するかのようなもので。

「ずっと、おかしかった」

 イポスは知らず知らずのうちに、拳を握りしめていた。

「ヘキサゴンタワーの内部構造を熟知した保安局員、その入念な下調べに対してあまりに荒い襲撃計画。どこからも見つからない行方不明者と不自然に破れた裏表紙も、あの二人の名前が無い職員名簿も、都合の良すぎる保安局ビルへの侵入も全て違和感だった」

 エーリッヒは薄ら笑いを崩さない。

「そして、何よりもあの正確すぎる狙撃。ちょっとやそっと訓練した程度ではできない芸当だ」

 エーリッヒはまだ喋ろうとしない。

「まして、狙撃兵科のない保安局の人間には不可能だ」

 イポスは次の言葉に詰まった。それを認めてしまったら、彼女の死は何のためにあったのだろうか。

「……もし、あの日の全ての出来事にあんたが関わっているとしたら、全部に辻褄が通る」

 エーリッヒが意味ありげに含み笑いする。

「塵も積もれば山となる、というやつだな。少々ヒントを与えすぎたかな」

 エーリッヒがわざとらしく肩をすくめる。

「……リコイルとは何か、銃を扱う君にはわかるだろう」

 彼の紡ぐ言葉の一つ一つが脳を反響する。

「銃弾を前へと進ませる際に発生する……反作用のことだ」

「そう、その通り」

 大仰に手を振り上げ、空を眺めるエーリッヒ。

「反作用、すなわち運動の第三法則だ」

 目の焦点が合っていない。ドラッグでもやっているのだろうか、現実逃避の思考が頭をよぎった。

「人は適応する。いや、進化する。足で歩き、火を扱い、言葉を操り、そして」

 空を見上げていたエーリッヒの目線がイポスへと戻される。その目は冷ややかに、それでいてどこか恍惚に炎を湛えていた。

「……魔力を受け入れる」

 駄目だ、これ以上彼の話を聞いていたら。

「それが、サイラスとトーカですか」

「そう、そしてレラジェや」

 エーリッヒはイポスの目を見た。

 それ以上何も言わないでくれ。

「君もだよ、イポス。君は神に祝福されたんだ」

 背後に気配があった。

 そこにいたのはエーリッヒの護衛だ。右手に消音器付きの拳銃を握っているのを確認するや否や、左手でそれを掴んで右肩をぶつけてそれを奪い取る。

 護衛がよろけて芝生の上に倒れたのを見てから拳銃を器用にくるくると回して左手の掌中に収めてエーリッヒへと向けた。

「答えてくれ、エーリッヒ」

 歯ぎしりした。

「レラジェは」

 引き金に人差し指を掛けた。

「……何のために死んだ?」

「我々の未来の為だ」

「未来?」

 エーリッヒは臆する様子もなく、こちらへと歩み寄って笑いかける。

「魔力に適応した、すなわち祝福された人間は、人類の上に立つ。強き者が弱き者の上に。それがこの世の摂理だ」

「何が言いたい」

 エーリッヒの歩みは、あと三歩も踏み出せば手が届きそうなほどの距離で止まった。

「そう結論を急くな。話はこれからだよ」

 汗が頬を湿らせる。照準がぶれる、手が震えているのだ。

「運動の第三法則に則れば、質量のあるものを後方へ投射することで物体はより加速していく」

 ニュートン力学の基本的な話だ。無論、イポスはその言っている意味が分かる。だが、エーリッヒが何を言いたいのかはわからない。この奇妙なねじれが、イポスに瞬きすら忘れさせるほどに背筋を這って行く。

「レラジェは犠牲になったのだ。我々、祝福された人類がその先へ進むために」

「ふざけるな!」

 引き金を引いた。かちりと撃鉄が薬室を叩く。そこにある銃弾の雷管を炸裂させる、はずだった。

「……諦めろ。君は、私を殺せない」

 冷ややかに言うエーリッヒを合図に跳ね起きた護衛がイポスを羽交い絞めにする。イポスは必死に抵抗してその拘束を振り払おうとしたが、遂に拳銃を取り落としてしまう。

 銃弾は装填されていなかった。恐らく護衛がスライドを引いていなかったのだろう。取られることを予期していたのか、いや銃をかすめ取られるのとイポスを撃ち殺すのとでは、圧倒的に後者の方が可能性が高い。

 何より、ここでイポスがエーリッヒの正体に気づく可能性がまず低かった。

「どこまで計算尽くなんだ、あんたは! どこまで分かっていた!」

 護衛の腕の中でもがきながら叫んだ。

 そんなイポスをエーリッヒは憐れむように眺める。

「レラジェが死ぬとわかっていたのか!? 分かっていて、俺とレラジェをあのタワーに行かせたのか! 答えろ、エーリッヒ!」

「そう騒ぐな、ストレスだ」

 無感情に言い放ったエーリッヒの言葉がイポスを逆撫でする。

「黙れ! 何の為にあんたは人を、レラジェを殺した!?」

「人類のためだ。次の進化のためのな」

「何が進化だ! お前が、お前のエゴがレラジェを殺したんだ!」

 エーリッヒの表情が変わることはない。

「揺るぎない事実だよ、イポス。そのために私はレラジェや君に名前を与えたんだ」

 イポスはそれ以上、何も言わなかった。いや、言えなかった。

 眼前の男に張り付いた笑みは、先程までの冷酷なものから打って変わり、狂人のそれであったからだ。

「……その為に罪のない人間をモルモットにしたのか」 

「そこまで気づくか」

 エーリッヒが両の手を叩いて拍手する。

「どうせ、サイラスやトーカもその過程で生まれた偶然の産物だろう」

「その通り、文書に書かれていた人数と一致しなかったからか?」

 イポスが黙って頷いた。

「そうか……いや、待て。それと君が実験に気づいたのは全く別の問題だろう。何で気づいたんだ?」

「元から違和感はあった」

 順を追って説明しろ、と言わんばかりにエーリッヒはイポスを見下す。イポスの脳裏に、保安局で見たいくつかの書類が浮かぶ。

「保安局の名簿にはサイラスCyrusの名がなかった。それから」

 エーリッヒの気味の悪い笑顔が離れない。

「押印は伝統的に、保安局は文書の表紙にする。それは検閲待ちの文書であっても同じだ」

「あの文書も同様だ、ということか」

 声を抑えて笑うエーリッヒが、どうしようもなく憎い。

「いやはや、全く。遅かれ早かれ見抜かれるとは思っていたがここまで早いとは」

 わざとらしく、エーリッヒが両腕をひらひらと振る。

「いかにも、私がクリークゾフツの総統。エーリッヒ・フォン・ネルソンだ」

「……随分とヒントを用意してくれてたようだからな」

 まだ、まだその時じゃない。脇の間から通る腕の力はまだ強い。

「なぜ、レラジェが死んだか。君はそう聞いたね」

 大人しく頷く。

「そもそも、君は魔力とは何かわかるかね」

「人の意識から生まれる、内と外を隔て、その存在そのものを安定させる力だ」

「そう、その通り。その存在は大戦期に証明され、また研究された。当時は人々が自由に魔力に触れ、扱っていた」

 エーリッヒがイポスへと近づく。

「魔力は大戦終結から数年後に消失。そして今から三十数年前に再び発見された」

 エーリッヒの顔がイポスの目と鼻の先にある。

「何が言いたいかわかるか」

 イポスは無言を貫き通した。

「我々は黙示録戦争アルマゲドンの遺恨なんだ。私たちには義務があるはずだ」

「その義務とやらが一般人の虐殺だってのか」

 エーリッヒがイポスに背を向け、歩きながら指を横に振る。

「私たちに課せられた義務は、『自由』だ。弱者のための常識も、法も、規律も、全てから解放されるべきであり、新たな秩序が必要となる」

 そして、彼は振り返って大仰に両手を掲げながら叫んだ。


「我々には、新たな国家が必要なのだ!」


────分離主義、とはよく言ったものだ。現存する唯一の国家たる統一連合から切り離された新たな国家。それが何をもたらすか、想像するまでもなかった。

「君は違和感を持たなかったかね? 私以外に知る者のいない、誰も見たことのない、政治部ホワイトハンドについて」

「……っ!」

 しばしの沈黙の後、イポスは目を丸くした。

「まさか……!」

 エーリッヒの顔が綻び、悪魔のような笑顔に変わった。

「そう、その通りだ。私だけだ、政治部ホワイトハンドは私しかいない」

 イポスが続く脳内の思考に身震いした。

 保安局が解体され、事実上の武装組織はクリークゾフツとスペクターだけ。それがどんな結末をもたらすかは、想像に難くない。

 エーリッヒによる武装蜂起だ。

「あんたが全ての元凶か」

 無言でうなずいたエーリッヒ、今しかなかった。思い切り上半身を振り上げて、後頭部で護衛の顔を殴る。

 怯んで拘束が弱まったその瞬間に、体を捻って右足で護衛を蹴り飛ばす。

 左手で落ちている自動拳銃を拾い上げ、片手でスライドを引ききり、人差し指でスライドストップを下ろす。

 今度は撃てる。立ち上がった護衛の頭を拳銃で撃ち抜けば、それは役立たずの死体になった。そして、振り返ってエーリッヒの方へ銃口を向ける。

「俺は、あんたを殺す。俺の為じゃない。世界の為でもない、彼女の————レラジェの報いのためだ!」

 にやけ顔の消えないエーリッヒの脳天を狙って引き金を引いた。


————銃声、それはずっと遠くからしたものだ。

 エーリッヒに向けられていたはずの自動拳銃は地面に落ち、そのスライドには八・六ミリ弾がめり込んでいる。

「詰めが甘いな、イポス」

 エーリッヒが何事もなかったかのように、イポスとすれ違って墓地の外へ向かう。

「まだ、殺さないさ。せいぜい足掻くと良い、イポス。いや……」

 エーリッヒがイポスの方を振り向いて言うのだ。

「……イポス・フォーラス君」

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マジック・リコイル ゼロの偽証 家々田 不二春 @kaketa

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