「ゼロの偽証」 保安局解体命令
ヘキサゴンタワーの地下四階にある四〇四拘束室、リリガル副大臣は軟禁されている。誰もいない、自分の呼吸と鼓動の音しかしない部屋の中で三時間も拘束されているリリガルの精神は、既に限界だった。
紙コップに入った水がもしワインであれば、多少は気晴らしでもできたかもしれない。
他人を顧みず、使えるものは全て使い、ようやく積み上げたキャリア。それが全て、あと数日、ひょっとしたらあと数時間もしないうちに失ってしまう。
水を一息に飲み干して、思い切り机に叩きつける。随分と小さい金属音だけが響いた。
「一体、私は何のために生きてきたのだろうな……」
一人で呟いたその言葉に答える者はいなかった。
────足音。
ジョンたちの尋問が終わってから、初めて聞こえた音だ。
微かな希望を胸に、リリガルは立ち上がる。足音はこの部屋の前で止まった。
『人類に安寧を』
部屋の中に響いた声は、あまりに人間離れしている。恐らく機械で声を変えているのか、あまりにもトーンが低く、ノイズが混じりすぎている。聞き取るのがやっとだ。
「すべての者に平等な世界を」
リリガルがドアの向こうにいる何者かに言葉を返す。この二文は保安局のスローガンの一部だ。だとすれば、この向こうにいるのは保安局の人間か。
『平等な世界とは何だ』
声は問う。
リリガルは答えに詰まる。分からなかったのではない、昔を思い出していたからだ。
当時、環境大臣の補佐官だったリリガルは、第一回テロである国民議場爆破事件に巻き込まれた。
逃げ惑う人々、爆発音が響く度に誰かが悲鳴を上げる。
大臣を逃した直後に、崩れた天井が出口を塞いだ。途方に暮れたリリガルの目の前に落ちてきた手榴弾。
死を覚悟したリリガルを助けてくれたのは、名も知らぬ男だった。
「誰もが安心し、理不尽に命を奪われることのない世界だ」
誰もが平等に死の危機に瀕したあの時、自分ではなく何者でもないリリガルを身を挺して救ってくれた彼の意思に感化されたからこそ、リリガルは保安庁副大臣まで上り詰めたのだ。
リリガルは苦笑いを漏らす。
誰もが笑いながら生きることができる世界を作りたい。どうやら、肝心なことを忘れてしまっていたようだった。
どんな罰でも受けよう、強権的で官僚的な行動ばかりしていた自分を叩き直すにはいい機会だ。
『……それが、貴様の答えか』
「そうだ。長らく、忘れてしまっていたがね」
数秒間、扉の向こうの男は沈黙する。
『残念だよ』
「何がだ?」
『君は間違っている』
重い金属製の扉が開いた。そこにいたのは、全身黒尽くめで顔を不気味なマスクで隠したの大男だ。いや、男かどうかは分からないのだが。
「何が、間違っているというんだ」
一歩、男はこちらに近づく。あまりの圧に気圧され、リリガルは一歩後ずさってしまう。
『お前は分かっていない、全ての凡人は我々に跪くべきだということを』
さらに近づく大男、後退りし続けたリリガルの背中は壁と接触する。
構わず距離を詰めた大男がリリガルの首を掴んだ。
『平等とは、我々が与え、凡人らはそれを享受する』
リリガルの足が地面から離れる。
気道が圧迫され、息ができない。
『感謝し給え、凡人。我々が与えるのは「死」と言う名の平等だ』
死ぬ、そのことが頭をよぎった。必死な抵抗は意味をなさない。
『だが、チャンスは与えてやろう』
意識が落ちる寸前で、拘束が解ける。その場に頽れたリリガルを大男はバイザー越しに見据え、懐からアルミ製のケースを取り出す。
中から出てきたのはシンプルな見た目の注射器だ。容器が金属製なので中身は見えない。
『貴様が凡人であるか、或いは同志なのかを見極めてやろう』
後ろ襟を引かれて無理やり膝立ちにさせられたリリガルの首筋を、金属製の細い針が撫でる。
「……やめっ!」
制止の言葉は届かない。首筋をチクリと灼けるような痛みが襲う。リリガルは声にならない叫びをあげ、針が抜けると同時に床に崩れ落ちた。
『お前に注射したのは魔鉱粉だ。あと数分で貴様の運命が決まる』
リリガルは頭を抱えて叫びながら床にのたうち回る。頭が割れるように痛み、平衡感覚がない。
『我々と同じ進化を遂げるか、死。二つに一つだ、期待しているよ』
資料に目を通す目の前のジョンの緊迫した顔を見守るように、イポスを含めた周りの職員たちが見つめる。
空気は明らかに異様だった。
「にわかには信じがたいが……」
ジョンは資料を背後の部下に渡し、スキャンに行かせる。
当のジョンは、ため息とも深呼吸ともつかない息を漏らして、そこで頭を抱え込んでしまった。
「どう思う?」
「……仮に、お前のいうことが正しかったとしよう」
ジョンは浮かない顔を隠そうとしない。相当、切羽詰まっている証拠だ。しばらくの間、ジョンから続く言葉は出てこなかった。
「正しいとするなら、だ。現時点でジョンの行方が掴めていないのは死活問題じゃないか?」
イポスの言葉に反応したジョンが、顔を上げる。緊迫した表情を張り付けて、その深い碧色の目がイポスの双眸をじっと見つめてくる。
「……仮に正しくなくても、だ」
怒られた後の子供のように、細い声でジョンが答える。
「お前の言う仮説が正しいか正しくないかに関わらず、この凶悪極まりない兵器と実験録を持っているのはブースだ。奴を野放しにするのはあまりに危険だ」
「ジョンの言う通りだ」
会議室の扉をくぐって、開口一番にジョンの言葉を肯定したのは片手に杖をついたエーリッヒだった。
「エーリッヒ、傷は?」
ジョンが立ち上がってエーリッヒに近づく。
身体を支えようとしたジョンの手を大丈夫だ、と払い除けて杖を頼りにイポスに近づいた。
「よくやってくれたな、イポス。期待以上に君は有能だ」
エーリッヒはイポスの顔を穏やかな顔で見つめている。
「
まさしく、鶴の一声だった。
エーリッヒの言葉に従ってそこに居た職員、ジョンも含めた全員が動き始める。
「一体何を?」
イポスは目の前の上官に質問を投げかける。
皆を見ていたエーリッヒは横目でうっすらと笑い、そしてイポスに顔を向けなおしてから答える。
「『シックス・シックス』、武装蜂起による脅威に保安局が関わっていることを示す緊急コードだ」
イポスは首を傾げる。
「すなわち、保安局員全ての武装解除、及び保安局解体命令だ」
なんでもないように答えた。
エーリッヒはジョンに一度目配せした後、扉の外へ向かって歩き出す。着いてこいということだろう。
騒がしい部屋を離れ、エレベータに乗る。
エーリッヒが押したのは、地下四階────尋問室とブリーフィングルームが集中している階だ。
「イポス、凡人と非凡人を分けるのはなんだと思う」
「突然ですね」
動き出したエレベーターの中、エーリッヒが唐突に語りかけてくる。
「ヘキサゴンタワー内で出会ったという男女二人、少し覚えがあってな」
白い人工的な光に照らされたエーリッヒの顔は、僅かに緊迫の色が見えた。流石のエーリッヒでも、あまりに急展開すぎるこの状況では焦るらしい。
「強いて言うなら、心の強さですかね」
「つまり?」
「どれだけ強いフィジカルを持っていようと、どれだけ目や耳が良かろうと、その原動力は全て心です。それを使わんとする勇気や、適切にその能力を活かす冷静さ、論理的思考がなければ宝の持ち腐れです」
エーリッヒが笑った。どうやら満足のいく答えだったようだ。
「実に君らしい言葉だな、イポス。うむ、やはり君は私の期待に応えてくれる」
小気味のいい音が響き、扉が開く。
「いや、期待以上だ。レラジェはいい相棒を拾ったものだな」
エーリッヒにここまで褒めちぎられると照れくさい。背筋がゾワゾワする感覚だ。
「君であれば、この世界を混沌から救ってくれる。期待しておくよ」
「流石に、その期待は身に余ります」
四分の三は謙遜で答える。エーリッヒは上機嫌に笑いながら歩いていく。
数台のプロジェクターとスクリーン、幾つかのモニターが設置されたこの部屋は、ブリーフィングルーム、すなわち作戦の前に大まかな事情と作戦の要旨を説明するための部屋だ。
積極的対テロ未然防止作戦の際などでしか使われず、ヘキサゴンタワー内で勾留室ないし尋問室の次に使うことはない部屋だ。
もちろん、使わない方がいい部屋であることには違いないのだが。
入って暫くはエーリッヒとイポス、それから断続的に出入りしてモニター類が使えるようセッティングしている職員たち以外には誰もいなかった。
数分待ったところで、レラジェが入ってくる。
「あら、酷い怪我だって聞いたけどピンピンしてるわね」
開口一番、レラジェはイポスを見てそんなことを言う。
「レーラ、素直に心配してたって言えばいいじゃない」
背後に控えていた戦闘服姿の女性────レラジェ直属の部隊「タンタロス」副長、マルガレーテ大尉だ。
「ちょっとマルガ!」
「良いじゃない、レーラは仕事一筋でその手の話が少ないから心配してたのよ?」
キャイキャイと楽しそうに騒ぐ二人は、部下と上官という関係でもあり、同時に良き友人同士でもある。
スペクターの実働部門は、男女比率にほぼ差がない。複雑で小規模化した現代戦は、兵士としての優秀さを
もちろん銃や物を持つための筋力は必要だが、それと同時に瞬間的に命のやり取りが行われる市街戦には高い反射神経やストレス耐性も必要だ。
その点、あらゆる面においてマルガレーテは非常に優秀な兵士だ。冷静に戦局を分析し、レラジェの任務へ的確なサポートを行う。どうやら、それは私生活でも変わらないらしい。
「心地の良い騒がしさだな」
エーリッヒが穏やかな顔でそんなことを言う。
「お待たせ致しました、中将」
「うむ、ご苦労だった」
恭しく礼をして、そそくさと近くの席に座るマルガレーテ。結局、二人の戯れは反論できなくなったレラジェの敗北という形で幕を閉じた。
耳まで赤くした顔を手で覆い、部屋の隅でうずくまるレラジェの前を、心底不思議そうな顔をしながら職員たちが通り過ぎていく。
茹で上がったレラジェが腕の隙間からイポスを眺め、それと目が合うとまたその細い腕で綺麗な紅い眼を隠してしまった。
「ここにいる選ばれた数名は、第二部隊でも屈指の腕利きだ。そんな君らにしか頼めない任務だ」
全ての職員が出ていき、最後に任務を終えて戻ってきたニコラとジョンがこの部屋に入ってきた。神妙な面持ちで話し始めたエーリッヒの声色は真剣で、部屋の中を緊張が走る。
「イポスが持ち帰った文書の内容は、皆聞いたと思う。あれの内容についてだ」
ジョンが立ち上がり、エーリッヒと交代する。
小型のリモコンをプロジェクターに向けて操作し、スクリーンにスキャンされた文書が映し出される。
「写真などには検閲をかけたから安心して欲しい。これらの非人道的実験が行われた場所は、背景などから察するに屋内で行われている。輝度や影を考慮したシミュレーションでは恐らくどこかの地下か密閉された空間だと推測される」
被験者の身体にモザイクがかかって、その背景にフォーカスが合う。
確かに白を基調としたシンプルすぎる部屋は、人工的な光で満たされている。
「場所は特定できないが、被験者の方の特定はできた。四年前の誘拐・失踪事件の被害者たちだ」
ジョンが目を落とす。
「あのゴシップ誌も馬鹿にならないな」
ボソッと呟いたイポスもまた、視線を落とす。
一般人がテロ組織に、まるで泥人形のように扱われている。落胆や憤りすらも超えた感情だ。
「場所は、確実ではないが保安局が世界各所に保有する建造物のうち一つだろう。これからその全てにスペクターの総力を挙げて強襲をかける」
先程のエーリッヒの命令だ。
「目的は、緊急コードの発令に従って保安局員全ての武装解除、そして囚われている被験者らの発見だ」
唇を強く噛む。ジョンが救出や保護ではなく、発見という言葉を使った。それはすなわち、生死は定かでないということだ。
「前置きはその程度にしておけ、ジョン」
「ああ、ここからが本題だ」
ジョンの顔が少し翳った。
「現状確保している文書の最終ページには、これらの凄惨な死をもたらしたマジック・リコイルを意図的に引き起こす兵器の存在が示唆されていた」
スライドが三次元映像に切り替わる。画面上に現れた箱状のそれはゆっくりと回転している。
「識別名、『
映像上のそれの外殻が半透明になり、内部構造が顕になる。
「内部には最大四キログラム相当の魔鉱石が収められており、まず一つ目の装薬が炸裂。衝撃波によって魔鉱石を粉砕し、粉塵化させる。それらは二度目の爆発によりさらに粉砕され周囲へ飛散。この二度の爆発で魔鉱石は形状崩壊により魔力を放出し、周辺にマジック・リコイルを引き起こすものと予測される」
爆発のプロセスが詳細に再現された映像の最後、人型のシルエットに赤いばつ印が重なる。
「資料や大きさなどから推測される構造だ。従来の爆弾と同じく、高度が高いほど影響範囲も大きくなるものと推測され、影響範囲は未知数。だが、これらが間違いであるという可能性は十二分にある。さらに、高い等級のマジック・リコイルがどのような影響をもたらすかは……残念ながら同じ文書で証明されてしまった」
これまで不透明だったマジック・リコイルのレベル四以降の症状がズラリと並ぶスライドに切り替わる。
「明確な境界線は示されていないが、五等級以上の反動症状に曝された場合、急激に細胞を剥離させ始め死に至らしめる」
「ま、要するに爆破させなきゃいいんでしょ?」
マルガが言った。レラジェやイポスも同意するように頷く。
「そう単純な話でもないんだ」
スライドに再び、爆弾のモデルが映る。次いで、爆弾を中心に円が描画される。
「形状崩壊の際に魔鉱石は強い魔力を放出する。だが、魔鉱石は常に魔力を放出しているんだ。理由は聞かないでくれ、まだ分かっていないんだ」
魔鉱石────魔力を常に放出し続ける鉱石。通常の岩石のような見た目でありながら純結晶と呼ばれる宝石が僅かに碧く煌めく。
「仮にこの爆弾が地上から十五メートル程度高い位置に設置されていれば、この魔鉱石のせいで周辺五メートル弱はレベル三程度のマジック・リコイルを引き起こしかねん。よって近づけるのは……」
「私とイポスしかいないわけね」
レラジェが無表情でジョンの言葉を繋ぐ。
爆弾というのは地表スレスレよりもある程度高い位置で爆発した方が影響範囲が大きい。仮で置かれた十五メートルよりもさらに高い場所にあれば、恐らくは近づける範囲も少なくなっていく。
「ああ、そうなる」
マジック・リコイルへの耐性の度合いは個人差が激しい。多くの人間はレベル三相当の反動症状を患えば、双極性障害や反動性自閉症候群と呼ばれる精神障害を抱えて一生涯を生きていかなければならないと言われる。
場合によっては短期記憶障害や離人症、それらに伴った強い自傷・自殺衝動に悩まされることだってある。
「君らにはかなりの無理を強いることになる。心苦しいが……」
「他のやつを行かせて無闇に犠牲者を増やすよりかはマシだ。気にしないでくれ」
イポスが言う。
マジック・リコイルへの一定程度の耐性があるのは、第二部隊に限って言えばレラジェとイポス、それから戦闘能力のない研究部門の職員に三人程度いるだけだ。
どの程度なら反動症状が出ないのか、どの程度重篤化するのかなどの不安要素は多くある。その上で、ジョンはイポスたちにしか頼めないと語った。
「出来るなら、ドローン等で回収、解体する。だがその望みは薄いことを理解してくれ」
ジョンが一つ、ため息を吐いた。
「試作段階だが魔力計も導入して大規模な捜索を開始する。マルガとニコラには部隊を率いてブースと爆弾の捜索を、イポスとレラジェは爆弾回収のためにここに残ってくれ」
「リリガルは何か知らないのか」
「それも並行して行うさ」
そこまで言うと、扉がノックされた。
「ブリーフィング中に失礼します、パターソン大佐。緊急です」
入ってきたのは白衣を着た研究部門の職員だ。口調こそ落ち着いているようだが、瞳孔や手の震え、頬を伝う汗を見る限りでは相当焦っているようだった。
「どうした」
一瞬、言い淀んだ彼をジョンは急かすように目を合わせる。
「……リリガル副大臣が、死亡しました」
「むごいな」
地下四階、四〇四拘束室の中に、所狭しと人がごった返していた。
入り口に面する壁に死体がもたれかかっている。その目、鼻、口からは血がいまだに溢れており、足元には血だまりがまだ広がり続けている。
「死因は?」
イポスの目の前にいる研究部門の職員に聞く。
「まだ詳しいことは分かりませんが、成分を調べた限りでは、脳組織と血液が混じり合ったものが鼻や目から溢れているようです」
イポスはちらとレラジェを見る。彼女は浅く頷いた。
「わかった。少し死体を見せてくれるか」
「わかりました。手袋を持ってきます」
「私のもお願い」
横からレラジェが自分の分の手袋を頼んだところで彼は走り去っていく。
居なくなったことを確認してから、イポスとレラジェは頭だけを近づけ、周りに聞こえない声量で会話を始める。
「爆弾の場所を知る唯一の手がかりが消えたわね」
「死に方は一致しますね」
レラジェがまじまじと死体の方を眺める。
「……こうはなりたくないわね」
「全くです」
そこまで話したところで先ほどの職員とジョンが戻ってくる。
「監視カメラを確認した」
職員がイポスとレラジェに手袋を渡し、そそくさと検分のために死体に群がる人混みへ戻っていく。
ジョンは額の汗を拭いながら言う。
「この部屋に近づいた人間は誰一人としていない。今から三十分ほど前に唐突にドアが開放されたことは分かっているんだがな」
「そこのカメラは?」
イポスが指差す天井には、黒い半球状のカメラがある。
「そのカメラは先週から動作不良を起こして運用を停止していたんだ」
「なら何故この部屋に?」
「手違いだ。問題のない部屋が運用停止に登録されていた。ほぼ使うことのない部屋だったから誰も気付かなかったんだろう」
ジョンがため息を漏らす。彼が話す横で、レラジェが他の職員たちと共に死体の見聞をしていた。
「そういえばエーリッヒは?」
「ついさっき第一部隊の連中が迎えにきたよ。あれでも
肩をすくめてみせるジョンを、イポスは興味なさそうに眺めた。
「イポス、ジョン。見て」
彼女に呼ばれ、二人が死体のそばへと近寄る。死体の頭をレラジェが傾け、首筋の斑点が露わになる。
「注射痕よ」
「……ヤクか?」
ジョンが冗談混じりに言う。
「このタイミングでこの死因よ?」
「はあ、だろうな。魔力計を持ってこよう」
ジョンが部屋を出るのと同じくして、イポスがレラジェの近くで屈み、死体を観察する。
死に方はあの資料の写真と同じだ。落ち窪んだ眼窩から流れ出る血液が頬を曲がりくねりながら流れ、冷たいコンクリート製の床に滴る。
「ん?」
頬を撫でる赤い筋が、向かって左側に歪んでいることに気づいた。
「少し手伝ってくれ」
周りの職員たちに呼びかけ、死体を少し動かす。その血が物語る、想像を絶するような痛みと、それに耐えながらの彼の行動。
彼は振り向いたのだ、そして何かを隠した。
その背中に隠れていたのは。
「どうやら、彼にも正義の心は残っていたらしいわね」
掠れた血文字だ、『“それ”は、二十二時に爆発する』とだけ書かれたそれがリリガルの遺言だということはすぐにわかった。
「手がかり、一つ目ですね」
十五時になった腕時計を見ながら、イポスは呟くのだった。
血文字の筆跡がリリガルのものと一致し、魔力計にも反応があった。
リリガルはマジック・リコイルによって死亡したことがわかり、爆弾へと一歩近づいた。
「とはいえ」
近づきはしたのだが。
「場所が分かったわけではないのよね」
ヘキサゴンタワー五十三階のラウンジは職員たちの為に開放されている。高級感のあるラウンジは壁面のほとんどがガラスになっており、首都全体を一望しながら昼はコーヒーや紅茶を、夜はアルコール類を楽しむことができる。
「回収と無力化含め、どんなに短く見積もっても一時間はかかると考えると、発見までのタイムリミットは二十一時ですかね」
「残り、六時間もないってわけね」
レラジェがアメリカンコーヒーを啜りながら言う。対するイポスも、食べ損ねた遅めの昼食にチキンソテーを食べながら会話する。西側の窓に面したソファ席を陣取る二人が外を眺めた。
僅かな雲間から差していた光が、見る間に薄くなっていく。
「砂漠から一粒のダイヤを探すようなもんです、人海戦術以外にとる選択肢が無いのはもどかしいですが」
「……クエーカーが何を考えているのかなんてわかりっこないわね」
レラジェがソーサーにカップを戻し、ぐったりと背もたれに首をもたげて言った。
「第一部隊にいた時に見た彼は、機械みたいだった」
レラジェの過去を、イポスは黙って聞く。
「部下が死ぬのも、一般人に犠牲が出るのも、仕事の結果だと言って何か気にするような気配すら見せずに淡々と指示を出してた」
「冷酷だった、と? それでは最終的に信用を無くしそうですけど」
レラジェがイポスの両目をじっと見て、少し微笑む。
「みんな知ってたのよ。彼が人より情に厚く、敵だろうと味方だろうとその命が失われることに人知れず涙を流す人だって」
レラジェが昔を思い出すように笑いながら、話を続ける。
「一度だけ、部隊総出で呑みに行った時なんだけど、彼をベロベロに酔っ払わせた馬鹿がいたのよ。そしたら、酔い潰れる直前にブースが言うのよ。『誰も死なないでくれ、俺は一人になりたくない』ってね」
「それは……また、どうして彼がクリークゾフツなんかに」
「どうして、でしょうね」
寂しさと慈悲を混ぜたようなその瞳に、揺れるコーヒーの水面が映った。
「四回目のテロの後、ブースは様子がおかしくなった。打算的で、感情的な彼だからこそ、犠牲者の数に耐えられなかったのかもしれない」
「優しいが故に、ですか」
「そういうことね」
レラジェが指を組んで持ち上げ、身体を伸ばす。
「でも、道を外したことは事実よ。大勢の命を脅かすテロリスト、それを仕事や使命と割り切れば、本気で全員を殺しにかかるでしょうね」
「厄介な敵ですね」
なるべく多くの人間を、二十二時に。平和記念祭の近づく首都は、絶好のチャンスだったろう。
食事を終えたイポスが食器を置き、ちょうどレラジェのコーヒーも飲み終わったところだったらしい。ウェイトレスが食器を回収しにきたころ、レラジェが肩を揉みながら言う。
「似合わない昔話のせいで肩が凝ってきちゃったわ。一服吸おうかしら」
「ここは禁煙ですよ、レラジェ少佐」
ウェイトレスの言葉にぎくりと強張ったレラジェを見かねたように、ウェイトレスは喫煙室の方を指で差し、食器を片付けて戻っていった。
「はあ、少し席を外すわね」
レラジェが胸ポケットから煙草のケースを取り出して立ち上がる。
その後に身体中のポケットを叩いて不思議そうな顔を浮かべるものだから、イポスが笑って口を挟む。
「ライター失くしたんじゃなかったんですか?」
「そうだったわね、貸してくれない?」
「しょうがないですね」
わざとらしくため息を吐いて、イポスが自分の胸ポケットを漁る。
指にまとわりつく金属の冷たさと、紙の感触。それらをまとめて取り出したイポスの脳裏に、先ほどのブリーフィングが、リリガルの死体が浮かぶ。
「レラジェ!」
散らばったライターと二枚の雑誌の紙きれ。
視界にはっきりと映り込んだそれに、窓の外を見ずには居られなかった。
「爆弾は……!」
首都の中央に屹立するそれ────ルシッフルタワーに、ある。
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