#4-3

 母に自分が他の女子二人に告白された件で相談(誰か別の人が告白された体でした相談)したその日の深夜。


――あ!コイツ、アタシのコート汚しやがった!!


 耳を裂くような大声。


――ぎゃーぎゃーうるせぇんだよ!!


 腫れるほどに叩かれた頬。


――ったくなんであの女のとこいかなきゃいけねんだよ……あ、タバコ切れてるし


 煙草の煙が舞う室内で過ごした日々が翔を襲っていた。


「う……うう……」

 それらは翔の心の底に封じ込められていたはずなのに突如として眠りにつこうとする彼を襲っていた。ないはずの頬の痛みがぶり返してきたかのように彼の頬に広まり出す。


(なんで中学生になった今にまで――)


 頬に流れ出した感触を感じ取る。元気なく彼はベッドから体を起こし、部屋を出る。


「……なんだか小腹空いたな」


 空腹を満たすため、彼は一階のキッチンに足を運んだ。


(昔はお腹空いてもダイエットがどうとかでご飯作ってもらえない時あったなぁ……。いやそもそもあのお母さんって作ったことあったっけ?)


 冷蔵庫の近くに置いてあった食器棚の下部の引き出しを開く。中にあったインスタントのカップスープを取り出したその時だった。


「翔?」


「ひっ!?」


 声がした。落ち着いた声で呼ばれたにもかかわらず彼は怖いものを見たかのように震える。


「どうしたの?大丈夫!?」


 近づいてきたのは華菜。心配そうな目でこちらを見ている。


「……大丈夫。ちょっと小腹が空いて――」


「ならちょっと待ってなさい。さっきの残りがあるから」


 華菜はキッチンの方に向かうと彼女は置かれていた鍋の蓋を開けて中身を確認すると壁に下がっていたおたまを手に取り、コンロの火を付けて掻き回す。すると周囲にトマトの香りが広がる。


「あ、さっきのスープ?」


「ええ。夜食用に残しといたの。ただ今日は作りすぎちゃったから……」


 苦笑いで華菜は答える。


「でもちょうどいいわ。翔、これ好きでしょ?」


「……うん!」


 それまで生気なくいた翔は微笑んだ。

 しばらくして食卓にはスープの入った皿二つが並んだ。じっくり煮込まれたスープの香りが辺りに翔はそれをスプーンで口に運ぶ。


「おいしい?」


「ああ、うん。美味しいよ?」


 少し濃いめの味付けがするスープを口に運びながら彼は母に視線を向ける。


「さっき母さん夜食用って言ったよね?」


「そうよ?」


「今、深夜の二時だけどいつ寝るの?」


「三時くらいかしら?」


「毎日こんな遅くまで起きてるの?」


「そんなことないわよ。休日とかだと一時かしら」


「……今日、朝何時に起きてたっけ?」


「六時よ」


「……本当に寝てるの?」


「寝てるわよ。休みの日に」


 微笑みを見せ、きっぱりと答え彼女は答える。翔にはそれがどうにも信じれずにいたのか首を傾げる。


「絶対体力持たないでしょ。それ」


「ここ十年はずっとこんな感じよ。朝起きてご飯の支度をして翔を送り出したら仕事の合間に家事洗濯。昼休みの時には夕飯の献立考えたりPTAや町内会のお手伝い。昼休みが終わったら仕事に戻ってまたちょっとした休憩時間の間に料理の仕込み。食材は配達サービスとかで届いてるの見たことあるでしょ?もちろん、買い出しもたまに行くけど。夕方に翔が帰ってきたらご飯を用意して風呂の準備。それからしばらくしてさっき言ってた町内会とかの手伝いや仕事に関する勉強。それを寝る時間までにしてるだけよ」


「……えっと、食材の下りからついてけないんだけど」


「ついてこなくても大丈夫よ。もう慣れてるからね」


 話の合間にスープをちゃんと口に運んでいた華菜は空になったスープ皿の上にスプーンをそっと置くとコップに入った水をグイっと飲んだ。


「母さんはさ、それ……嫌にならない?」


「ならないわよ」


「どうして?」


「慣れてるってのもあるけど翔が大事だからよ。父さんの大事な息子だからね」


 会話の途中で先に食べ終えた華菜はスープ皿とコップを流しの前に置くと、翔の近くに寄ってそのまま頭を撫で始める。突然のその行動に翔は頬を赤くした。


「俺もうそういう年じゃないんだけど!?」


「いいえ。私から見たらずっとそういう年よ。遠慮しないの。ところで――」


 微笑みを絶やさずにいた彼女が一転して心配そうな顔を浮かべる。


「何か嫌なことでもあったの?」


「え?」


「翔もそうだけど……父さんも。自分の事に疎いというか。さっきからげんなりしてるわよ?おまけにスープあんまり食べてないし」


「それは母さんが早食いだからでしょ」


「もう十五分近くたってるわよ?」


「……あ」


 時計に視線をやると確かに華菜の言う通り、時計の針は言われていた時間を進んでいた。


「悪い。すぐ食うから」


「慌てない。早食いすると太るわよ?」


「わかってるけど冷めたらおいしくなくなるし――」


 スープを矢継ぎ早に口に運ぶ。そして皿の底が見える。


「で、何か学校であったの?」


「いや学校じゃないよ。……やな夢を見たんだ」


「嫌な夢?」


「……昔の夢」


 つぶやくように翔が声を出すと華菜は体を大きく震わせる。


「大丈夫?何があったの!?」


「いや単に……怒鳴られていたというか……そういうのを思い出しただけというか」


「……本当にそれだけ?昔他に何かあったんじゃないの!?」


「……大丈夫。もうそれ以外はないから」


 深呼吸してうつ向いていた翔は華菜の方を向く。


「あの……前のお母さんって言い方も変だけどさ。もういないんだよね?」


「ええ。いないわ。正確には亡くなったのよ」


 華菜は悲しそうな目で翔を見つめる。


「……もう十年近くも前ね。あの人たちはパーティを山荘でしていたの。そしたらそこで火事が起こっちゃって……そのまま亡くなったのよ」


「どうしてそんなことになったの?逃げればいいのに」


「わからないわ。ただ私の知ってる限り、笹山さんは仲良しの人たちと一緒にパーティをしていたみたいなの。何かあったのかもしれないわね」


「何かって?」


「……仲違いとかかしら?後は酒に酔った勢いで何か恐ろしいことが起きたとか。正直私にもわからないのよ。警察の調べだと山荘ごと燃えちゃって中にパーティに参加していたメンバー全員の遺体があって――」


 そこまで話をした時、華菜はふと我に返ったかのように体をふるわせる。


「ごめんなさい。こんな話、食事の時にするもんじゃないわね」


「いいよ別に。ぶっちゃけ前のお母さん、悪い人なんでしょ?」


「どうしてそう思うの?」


「洋服汚したら怒鳴り散らして、漏らしたらビンタされるし、お前に煙草すってて……ヤンキーだよ。アレ」


「人のことあまり悪く言わないの。確かにひどい人だったけど」


「うん。ところでさ……いや、何でもない。やっぱまた今度にする」


「どうしたの?」


「また今度にする。スープごちそうさまでした」


 早歩きで食器を片し、翔がそのまま二階に上がろうとしたその時だった。


「お父さんの事?」


 華菜の一言が翔の足を止める。


「……うん。いつ帰ってくるのかなって」


「そうね……多分もう少しで帰ってくると思うわよ。やっぱり美沙さんの件、応えてるというか」


「だけどさ、それにしたっておかしいよ!なんで十年も家に帰ってないの!?」


「大丈夫よ翔。お父さんはね、貴方に似てるだけじゃないの。すごく頭が良いから。きっとどこかで心の整理がつくまで……待ってあげましょ?」


「……わかった」


 聞きたかったことはあっさりと答えを得られた。その件でも晴れぬ心を抱えてままの翔にいつの間にか華菜が近づいていた。そして華菜は翔の額にそっとキスをしてみせた。


「え?ちょっと、なにしてるの?」


「なにっておまじない。昔よくやってたでしょ?眠れないって言っててさ」


「……あー。うん」


 この時の翔は子供じゃないと反論したい声で心がいっぱいだったのだがさっきのようにいつまでも子供よと返されるだろうと思い、何も言わなかった。


「おやすみ」


「はい、おやすみなさい」


 不機嫌な翔であったが、その日の夜はすぐに眠れてさらに目覚めもよかった。







「そうか……まだトラウマなのね」


 翔の夢の話を聞いた華菜は翔が部屋に戻った折からずっと居間で考え込んでいた。立ちすくむようにいた彼女であったが、やがて部屋の隅に置いてあった棚の上にある写真立ての群れの中から一つを手に取るとすぐに微笑んで余裕を取り戻す。


「やっぱり……あの人でないと翔の傷は癒せないのかしら?」


 写真の中に映っているスーツの男性に視線をやる。その隣には微笑んでいる華菜の姿があった。


「そうね。早くしないと……」


 足で床を軽く叩きつつ、ため息を吐く。


「翔のほうも心配だけど……でも……もういいわよね?」


 その時、華菜の手から炎があふれ出した。赤く燃えるその炎は勢いよく華菜の手の上で燃え盛る。


「いい加減、純也君に会わせないとダメかしら?私ももうこんなのを使わなくてもいいようにしたいって願ってるし。だけど、もうあんな感情でいるのはごめんだわ」

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