#6-1 彼女の正体、彼の本質(後編)
「そうだ。純也さん、これ」
ある日の事、華菜はそう言うと何かを純也に渡した。
「これは……?」
純也の手に渡されたのは箱に入った紺色のネクタイ。
「似合うかなと思って買ってみたんだけど……どうかしら?」
「……いいじゃんこれ。付けていくよ明日」
「そう。良かったわ」
華菜は笑みで返した。その日から純也は華菜の送ったネクタイを付けるようになった。
それから次の日、純也はまた華菜に帰りが遅くなることを告げた。
「今日も帰り遅いって……もうこれで十回目よ?」
華菜はため息を吐いて送られてきたメッセージに目を通した。そして時計に視線をやると午後三時を指していた。
「忙しいのはしょうがないし私は耐えられるけど……翔大丈夫かしら?」
翔の事をいの一番に心配した。また父さんが帰ってこなくて嫌にならないか。それが気になった。
しかし華菜の不安は杞憂だった。
「いいもん!おかあさんがいるからへいき!!」
父さんの帰りが遅いことを伝えた時、元気に笑顔で返ってきた翔のその言葉は華菜の心の不安を吹き飛ばし、彼女を安心させて見せた。自然に微笑んだ彼女は愛くるしさをもその中に覚える。
「翔……本当にいい子ね」
ぎゅっと抱きしめて彼の頭を撫でる。小さな彼のぬくもりを感じながら華菜は笑みを浮かべる。
「大丈夫よ。今度こそ貴方は幸せな家庭の元で育つから」
それは無意識に自分にも向けて言っていた。かつての束縛ありきの教育を受けていた自分にも。そうするのには理由があってかつての自分が受けた傷をこの過程で一緒に自分も成長することで癒そうとする彼女の狙いが意識しないうちにあったのだ。
「さ、ご飯の準備しなくちゃ。から揚げ用意してあげる」
「わーいやったー!」
元気な声にまた彼女はまた癒しを覚えた。
だがそれから数日後、華菜の心に疑念の風が吹いた。
「え?もう帰った?それもスマートフォンを忘れて?」
時刻は夕日の落ちた午後六時の平日。彼女は純也の帰りがまた遅くなるだろうかと思い確認の電話を取った。しかし出てきたのは会社の人間でどうやら純也はすでに返ったと告げられる。それも自分のスマートフォンを忘れただけでなく――
「午後休暇?じゃあ正午にはもう退社したってことですよね?」
「ええ。そうですね」
純也の彼女は目を細くした。
「どうしたのかしら。時間からしてもう家に帰ってもおかしくないはず」
時計に見る。そして会社から家までの通勤時間から逆算してもやはり返っていないということを確認すると彼女は頭の中で純也のことについて思い返す。
――単純にスケジュールを伝え間違えたのかしら?それとも一人になりたいとか?最近かまってばかりだから?それともまだ……していないから?」
夫婦になってから二人はまだ行為にすら至ってなかった。それは単に純也が日々疲れているからという理由もあったが華菜自身が上手く誘えずにいた。華菜にはそうした経験がなく所謂『処女』であった。
「どうしよう……これって」
電話を切ってしばらくして彼女は考え込む。そして一つの決断をする。
「うーん……やっぱり尾行してみようかしら。この力を久しぶりに使って」
そういうと彼女は手から蒼い炎を噴き出させる。
イァーツォ・ルースァ。青の炎により自らの存在を消し去る炎。
(これなら気づかれることなく純也君を監視できるわよね?もしかしたら何か悪い人に狙われているのかもしれないし助けられるかも――)
洗面所に向かって自分の姿が鏡に映らない事を確認すると華菜は笑みを浮かべた。純粋な笑みを。 やがてその行いが彼女に驚愕の事実を与えることを知らずに。
しばらくして純也が夜遅くなる日を聞き、その日は翔を近所のママ友に預け、自分は純也の尾行を始めた。時刻は午後五時。彼の退社時間である。
そして彼は会社を時刻通りに出た。いや、出て見せたのだ。
(どういうことかしら……?)
笑顔で出てきた彼の顔をみて不安が増す。それでも彼の身に何か良くないことがあるんだろうと思って彼女は追跡を続ける。誰にも気づかれる事もなく。
そして数十分後。電車を乗り換え、家から遠く離れた駅で彼は下りた。
「どこかしらここ……?」
下りた場所の駅名には彼女には何一つ心当たりはなかった。
やがて追跡されている純也は一つの建物に入っていく。
(ここは――)
そこは駅から離れた場所にあった大きな家だった。どのくらいの大きさかというと周囲の一戸建てを縦に二つ並べたほどの大きさで二階建て。加えてガレージも付いていた。
(誰かに会いに来たのかしら?それも少し前からってこと?)
そんな風に至高を張り巡らせている時、嫌な予感が走る。
(……まさか……浮気?)
脳裏に走ったその単語。その時、彼女は確かに震えていた。
(だって翔がいるのよ?それはありえないわ!?でも……)
不安だった。彼女はその家に恐る恐る近づく。
(違うわよね?純也君――)
荒れる呼吸音と共に彼女はその家のドアを嫉妬魔人(ジェラフィエンド)の能力を使って通り抜ける。
(……え?)
吉良島華菜の瞳に映ったのは吉良島純也が女性と抱き合っている光景だった。女性の方は下着が見えるほどに着ていたワイシャツをはだけさせていた。そんな彼女と純也は互いに両手を回して唇を重ね合わせている。
「も~遅い~。ヒメを待たせないでよー」
「ごめんごめん。遅かったね」
自らを姫と言った女性の名前は黒相姫香(くろあいひめか)。彼女はどこか抜けた感じで頬を染めて大きな声で吉良島純也の到着を喜んでいた。よく見ると女性の方は右手にワイングラスを持っている。先ほどまでお酒を飲んでいたようだ。
二人は玄関から上がるとそのままリビングに入る。リビングに置かれたテーブルの上にあるもう一つのグラスにワインを注ぐ。ジャケットを椅子の背もたれに掛けると今度はその上に締めていた華菜からもらったネクタイを放り投げる。
「昔からジュンヤってそうだよね~。遅刻癖というかさ。いっつもそう。姫を心配させてさー」
「ああ、ごめんごめん。姫香ちゃん。今日は出来る限りいるから」
「えー?何時ぞやみたいにお泊りしてよー!」
「うーん……今は無理かな。会社もそんな忙しくないから言い訳できなくてさ」
「忙しくないとだめ?」
「まあね。最近はちょっと調べればわかっちゃうから」
「どうして彼女を迎えて入れたのよ?おかしいじゃん」
「ああ、翔がいるからね。まずはそっちを――」
「え?あの可哀そうな子まだいるの!?てっきりどこかに預けたのかと思ってた!」
大きな声で翔への反応を示す。ワインを飲む手を緩めることなく純也は話をする。
「だって……出来ちゃった子だし。それに頼れる親戚ってのがいなくてさ」
「いやいやだってあれってさ。多分ゴムに穴開けられてたよ絶対!!そうじゃないとおかしいって」
「多分そうだね。でないとおかしいよ」
「ていうか美沙から聞いたし」
姫香は彼に続いてワインとつまみのチーズを口に運ぶ。
「え?マジ?」
「まじまじ。既成事実作るとかでさ。それで持ってきたゴムにこっそり開けてたらしいよ」
「そんなに俺との間に子供ほしかったのかな?」
「資産目当て」
姫香は冷静になって純也の疑問について言葉を返す。
「ですよね。生きてたおやじにこっぴどく怒られたわ。そのまま親父死んじまって遺産入ってお金だけが増えたよ」
「でもさー純也。ちょっと気になったんだけど」
「なに?」
「家政婦とかいるじゃん。それ雇わなかったの?」
「それ考えてたんだけど美沙に反対されたよ。っていうか押し切って雇ったら家政婦に美沙が嫌がらせしてきてさ。美人だったから思わず手を出しかけたのは悪かったけど」
「純也のせいじゃんそれ!!」
ギャハハと品のない笑い声を上げる姫香。一方で純也はため息をこぼす。
「でもいい『引き取り先』が見つかったよ」
「あ、美沙死んじゃったんだっけ?そういや。で、その前に言ってた女って誰?」
「華菜の事?優しい人だよ」
「それは聞いたわよ。疑いなく貴方をここに来させるようなマネさせてる女だからさぞ『優しい女』なんでしょうね!!アハハ!!」
「仕事熱心で子供好きで翔を引き取って貰うにはいいかなって。離婚とかの書類はまとめておくさ」
「でもさ、わざわざ再婚する理由ある?」
「まあ確かに。養子縁組とかあるけどさ。それだと翔に悪いからさ。少しだけ家族でいて……それから別れて上げようって思ったんだ。それなら翔にもいいかなって」
「へー?よくわかんないけどいいじゃんそれで!!その女と別れてよ!!きっと互いに幸せだよその方が!」
「ああ。そしたらさ――」
その時の純也の微笑みは純粋だった。何をしようとしているのかにもかかわらず。
「あ、ところでさ……そろそろ……しよ?」
頬を染めて姫香は向かいに座っている彼の手を握って合図をする。そして純也は手を握り返す。
「しようか。そろそろ」
そう返してみせた。二人が立ち上がって互いに寄り添ったその時――
「……どういうことよ」
「え!?」
二人きりのその場の空間に現れたのは目を虚ろにして呆然としてつぶやく吉良島華菜の姿がいつの間にかに現れていた。後ずさる彼の足は落ちていた紺色のネクタイを踏んでいた。
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