「ゼロの偽証」 作用
目が覚めた。
どうやらメンテナンス用の足場の中腹で頭を打ちつけて気絶してしまったらしい、後頭部が割れるように痛い。血が出ていないか不安になって患部に触ってみると、腫れているのが分かる。汗ばんではいるが血は流れていないようだ。
「起きましたか?」
声の主はハルだ。
爆弾を外に放り投げた後、気絶したイポスをハルや他の隊員たちが六階まで運んでくれたようだった。
壁にもたれかかったイポスの様子を見て少し緊張が緩んだのか、優しく微笑みかけてくれる。
「……ああ、どうなったんだ」
「あなたのお陰でブースは死んだ。払った犠牲は多いけれどね」
答えたのはマルガレーテだ。どうやら、イポスは途中のメンテナンス用の足場に引っかかっていたらしいが、ブースは残念ながらゲイン塔の入り口まで、すなわち二百メートル程度を落ちらしい。情報は得られず仕舞いだ。
大多数の隊員は先に降ろしたようで、そこに残っているのはイポスも含めて五名ほどだった。
「元気になったのなら降りるわよ、いつまでもコレと一緒に居たくないもの」
そういったマルガの指の先にはバックパックが三つ、赤いバンドが巻かれて安置されていた。
赤いバンドは中身が爆発物であることを示す。
二つを隊員らが背負うのを見て、イポスも残った一つを持つ。
「ヘマって信管はめないでよ? 不活性化してないんだから」
マルガがそう言うのと同時に、エレベーターの扉が静かに開く。ハルの手を借りて立ち上がり、この場所を後にした。
全員乗り込むのと爆弾を積んだのを確認すると、マルガは扉を閉めた。電光掲示板に表示された予備電源の残量は、雀の涙ほどしかない。
「下まで降りられるのか?」
身体が浮き上がるような感覚、エレベーターが静かに動き出した。
「一応ね、戻っては来れないけれど」
忘れ物を取りに戻ることは出来なさそうだ。
自分のバックパックを漁り、例の文書が入っていることを確認する。少なくとも、任務に必要なものは忘れてはいない。
ただ一つを除いて。
「……マルガ」
「いいのよ、分かりきってたことだから」
達観、いや諦観か。少し上を見つめる彼女の声色は沈んでいた。
「遅かれ早かれ、こうなる事は目に見えてた。あの時と同じように、今の私に出来ることは何もない」
仄明るいエレベーターの箱の中で最も扉に近い場所に立つイポスには、マルガレーテの顔は見えなかった。一度だけ、僅かに響いた水音がイポスの脳に反響する。
暫くの間は、機械的な駆動音しか聞こえる事はなかった。
異変に気づいたのはその十数秒後だ。
身体が重い。いや、違う。エレベーターが減速を始めた。地上に着くには少しばかり早すぎる。ライフルを構えた。他の隊員たちも同じだ。
音もなくエレベーターは止まり、扉が開く。扉に立てかけていたバックパックが重力に惹かれて倒れた。
静かだった。ここは三階だ、やはり地上ではない。破れたガラスが月明かりを反射して煌めいていた。どこにも人の姿はない。隠れているのか?
倒れたバックパックを少し遠くの方へ向かって蹴る。ざしゃっ、という音ともに床を転がった。
ハンドサインで示し合わせ、イポスがエレベーターから一歩踏み出す。それと同時に、誰かがざりっ、という細かなガラスの破片や砂利を踏んだ音をたてた。同時に気づいた、奴がいない。
そう気づくのが一歩遅かった。
飛び膝蹴りを左腕にもろに食らったイポスは吹き飛ぶ。派手な音を立てて倒れたイポスの目に、サイラスの顔が映った。
持ったマチェーテをサイラスがエレベーターの方へ投げる。
それは、応戦しようと外に身体を見せていたハルの左腕に突き刺さった。
「がぁっ!」
ハルはその場に倒れ、他の隊員が即座に箱の中へと引き戻す。
サイラスが立ち上がり、懐に隠したもう一本のマチェーテを手にエレベーターの方へ歩いていく。
皆殺しにする気だ。
ライフルが邪魔だ、アーマーとの接続部をナイフで切って、マテバを構える。妙な情は起こさないでくれ。
「こっちだ、サイラス!」
発砲、マズルフラッシュで目が眩みながらもサイラスの肩に当たったのを確認する。
サイラスの注意が逸れた。
「閉めて!」
マルガの叫び声、どうやらイポスの意図は通じたようだった。
箱の中でハルが呻き声をあげている。
「ハル、暴れんな! 傷が拡がる!」
隊員が二人がかりでハルを押さえ宥めながら、肩に紐を巻き付けて止血をしている。その横では別の隊員が復旧した通信で状況を共有している。
「マルガレーテ中尉、私のことなんていいですから、イポス隊長を……!」
息も絶え絶えにマルガを説得しようとするハル。マルガはそれを無視して、ハルの首筋に鎮痛剤を注射する。
「落ち着きなさい、ハル。私たちの任務は爆弾の回収と人質の救出よ。あの化け物を殺す事は任務じゃない」
「ですが……!」
「あのまま無謀に挑めば全滅は必至よ。それが分かっていたからこそイポスは囮役を買ってくれたんじゃない」
ハルは押し黙ってしまった。
今、この瞬間に戻ろうとすればイポスが拾ってくれたハルの、ここにいる全員の命を無駄にすることになる。恨むべきなのはマルガではなく、敵だ。
この場において、人間はただの消耗品であり、切り捨てるのが最善だった。
個ではなく国家のために己が命を捧げること。それがスペクターの教義だ。
「あなたは自分のことに集中しなさい。あいつを助けるのは私たちの役目よ」
扉が開いた。
数人の救護隊が既にスタンバイしており、ハルを手際よく担架に載せる。
「中尉、隊長を頼みます!」
横になって運ばれていくハルは、痛みを押し殺して声の限り叫んだ。
それを見送っていたマルガは、優しい微笑みを返した。
エレベーターの中へと踵を返したマルガは、気づいてしまった。電光掲示板に表示された予備電源の残量表示はゼロ、すでに尽きている。
ボタンをどれだけ押しても反応しない。どのボタンも、何を押しても反応する事はない。
「中尉、それ以上やっても時間の無駄です」
近くにいた隊員が優しくマルガを諭す。
「クソッ!」
マルガは苛立ちを隠そうともせずに壁を蹴る。その後に一度深呼吸をして首を横に振った。
「中尉、残念ながら……」
「レラジェなら諦めない。何があろうとね」
主電源は吹っ飛んで導線が焼き切れており、頼みの綱だった予備電源は充電も交換もできない。
「外壁から登るのは?」
「不可能です、メンテナンス用の足場は途中から崩壊してます」
「狙撃班は?」
「待機はしてますが、角度があるため三階は狙えません。ヘリを飛ばして狙うことも可能ですが、そもそも揺れるヘリの中から正確に狙撃できるような人材は第二部隊にいません」
「電源確保以外に道は無いわけね」
隊員が無言で首を振った。
「方法が無い、と?」
「無理なものは無理なんです。電源は全部やられて再起不能状態、外部から運び込んだとしても接続できません。それを確認したのは貴女でしょう!?」
マルガは黙っていた。何かを見落としている。
「……とりあえず、人数は集めます。方法までは用意できませんが、出来る限りのことはやります」
「ありがとう」
マルガは立ち去っていった隊員を横目に、タワー内をぐるっと眺める。
何か、方法はある筈だ。確信があるわけでは無い、だがマルガの勘と諦めの悪さがそう告げていた。
緊急用の両口ハンマーが目に入った。
「諦めの悪い男だ」
床に転がったイポスは、もう一度立とうとする。だが、足に力が入らない。通信機は衝撃でやられたのか、時たまノイズを吐くだけだった。
そばに落ちたナイフを拾おうと腕を伸ばすが、その手はサイラスに踏みつけられる。踵でグリグリと踏みにじられ、イポスは苦痛に耐える声を上げた。
「おまけに腑抜けときた。相棒が死んだのがそんなに悲しいか?」
しゃがんで顔を覗き込んできたサイラスの首を、怒りに任せて掴もうと手を伸ばすがひょいと避けられて腕を掴まれる。
サイラスはそのまま、さもハンマー投げをするかの如く、イポスの身体を容易く投げ飛ばす。イポスの身体は床を凄まじい勢いで転がっていき、壁に衝突してようやく止まった。
「……見上げた根性だ、意地の悪さは一級品だな」
ボロボロになったイポスは、それでも立ち上がった。彼の脳裏に写るのは、レラジェの影だ。
「諦めるなんて選択肢は、教わってない」
勝算は無かった。だが、逃げ出しもしなかった。逃げるというのは、レラジェが遺した教えを踏みにじるのと同じだったから。
「今ここでお前から逃げれば、死を受け入れれば、俺の中で
「良い心構えだな。まあ、死に方を選べるほど利口にも思えんが」
サイラスが近づいてくる。イポスは構える、しかし視界は揺れる。
飛んできた右フックに気づいたのは、接触の直前だ。ガードは間に合わない、衝撃を逃せるように脚の力を抜いた。容赦なく下顎を殴られ、三半規管がブレて平衡感覚が消える。反射的に力を込めそうになるのを必死で抑え、床に落ちる。
「……」
意識が消えかかる。
体が動かない、感覚が麻痺してもはや痛みも感じない。
耳鳴り、何も聞こえない。呼吸ができているかわからない。頭が働かない、なにも。いや、なにか見える。
「お前を試してやろう」
見えたのは細長い四角い何か、針が見えた。それが首筋に近づくのが見える。
「お前は選ばれるか?」
細く、冷たく痛みが走った。近づいていたのは注射器だ。
もう抵抗する力なんて残っていない、為されるがままだった。
異変を感じたのは、その直後だ。
「ゔあっ!」
感覚が回復する。いや、普段より鋭敏になる。全身を鋭い痛みが襲い、頭が焼かれるかの如く痛い。心臓の鼓動がうるさい、血液が血管を圧迫するかのようだ。
「初期症状、感覚の過敏化と心拍数・血圧の異常上昇。大半はここで多量の血液を噴き出しながら死ぬ。お前はどうだ?」
眼球が破裂しそうだ。鼻腔の中を血の匂いが充満する。暫くの間のたうちまわると、少し症状が緩和する。
「乗り切ったみたいだな」
身体が動く。立ち上がってナイフを取り出して、サイラスに近づく。余裕の表情のサイラスに刃を突き立て、壁に押し付けた。
「……何を、した!」
「魔鉱粉塵。お前にも分かりやすく言うなら、MODを注射した」
一際強く、鼓動が響いた。全身から力が抜け、その場に崩れ落ちる。
「始まったようだな」
眩暈、耳鳴り、違う。霞んでいるが、見えるのはペンキをばら撒いたような極彩色の世界だ。ノイズ交じりではあるが、聴こえるのはさまざまな人の声だ。
────理解し、干渉して……君たちにしか、任せられない……任せなさい、
聴き馴染みのある声、グロテスクな視界の端々に、今までの記憶が見える。
これは、俺の記憶。いや、違う。知らない、知らない記憶が混じっている。何が起きている?
────勝ち……詰めが……殺して…お前を……あなたは森の中で……
知っている。いや、知らない。
無理やり繋ぎ合わせたかのような世界、幾人もの人間が行き交う。情報量が多すぎる、すでにイポスの脳は焼き切れんばかりの負荷がかかっていた。
────立って……
無理だ、意識が飛ぶ。到底人間に耐えられるようなものじゃない。あらゆる感情を鍋に入れ、煮詰めたものを無理やり流し込まれている気分だ。
多すぎる。
何も見えない、いや全てが見える。
────おね……て……
増え続ける情報量の中に切れ目は見えない。止まったイポスを多くの人々が追い越し、すれ違っていく。
────あなたは……
情報量が、そのまま暴力となってイポスを襲う。
秩序はある、いやない。ノイズのようでそこには意味があり、まるで意味がない。中身のあるコップをひっくり返したかのように、情報は広がり続ける。
────かわ……し……
頬を、何かが撫でた。涙、違う。もっと、優しい何かだ。人の手のような。
イポスを置いていく人だかりの中で、見覚えのある背中が見えた。
────イポス。
知っている、貴女の声を。
────いい腕…行って!……あなたを信頼して……なかなか動……
知っているんだ。いつも見ていたあの背中を、俺よりずっと華奢なくせに、俺よりずっと強くて大きいその後ろ姿を。貴女の背中をいつでも追いかけていたんだ。貴女のために戦うと決めたんだ。
「待ってくれ!」
人混みを掻き分け、突き進んでいく。
手で払い除けた人影が極彩色の欠片となって宙を舞い、その度に記憶が頭に流れ込んで脳が軋む。辿り着くまでにイポスの頭が破裂しそうだ。
「頼む、置いていかないでくれ!」
一向に距離は縮まらない。それでも、イポスは一心不乱に進み続ける。
「貴方を失ったら……!」
彼女の歩みが止まった。
残り数歩、たったそれだけの距離がこんなにももどかしいなんて。
「俺は、何の為に生きればいいんだ!」
肩を掴んだ。
温かくも何ともない、それどころか触れただけで彼女の影はボロボロと崩れていく。ああ、行かないでくれ。
────イポス。
だが、それは振り向いてくれた。
────勝ちではなく、勝利を。
分かっていた、これはレラジェじゃない。ただ、俺の後悔が造り上げた記憶上のレラジェだ。そこにいるのは意思や感情のない、ただの人形。
俺はただ、貴女の生きる理由になりたかったんだ。貴女が、俺に生きる理由をくれたように。
残ったのは、記憶の塵だけだった。もう、何も残っていない。
「行かないで……くれ……」
イポスは力無く、そこに倒れた。もはや動く気力なんて残っていない。すでに世界は色を失って、イポスの意識もまた、消えかかかっていた。
軽やかな足音が近づく。
「やっぱり此処に居たのね」
知っている声だ。
「……私のために立ち続けてくれたのよね」
答える余力はなかった。
「ありがとう、でも……」
イポスの両目を、何かが覆う。
────あなたは生きて、私の可愛い愛弟子。
イポスの肢体はぴくりとも動きはしなかった。どうやら、高強度のマジック・リコイルに耐えれなかったらしい。
「……所詮は凡人か。トーカの読みは外れたな」
初期症状を乗り越えたとて、次に来る第二症状は気合い云々で耐えれるような代物ではない。自分という認識を無理に拡張させられるのは、すなわち他者の意識が入り込んでくるということだ。
それに耐えられるかどうか、すなわち凡であるか非凡であるかは、神のみぞ知る。
少しばかり寂しそうな感情を目に浮かばせ、サイラスは踵を返す。破れた窓に近づき、落ちたマチェーテを拾いながら外から垂れているワイヤーを掴んだ、その時だった。
「どこ行くんだよ」
サイラスが振り向いた。
そこに横たわっているはずのイポスは────立ち上がっていた。思わずサイラスは笑みを浮かべる。
「選ばれたのか!」
嬉々としてサイラスは叫んだ。
「うるせえ」
イポスは拾った二式警棒を縦に振り回す。
じゃらじゃらと鳴る鎖の音が、やがて軋むような、擦れるような音に変わった。次の一撃はかなり重い。
「第二ラウンドだ」
わかっている、それが貴女の答えだという事は。だが、諦めきれないのだ。
サイラスがマチェーテを構え直す。
サイラスが突進してくる、斜めに振り下ろされたマチェーテに二式警棒を当ててて弾いた。
大きく仰け反ったサイラス、隙を逃さず追撃に警棒を大きく横薙ぎに振る。すんでのところで避けられた。
反撃が来る、警棒を左手で掴んで鎖を張る。初撃を受け止めて軋む鎖を絡ませた。
一瞬の硬直、早かったのはイポスだ。鎖を引っ張っていた左腕の力を一瞬緩めて、サイラスの頬に肘打ちを当てる。出っ張った頬骨が砕けた音が響く。サイラスがマチェーテを落として、よろめいた。
「この、クソ野郎が!」
貴女が正しいのだろう、それもわかっている。
それでも、今だけは。
「黙れよバケモン」
鼻血を拭う。
血反吐を吐きながら悶え苦しむサイラスに、左手で中指を突き立てた。
今、この瞬間だけは勝ちに拘る。
コンクリートの壁が揺れる。
ヒビ一つ入らない壁がその分の衝撃をそのまま、ハンマーの持ち手であるマルガの手に伝える。
あまりの衝撃にマルガはその場にハンマーを落としてしまった。
「中尉!」
人を集め終えたらしい先程の隊員がマルガの元へ駆け寄ってくる。
「何をしているのですか!」
痺れた手でマルガはもう一度ハンマーを握る。
「……ここに、主要な電線がある」
「はあ?」
「思い出したのよ、図面をね」
図面に描かれた電線類、エレベーターにどのようにして電気が供給されているか、それらは全てコンクリートの壁の奥に眠っている。
だが、この半円状に盛り上がった壁だけは違う。支柱を先に設置してしまったが為に、それを迂回して電線を通すしかなかった場所だ。
「ここだけは、電線までの距離が浅い。四〇ミリのコンクリートをぶち抜けば電線を露出させられるのよ!」
もう一度、ハンマーを振り上げる。
「中尉!」
「うるさい!」
制止する隊員を振り切ってハンマーを振った。
コンクリート壁にハンマーが当たる。跳ね返ったハンマーは耐えきれず、柄が半ばから折れ飛んでしまった。
取れたハンマーの頭が床を転がった。
「中尉……もう、辞めてください」
マルガは無言で軽くなったハンマーだった物を放り投げて、ナイフを抜いて壁を叩きだした。
「中尉、話を」
制止の声は届かない。
「中尉。どうか」
ひたすらにナイフを振り下ろし続ける。
「マルガレーテ中尉!」
隊員に腕を掴まれて、ようやくマルガは止まった。
「離しなさい」
「冷静になってください! もう、無駄なんです!」
腕を掴んだまま、隊員はマルガと向き合う。
「いくらやったって穴は空きません! もう分かったでしょう!」
「うるさいわね!」
マルガが隊員の手を無理やり振り解いた。
「アイツに……レラジェに、託された最初で最後の忘れ形見なのよ! どうして諦められるのよ!」
隊員はあまりの気迫に気圧されて後ずさってしまう。
「あなたがいくら無駄だと言おうと、例え全員が見捨てても、私は上に行く」
「中尉……」
ガンッ、と鈍い音が響いた。
マルガが振り向くと、そこに居たのはマイクだった。彼は、爆発で吹き飛んだらしい鉄骨を抱えていた。
「あなた、何をして……」
「ここ!」
マルガの言葉を遮ってマイクが叫んだ。
「ここぶっ壊せば、アイツを助けられんだろ!?」
仲間の血で濡れたスーツの脇に抱えている鉄骨は、とてもじゃないが一人で抱えられるようなものでは無かった。
だが、半ば執念のようなものがマイクを駆り立て、鉄骨を掴ませていた。
「バカで色ボケで俺の命を拾ってくれたアイツの、命を救えるんだろ! 仲間の犠牲を、無駄じゃなかったって言えるんだろ!」
マイクは喉が枯れるほどに叫んだ。
「命令よ。ケブラーロープを持ってきて」
「……ついでに人も連れてきますね」
隊員が走っていった。
マルガはマイクにその場で鉄骨を下させて、肩を叩く。
「ありがとう、あなたのお陰よ」
「あんたとアイツがどんな関係なのかは知らねえけど、思いは一緒ってことでいいか?」
「勿論よ、私に任せなさい」
数人の職員とロープを携えて走ってきた隊員が、手際よく鉄骨にロープを結びつけ、全部で六つの結び目と持ち手を作った。
「中尉、穴を開けるのは任せます。私は電源車の方を誘導してきます」
どこかへ走り去った隊員を横目に、マイクたちとタイミングを合わせて鉄骨を持ち上げる。
「行くわよ!」
振り子のように揺れる鉄骨が、掛け声と共に一際大きく振れてコンクリートの壁を叩いた。
「……中尉、ヒビが入ってます!」
壁を確認すれば、僅かではあるが確かに亀裂が走っている。微かな希望に縋るように、鉄骨をもう一度振り上げた。
「せーの!」
甲高い打撃音が、そして小鳥の囀りのような破砕音が響いた。ヒビは枝分かれし、その大きさを増している。
「せーのっ!」
今度は、明確に小さな穴が空いた。折れて尖った鉄骨の先端部が刺さったのだろう。
「せーの……!」
いつしか、掛け声もなくマルガたちの動作は噛み合うようになった。
職員の誘導でタワー内部に入り込んだ電源車のエンジン音を掻き消すように、一定のリズムで破砕音が鳴り響き、穴が着実に拡がっていく。
何度目だろうか、ロープを握る手が痺れ出したところで、光明が見えた。
「穴が空きました!」
直径三センチにも満たない大きさの穴、これをどれだけ待ち侘びていたことか分からない。
「どいてください、拡張します!」
鉄骨を持ったマルガたちを退がらせて、バールを持った数名の職員が穴をほじくり拡張していく。
あまりに長い間、瓦礫を崩す音だけが響いていた。誰も、何も言わないままその作業を見守り続けた。
職員が一際大きい瓦礫を投げ飛ばして、叫んだ。
「配線、見えました!」
歓声が上がった。
人ごみを掻き分けて分厚い手袋やヘルメットを身に着けた電気作業員が穴へと近づき、電源供給のための作業を始める。
マルガはエレベーターを見遣った。
もし、ボタンが押されていたとしたら?
「……形見を託されたのは私よ」
噛み締めるように、マルガは言った。
ドン・キホーテは恐らく、今のイポスと同じ思いだったろう。
目の前に聳え立つコンクリートの塊にも見える男に、妄信を支えに立ち向かって、対等に戦おうというのだから。
「感じているか、選ばれた悦びを!」
肉弾戦となると、やはりキツいものがある。体格差もそうだが、身体中を駆け巡る妙なものが感覚を狂わせている。
泥中で拳を振るっているかの如く、身体が重く自由が効かない。ただ、明らかに身体能力が向上しているのを感じる。それ故に戦いづらい。
これが選ばれた祝福か。
「最悪の気分だよ」
力強く地面を蹴った。二式警棒をブラフに、本命の回転蹴りをサイラスの胸に当てる。
一歩退いたサイラスが、イポスの足を掴んだ。
もう感覚的にわかる、こいつには勝てない。
「身体ってのは、こう使うんだ!」
イポスの身体が宙を舞う。まるで木製バットのように、サイラスがイポスを地面に振り落とした。
視界が、脳が揺れた。
イポスはバスケットボールよろしく地面を幾度か跳ねて窓際でようやく止まる。
背中にかなり大きいガラス片が刺さっているのがわかる。細かい砂利やガラスの粒子が右手に刺さるのもお構いなしに身体を持ち上げる。
剥離、という言葉が恐らく一番適しているだろう。
自分の身体と意識を繋げる何かが切れてしまった、或いは冗長になった、そういう状態だ。
二式警棒の鎖が途中から千切れている。金属疲労が原因か、さすがに無茶をしすぎたのであろう。
「……何故だ?」
リングを指から外し、背中に手をまわした。サイラスが問い詰めるかのようにこちらに歩み寄る。
肩甲骨のそばに刺さったガラス片を素手で掴み、引き抜いて捨てた。小さな破砕音が、覚悟を決めたように響いた。
「何が、お前をそこまで駆り立てる?」
緋色に染まった右手で何を掴もうというのか。痛みはもう、感じない。
サイラスに答えるのでなく、自分に言い聞かせるように叫んだ。
「ただ、彼女を忘れたくないだけだ!」
走った。ただ、仲間を、彼女が遺してくれたものを信じて。
「中尉!」
復旧作業が今にも終わろうとしている。
何を思ったのか、マルガがエレベーターに走っていた。
「イポスを、信じる!」
「何を言ってるんですか!」
制止の声は届いていない。彼女を止めることは出来なさそうだ、ということだけが彼にはわかった。
「なんだ?」
唐突に走り始めたイポスがマテバを拾い上げた。
「何が狙いだ?」
サイラスに発砲しながら、縦横無尽に走り回るイポス。顔を左腕で隠して、サイラスは思考を巡らす。
————弾が切れた時が、イポスの幸運の尽きだ。
懐に隠した最後のナイフを、右手で掴んだ。
「サイラス!」
残り一発のはずだった、もしかすると残弾はもう無いのかもしれない。
イポスが負けを認めたのか、憎き敵の名前を呼んだ。
「もう終わりか?」
腕を顔から退けて、イポスを見た。
イポスはエレベーターの扉の前に立っている。右手にはマテバが握られていて、もう身体を補助なしでは支えられないほどに消耗しきっているようだった。
「最後の賭けだ、決着つけようぜ」
イポスの顔は、覚悟を決めた顔だった。
「貴様、本気で言ってるのか?」
「俺はいつだって本気だ」
マテバのハンマーを起こす。
残り一発、それとも残弾ゼロ。
————理解し、干渉し、操作する。
「勝敗は、パワーだけじゃ決まらない」
「今更、何を言うか」
にじり寄るサイラスに向かって言い放った。
「最後まで冷静にいられる奴が勝つんだ」
マテバのトリガーを引いた。
かちり、と金属音が響く。それだけだった。
「……賭けは、俺の勝ちだな」
口元を緩めて勝ち誇ったように笑ったのは————イポスだ。
その左手は、エレベーターの呼び出しスイッチに伸びていた。エレベーターの扉の上部にある階数表示が煌々と輝いている。
ゴングを響かせるように、モーターの駆動音が轟いた。
「通電しました!」
誰かが叫ぶのと同時に、エレベーター内の電気が点いた。
「マズい、扉が閉まるぞ!」
開け放された扉が閉まり始めている。通電と同時にエレベーターを呼び出す者がいるなんて事を誰が予想できただろう。
「待ってなさい、イポス!」
予想できていた、いやむしろ期待していたと言ったほうが正しいだろう。
マルガはイポスが生きていることを、仲間を信じて助けを求めることを期待していた。
その願いは、実った。
「間に合え!」
走るのに邪魔なサブマシンガンのスリングを外して、丸ごと放る。瓦礫を避ける時間は無い、蹴散らしながら一直線に進んだ。
「行けぇ!」
マルガに誰もが託した。
扉の幅は瞬きのたびに狭くなる。一心不乱に走り続けるほかないことが、苛立ちと無力感を一層際立たせる。
ほんの一秒でいい、時が止まって欲しい。
「私は、レラジェを裏切らない!」
弱音を吐くな、自分を奮い立たせるために叫んだ。
指先が、秋の空気を吸って冷たくなった金属扉に触れた。僅かに残った隙間をこじ開けるように指を滑らせる。
エレベーターの安全装置が働いて、閉鎖が止まる。間に合った、扉をこじ開ける。
後から追いついてきた仲間を制止し、マルガだけが乗り込んだ。
「ここからは、私だけで行く」
「ですが……!」
「心配しないで、それにもう犠牲は出せない」
静かに閉まっていく扉を見つめながら、敬礼を行う。立ち尽くしていた隊員たちが敬礼を返すのが辛うじて、隙間から見えた。
「ミスディレクションとは、小賢しい真似を!」
「引っかかったお前の負けだよ、単細胞」
サイラスの掴みを避けて、懐に潜り込む。すかさず胸部に肘打ち、腕を絡めとって体を強引に引き寄せて膝蹴りを腹部へお見舞いする。
咳き込みながらもイポスを突き飛ばして距離を取ったサイラス、彼を仕留めるためにマテバのシリンダーを開放する。
気が急いた、と思った時はもう遅かった。
差し込む月明かりに反射して初めて、サイラスの右手にあるナイフに気づいた。
「隙を見せたな、バカめ!」
サイラスが右腕を振り上げた。宙を駆けるナイフはイポスの首元めがけて飛んでいく、悠長に再装填などしていられなかった。
咄嗟に左腕で庇ったが、肩までしかない装甲は首も腕も守れない。上腕部に容赦なく刃が突き刺さった。
「クソッ……!」
幸い、血管は傷ついていないようだったが、左腕がうまく動かない。
「結局、勝てない賭けだったようだな。ただのブラフか」
ナイフを抜くべきか否か、そう迷っている間にサイラスがもう目の前にいた。
「どうせ、エレベーターには誰も乗っていないんだろう?」
胸ぐらを掴まれて無理やり立ち上がらされたイポスに、サイラスが問い詰める。
「大方、その無線機はとっくに壊れていて誰にも繋がらないんだろう。その状態でよく勝負に出れたもんだ」
「……それしか策が無かったもんでな」
じりじりとイポスは窓の方へと追いやられていく。
「そうか、たしかにこの状況ならそれが最善の策かもな。だが」
サイラスの語気が強まった。
「幸運は尽きたようだな!」
同時に、裏拳がイポスの右頬を襲う。マテバだけは手放さなかったが、イポスはその場に倒れた。エレベーターの階数表示は、一つ下の階だ。
「まだ……、決めつけるのは早いんじゃねえのか?」
「この期に及んで、まだ幸運を信じるか。諦めろ」
諦めたい気持ちでいっぱいだ。それでも嫌だ、とイポスの心は叫ぶ。希望を捨てたわけじゃない。
「お前と俺は、違う。お前がどれだけ選民思想に浸っていようと、仮にそれが事実であろうとも」
エレベーターが、到着する。軽快なベルが鳴り響いた。
「お前はどこまで行っても、孤独だ。だから、お前と俺は違う」
どれだけ僅かな確率であろうと仲間を信じろ、そう教わったじゃないか。
「こっちだ!」
扉が開いた。
そこには、マルガが彼女の自動拳銃を構えて立っていた。
サイラスは信じられないといった面持ちで、振り返る。博打の勝者はイポス、彼だ。
「小賢しい、勝つのは選ばれたこの俺なのだ!」
サイラスがそう叫ぶのを否定するように、マルガが発砲。
イポスはマテバをホルスターに戻して、左腕に刺さったナイフを抜く。露出する部分を防弾スーツで防ぎながらマルガへにじり寄るサイラスの背中に飛びかかり、ナイフを首元へ突き立てる。
「このっ……!」
すんでのところでイポスのナイフを握った右手は、サイラスの抵抗で止まってしまう。
数秒ほど揉み合いが続いた。マルガの狙いは、サイラスがイポスを振り落とそうと動き回るせいで定まらない。
サイラスの伸ばした手がイポスの首根っこを掴んだ。
イポスの身体を、サイラスが力任せに投げ飛ばす。放物線を描いたイポスはマルガにぶつかる。
「遅えぞ、マルガ!」
「カッコつけたあなたが悪いのよ!」
軽口の応酬、イポスの声は活気を取り戻していた。
「あいつの注意を惹きつけてくれ」
「十秒持つかわからないわよ」
「充分だ」
マルガが跳ね起きた。その手には黒い円筒が握られている。
そのほぼ先端にあるボタンを押し込むと、カシュンという音と共に円筒が伸びる────いわゆる特殊警棒で正式名称は一式警棒だ。
「あんたの相手はこっちよ、筋肉ダルマ!」
飛んでくる右フックを華麗に避け、体を捻って一式警棒を振るう。
イポスはマテバのシリンダーを開け放し、ベストのポケットから四発、ポーチから二発取り出して込める。
「貴様と私では釣り合わん!」
サイラスの顔面を捉えた一式警棒の先端は、彼の左手に握られていた。容赦なく振るわれた彼の右足はマルガの左頬へめり込む。枯れ葉のように軽く宙を舞ったマルガは床へ投げ出された。脳が揺れた、食道を込み上げてくるものを必死に抑える以外に出来ることは、マルガにはない。
静寂を嫌うように、イポスの握ったマテバが火を吹く。鉛の塊を真鍮が覆った九ミリ弾はサイラスの顔を掠める。サイラスの意識が再度、イポスに向く。
「足掻いても無駄だと言っただろう?」
サイラスが笑う。
「地獄行きのチケットは一枚しか持ち合わせてない」
イポスはそう言って立ち上がり、再びマテバを両手で抱えるように構え直す。
「喜べ、チケットは譲ってやる」
サイラスが走り出した。すかさず、イポスは引き金を引く。
一発目は腕に、二発目は肩に、三発目は左脚に。どうしたってサイラスの突進は止まらない。
サイラスとイポスの距離はもはや一歩にも満たないほどに近づいている。
イポスを殺さんとサイラスの右手が伸びてゆく。すんでで彼の腕はマテバに添えられていたイポスの左手がそれを掴み、押し上げる。
サイラスから銃口が見えなくなった。
サイラスは勝利を確信した────銃声、顔の前で交差された両の腕を弾丸が食い破る。月明かりを反射する弾頭の勢いはまだ止まらない、そのままサイラスの喉元を抉った。
徹甲弾をまだ隠し持っていたのか、とサイラスは眼を丸くする。銃口はサイラスの右目を睨んでいた。
残り一発、サイラスは怯んだ。死の恐怖がサイラスの全身を駆け巡り彼の足を竦ませた、その一瞬が勝敗を決する。
マテバが最後とばかりに一際大きい雄叫びをあげた。サイラスが咄嗟に伸ばした左腕を穿ち、銃弾は彼の右眼を捉えた。
血飛沫が上がり、サイラスの体が脱力する。
やがてサイラスの身体は頽れ、動くことは無かった。深く長いため息を鼻から漏らして、遂にマテバを右腿のホルスターへ仕舞う。
「終わった……」
漏れ出た呟きは疲れ切ったものだった。
その『勝ち』は意外にも、味気のないもので達成感などとはかけ離れた疲労感と痛み、そして右眼のない怪物の肢体だけがその場に残されていた。
あまりにも酷な闘いだった。
「イポス、終わったの?」
ふらふらと立ち上がったマルガが口を押さえながらイポスに問いかける。
「ああ。マルガは平気か」
「大丈夫だと思う? 吐き気がまだ引かないのよ、早く降りましょう」
両名とも、足取りは重かった。疲労困憊でもあり、何かに後ろ髪を引かれる気分が足枷となっている。
「終わった、よな」
「知らないわよ」
マルガが吐き捨てた。
「失った以上はもうどうにもならない。結局は遺された人間が納得できる道を探す以外ないのよ」
口元を強く拭ったマルガは、空いた手で今度は左の脇腹を押さえた。どうやら吹き飛ばされた時に打ったらしい。
イポスはエレベーターの扉に手をかけた。まだくぐりはしない、未練か何かが彼を留めている。
「早く下へ行きましょう。無線機ももろに蹴りをくらったから使い物にならないのよ」
月が翳る。転瞬、鋭い痛みがイポスの背中を襲った。
考えるより先にイポスはマルガを押し飛ばす、それと同時にイポスの左腕にガラス片が刺さった。
「イ、ポスッ!」
呂律の回らない、くぐもった叫び声は確かにサイラスのものだった。振り向けば、右眼から涙の如く血を流しながらその両手にはガラス片が握られていた。
一体、何が彼を衝き動かしているのだろうか。
「いい加減諦めなさいよね!」
イポスに押し飛ばされて転んだマルガが同じ姿勢のまま拳銃を抜いた。
銃声の後、サイラスの左肩が僅かに動いて持っていたガラス片が音を立てて落ちていく。サイラスの左眼が異常に鋭さを増した。
「マルガ、来るぞ!」
イポスの背筋を、冷ややかな運命がなぞった。
イポスが叫ぶと同時にサイラスが右足で地面を蹴る。凄まじい速度で迫り来るサイラスに反撃せんとイポスが構えた。
無駄だった。速すぎるサイラスの拳は疲弊しきったイポスでは捉えきれず、鳩尾へクリーンヒット。食道を逆流する何かを感じる暇もなく右足を持たれ、肩を使ってエレベーターとは逆側へへ投げつけられる。打ちつけられたイポスの背骨が悲鳴を上げた。ガラスの欠片が舞う。
マルガは目の前で起きた惨状を、立ち上がりながら見ていた。化物染みた腕力、脚力、体躯、その全てが脳の奥底に眠る本能的な恐怖を呼び起こす。
無いはずの右目がこちらを睨んだような気がして。
「来ないで……!」
滲む視界の中、マルガは必死にサイラスを中央に見据えて引き金を引いた。命中したのか否か、そんなことを確認することもなく、一心不乱に打ち続ける。
スライドが静止する。弾切れ、マガジンキャッチを押し込んで空の弾倉を床に落とす。焦った、マルガがそう思った矢先にサイラスの左拳が鳩尾へとめり込んだ。すかさず追撃の右フックが上顎を殴りつける。床に叩き伏せられたマルガを足で仰向けにさせたサイラスが、鳩尾を右の踵で踏みつける。
全身が痺れて動けないでいたイポスはその光景を眺めるしかなかった。無様に見える彼をサイラスは一瞥し、にたりと気味の悪い笑顔を浮かべる。脳にざらつく手が触れるかの如く、サイラスの邪悪な感情が手に取るようにわかる。
雲が流れ、月明かりがガラスの粒子に反射して部屋中を輝かせる。キラリと何かが光ったことをイポスは見逃さなかった。
切れかかった電球のように視界が白飛びしている。意外にもマルガの頭の中はクリアだった。
一体、自分は何がしたかったのだろう。後悔や罪悪ではない、力及ばず情けなくそこに臥せっている無力感がそんな疑問を投げかけてくる。
親友に、想っていた人に託されたからなんて大義をぶら下げて、結局は一人で突っ走って失敗して。許されたかっただけだ。レラジェをみすみす殺させた、無力で鈍臭い私を許して欲しかった。救われたはずの人間が、今度は許されようだなんて強欲で浅はかだ。
倒れたマルガに馬乗りになり、拳を振り上げるサイラス。
いっそ、殺されてしまえば。貴女と同じ場所へ行けるのなら────瞬間、サイラスの右頬を緋と黒の円筒が殴った。
吹き飛ぶサイラス、マルガの視界に残ったのは返り血と己の血に塗れて立つイポスだった。その手に握られた二式警棒は、レラジェのものだ。
「立て、マルガ」
絞り出すようにイポスは言う。
「それは贖罪にはならない」
駆け出すイポスを、見つめることしかできなかった。
許されたかった。どうしようもないなんてことは、分かっている。それでも、何もできない自分を否定したかった。心をどす黒く染める後悔も罪悪感も無力感も全部全部、取り払いたかったんだ。
「まだ邪魔をするか!」
起き上がったサイラスの顔を容赦なく二式警棒で殴るイポス。彼は何のためにハルやマルガを身を挺して守ったのだろう。
もう、守る理由もなかったはずなのに。
追撃しようとするイポスの足を、サイラスが掴んだ。あらぬ方向へ引かれた足がイポスのバランスを崩して倒れる。
────それは贖罪にはならない。
知っている。どうしたって贖えない。今の私にできることは何もないんだ。
だから。だから、彼女の意思を、形見を護ること以外、私にできることはないんだ。
私はもう、償えないのだから。
銃声、振り翳されたサイラスの拳が静止した。サイラスの視線は、両手で拳銃を真上に構えたマルガへと移る。
間に合った。歯を見せて笑うイポスが、両足でサイラスの首を絡め取って自分の体重ごと横方向へ投げ出す。
コンマ数秒の間、宙を舞ったサイラスが重力で地面に落とされる。反対側へと一回転がったイポスは、その勢いを殺さずに立ち上がった。イポスが僅かに持ち上がったサイラスの頭部を目掛けて二式警棒を振り落とす。
転瞬、サイラスの左手が伸びた。立ち上がったサイラス、その手は振り落とされた二式警棒をしっかりと掴み、その先にいるイポスを引き寄せる。
「それはもう見切った」
口端を吊り上げて笑ったサイラスから逃れようとイポスはもがく。無駄な抵抗であることは側から見ても明らかだった。
サイラスの右手はイポスの戦闘服の襟を、左手は二式警棒ごとイポスの腕を掴む。イポスの靴が地面を離れて背中から落とされてしまう。
追撃しようとするサイラスの視界にマルガが飛び込んでくる。豪速で迫り来るサイラスの右拳を、速度をいなしながらマルガが掴んで捻った。間髪あけずにマルガは右手を伸ばして銃口をサイラスの腹部に押し当てる。
引き金を引く直前で、サイラスはマルガの右腕を空いている左手で払い除けられてしまう。銃声、かすりもしない銃弾は床にめり込み、マルガはそのまま鳩尾へ左ストレートを入れられてしまう。
声にならない悲鳴をあげるマルガを投げ飛ばすサイラス、その視界の端にまたもや月明かりを鈍く反射する緋色の円筒を捉えた。
「もう見切ったと……!」
素早く伸ばした右手が二式警棒を掴む。それは騎手のいない競走馬だ。
単純なパワーで勝敗の決まらない現代の戦闘、その一瞬にとった一挙手一投足が全て命運を分ける。
動揺、サイラスの思考がほんの一瞬だけ停止する。それが、勝敗を決した。
掴んだ二式警棒の鎖の先に居るはずのイポス、実際には誰もいない。慢心から生じた油断。既にイポスは、放った二式警棒をキャッチしたサイラスの懐に潜り込んでいる。
既に、イポスの脳内でイメージは完成している。
腰のベルトと首元をそれぞれ両の手で掴んで両足を地面から離す。イポスの背中が床につく直前、浮いていた足がサイラスの大腿を触れた。
それを、教えてくれたのは。イポスは、闘いに学ぶのだ。
落下、衝突の間際に衝撃をさらに後方へ流しそのままの勢いでサイラスを投げ飛ばす────巴投げだ。
放たれたサイラスはエレベーターの箱の中に、とてつもない音を立てながら首と背中から落下する。
「イポス!」
マルガの声がイポスの鼓膜を揺らす。
その手にあるのは赤いバンドが巻かれたバックパック。
「これを……!」
みなまで言わずともイポスはマルガの意図を汲み取る。放り投げられたバックパックを受け止めてエレベータの方へと駆け出した。
まだサイラスは起き上がっていない、相当な衝撃だったらしい。エレベータの中へバックパックを放り込み、エレベータ内側の操作パネル、その閉鎖ボタンを押し込んだ。
扉が閉まり始める。イポスが腕を引いた、その時だった。
引こうとした右腕に何かが纏わりつく。人の手だ。尋常じゃないその力はサイラスのもので、イポスはそちらを見遣った。
空っぽの右の眼窩がイポスを覗く。口端が吊り上がって血塗れで少し欠けた歯を見せながらニタリと笑ったサイラスを、イポスははっきりと見た。
見てしまった。
懸命に、サイラスの手を振り解こうとイポスは右腕を揺らす。それでもサイラスの手は一向に離れようとしない。
やがて、扉はイポスの腕の幅だけ隙間を空けて止まってしまう。
離れない。先ほど見た悪夢のようなサイラスの笑みが、脳に焼きつく。
時間はもう、なかった。
爆発音、炎、閃光。腕を引くのと同時に起きたそれが網膜を焼く。
扉の僅かな隙間から漏れ出た衝撃波が、イポスは弾き飛ばしてその場に臥せさせた。
「……ポス……イポス……!」
耳鳴りが酷い。微睡みにも近い脱力感と、随分と遠くから聞こえるマルガの声が何も入っていない思考の中で跳ね返る。
瞼が重力に負けるかのように、だんだんと落ちてくる。全身の痛みも、もはや感じない程度には疲弊していた。
最後に視界に映ったマルガに、レラジェを重ねてしまう。
ああ、どうか。このまま、彼女の腕の中で。
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