#5-3

――お前には勉強しかないんだから父さんの言うとおりにしていればいいんだ!!


――貴方は留守番です。当たり前でしょ?これからが大事な時期なんだから


――てめぇ!!気安くアタシの純也に近づいてんじゃねえよ!!


――アハハ!!良いザマよあんた!!ねえみんな!!


(……あら?)


 不意に目を覚ます。そこは公民館の広間で辺りにはもう人はおらず、彼女はそこに設置された椅子にもたれかかるようにして眠っていた。どうやら彼女は町内会の次のイベントで使う場所取りと必要な物品の整理をパソコンでしていた途中で眠っていたらしい。


「あらいけない。私としたことが……」


 はっとして椅子の前に置かれたテーブルの上にあるノートパソコンの電源を切ると彼女はそれを素早くカバンにしまってその場所を後にした。


(それにしても嫌な夢見たわね……こぞって私を馬鹿にして――)


 逢埼華菜の周りには必ず何か敵がいた。それが逢埼華菜の人生だった。傷ついても倒れることなく歩いてこれたのは彼女の持ち前の精神力とその先にいた想い人、吉良島純也。彼と一緒に笑いたいという一心で彼女は努力し、耐えてきた。悪女である笹山美沙の嫌がらせに。


(ホント、神様が来てなかったら今頃どうなってたやら……)


 やがて逢埼華菜の元に嫉妬の神は降臨し、彼女に復讐の機会を授けた。結果として笹山美沙とその仲間たちは全員死亡。そして吉良島純也と翔の二人を夫と息子とし、彼女は妻となって彼らと家族となった。

 それが恐らく彼女にとっての人生最後の絶頂期だったのだろう。


「えーっと買い物は……今日はしなくていいわよね?」


 公民館を出て不意に夕飯が脳裏に浮かんだ。同時に不安が走る。


「もう年なのかしら。そんなことも覚えていないなんて」


 やれやれと肩をすくめた。やがてスーパーの近くを通りかかったときにスープの準備などをしていたことを思い出し、そのまま家に帰ることにする。


(あ、何か追加でお惣菜を買っていったほうがいいかしら?最近の翔、本当に頑張ってるから)


 電話で翔に連絡をするその時の華菜はとてもウキウキしていた。

 彼女にとって翔の成長というのは今の彼女にとっての楽しみでもあった。大切な人の息子の成長というのもある。だけど逢埼華菜にとってそれは大事なもので例え彼女と翔に実質的な血のつながりがなくとも彼女にとって翔とはまぎれもない息子なのだ。


(……あれ?繋がらない?)


 電話が届くことはなかった。時刻は午後五時を過ぎてまもなく六時に差し掛かっていた。


(どういうことかしら?まだ家に帰っていないとか?でも今日はどこかに出かけるなんて聞いてないし……)


 彼女の心音が早くなり、胸中に不安が走り出す。


「ままー!まってー!」


 その不安を払ったのは無邪気な声。声の主のいる方を向くとそこには小さな男の子と母親らしき人物が一緒にスーパーから出てくる。


「ほら、早くいくわよ?今日はパパと一緒にご飯を食べるんでしょ?」


「うん!」


 子供はにこやかな母親に手を引かれて笑顔のままその場を去っていった。


(そういえば翔にもあんな頃があったわね。懐かしいわ……)


 その光景に先ほどまでざわついていた彼女はいつの間にかほっとした気持ちでいた。


(パパ……か。そろそろ会わせてもいいかしら?もう十年も教育したんですもの――)


 口元がニヤリと歪んだ。彼女は足を家に向けて歩き出した。

 十数分後、彼女は家の玄関のドア前に着くとそのままドアを開けた。


(あら?開いてる?)


 抵抗なくドアは開いて見せた。首を傾げながら家に入る。


(ということは帰っているのかしら?それとも家にいて寝ているだけ?)


 不思議に思いながら彼女はリビングに入る。


「翔―?ねて――」


 彼女の足が止まった。


「……うそ?」


 彼女の眼前には仰向けに倒れ、開いた目で虚空を見てその周囲に血を飛び散らせていた吉良島翔の変わり果てた姿がそこにあった。


「あ……あぁ……うそでしょ……かける?」


 その場に力なくへたれこみ、恐る恐るその遺体に手を触れる。冷たい感触が手を通して伝わると悲鳴を上げて彼女は後ずさる。


「けっ。そうなると思ったよ」


「……なんでここにいるの?貴方?」


 座り込んでいた彼女が見上げたその先には吉良島純也がいた。その服を血で染めて。






 十年前。逢埼華菜が吉良島純也と手続きをして夫婦になって吉良島翔の母となって数か月後。彼女は吉良島家に移り住んで新生活を始めていた。昼は仕事の傍らで家事を行い、夜には家族三人分の食事を作っては息子と夫に振舞って見せた。


「うん……相変わらず美味い」


「うん。うまーい!!」


 純也はその味に舌鼓を打ち、幼い翔は元気な声をリビングに響かせる。その場にいた華菜ははにかんで翔の食事をする姿を見守っていた。


「今日は結構上手くできたから。特にこのミルフィーユとかね」


「本当よく手間かかりそうなの作れるね」


「コツさえつかめれば簡単よ?今度一緒に作る?」


「つくるーー!!」


「ああ、俺はいいよ。なんか邪魔になりそうだし」


「そんなことないわ」


 華菜は幸せだった。想い人とその息子と一緒にいられることに。その二人に尽くせることに。例え夫が過去に別の人と恋愛をしていても、息子とは血のつながりがなくとも。

 夕食後、華菜は息子の風呂を済ませると彼を眠りにつかせ、自身は明日の献立の準備や仕事の必要な資料をリビングの食卓の上でまとめていた。そこに純也が近づいてくる。


「すごいよね。華菜って」


「え!?あ、そう!?」


 ひどく彼女は動転した。『華菜』と親しみを込めて呼ばれたから。頬を染めながら彼女は目の前の作業に必死になろうとする。そこに純也が距離を詰めてきた。背中から両手を回して。


「……ああでも今は」


「え?」


 それから先にしようとした行いに妄想が走ると華菜は更に頬を染める。息が荒くなった。


「え……えっと」


 華菜にとってその先は未知ではあった。夫婦になった以上、そうした経験も必要なのは確かでそれも想い人なら尚のことパニックになりかける。


「きょ、今日なら――」


「あ!今日って何日!?」


「え?えっと……」


 日付を純也に伝えると彼は『しまった』という顔をして慌ててスマートフォンを取り出してどこかにメールを入れる。


「どうしたの?何か大事な用事でもあった?」


「ん?ああ、ちょっとね――」


 そう言うと彼は二階の自室に上がろうと彼女に背を向けて立ち去ろうとする。


「翔の事、本当に感謝してるよ」


「え?ああ、良いのよ!だってかわいいじゃない!」


 高く大きな声で華菜は了承する。パニックはまだ抜けてなかった。

 そして純也の言葉の隠された意味をこの時彼女は理解できていなかった。

 それから数日後、純也の帰りが遅くなる日が増えてくる時期があった。


――実は仕事が忙しい時期に入りそうで……それで帰りが遅くなる日が多くなるんだ。翔の事、相も変わらずだけど頼んでいいかな?


 その言葉通りで彼が家に帰る時間は遅くなった。吉良島純也が努めている会社は華菜が最後に聞いた話では成績が良い社員で評判も良く仕事を多く回されるのだという。


「うん、それなら仕方ないわね。頑張ってほしいわね」


 会社に電話をした華菜はしょんぼりとしながらも純也の背中を押すように声を出した。


「でも純也さん、どうしてお金あるのに働くのかしら?やっぱり将来が不安だから?」

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