門出の風
「自分は、好きでもない相手とおつきあいするのは不誠実だと思うんです」
ずいぶんまっすぐというか四角四面というか、中学生のような潔癖な主張をする青年である。そしてこの青年、見た目も四角い。ダンボールでつくったロボットみたいといえばわかりやすいだろうか。
このひと月ほどよく来店するようになった客だ。見た目の四角さとあわせたわけではないだろうが毎回必ず豚の角煮を注文するので、そういった意味でも記憶に残りやすい客だった。
そんな彼は先日、おなじ会社に勤めている別部署の女性から交際を申しこまれたらしい。しかし彼はその女性に対して特別な感情は持っていない。文字どおり『ただの同僚』で、それ以上でも以下でもないのだとか。
だから断った、いや断ろうとしたらしい。けれどその女性はあきらめなかった。恋人の有無、好きな人の有無をたずね、どちらもいないことを確認すると『まずは友だちからでいいから』とくいさがってきた。なかなか積極的な女性らしい。
だが彼としては、自分にはその気がないのに相手が自分に好意を持っていることがわかっている、そんな状態でプライベートで会うのは気がひけるのだという。
そんなにむずかしく考えなくてもいいような気がするのだけど。
「嫌いでないのならつきあってみてもいいんじゃないかしら」
そういったのは、もちろんぼくではない。
「今日もらえる好意があるなら、もらっておいたほうがいいと思いますよ。だって、明日も生きているとはかぎらないでしょう?」
「そんな極端な」
四角い青年は苦笑するけれど、突然旦那を失った時尾さんにとってはこれ以上ない真実だろう。
「そうかしら。今日ここから帰る途中で事故にあわないってどうしていいきれます?」
言葉につまったようすの四角い青年に、時尾さんは「なんてね」と軽くほほ笑んでみせる。
もともと
「さっきのは受け売り。古いお芝居のセリフをマネしただけなんですよ。正確には『愛は哀しい賭けだけど、もし誰かが愛してくれるっていうんだったらもらっておいたほうがいい。明日は生きてないかもしれないんだから(※)』っていうの。劇の内容はほとんどおぼえてないのに、なぜかセリフだけが妙に印象に残ってたんですよね。それが夫が亡くなったあとふと思いだして、頭から離れなくなってしまったものだから、いつか機会があったら誰かにつかってみたいと思ってたんです」
時尾さんはいたずらっぽく笑うけれど、四角い青年は今度こそ絶句してしまった。さらりと明かされた『夫が亡くなった』という情報から、彼女の言葉の奥にある説得力を感じたのかもしれない。
「ついでにいわせてもらいますけど、男と女のあいだに不誠実もへったくれもないと思いますよ。依存を愛と呼ぶカップルもいれば、信頼を愛と呼ぶカップルもいる。セックスは外の恋人としながら、お互いにそれを承知の上で家族として生活している夫婦もいる。なにが誠実でなにが不誠実なのかなんて、時と場合と相手によって簡単にひっくり返るんですから」
そこまでいった時尾さんの肩からフッと力が抜けるのがわかった。今日はいつになく饒舌だ。
「だから……ね、マスター。私、今夜で
告げられたそれはとうとつで、とても静かな宣言だった。
「私はたぶん、ずっと夫に会いにきていたんです。夫が愛したこの店に。あとにも先にも私には夫しかいないと思ってましたから。でも、そんな私を好きだといってくれる人があらわれた。夫が死んで、たった二年です。生涯夫だけって思ってたのに、私はたった二年で新しい人に目を向けようとしてる。そんな自分がひどく薄情に思えて、迷うことすらいけないことのような気がしてたんですけど、おかげで決心がつきました」
四角い青年の悩みが時尾さんの背中を押したということか。
女性の年齢ほどわからないものはないのだけれど、これからの人生を喪に服したまま過ごすには若すぎるとは思う。
ちなみに、時尾さんが『卒業』といったのは気持ち的なことだけでなく、物理的にこられなくなるという意味もあるらしい。彼女に気持ちを告げた男性は、仕事の都合で遠方に引っ越さなくてはならないのだという。
ぼくにとっては常連を失うわけだから残念といえば残念だけれど、反対する理由にはならないし、そんな権利もない。
「新しい土地で、新しい人と生きてみようと思います」
「そうですか」
会計に立った時尾さんに、ぼくは一瞬考えてつり銭を返した。
「あれ? お釣り多くありません?」
「ほんの気持ちです。ご祝儀がわりというには少ないですが。どうぞお幸せに」
全額サービスしてしまうと時尾さんの性格上、ひどく恐縮させてしまいそうなので半額サービスである。
「ありがとう。マスターのそういうところ、ほんと好きよ。こちらにきたときはまた寄らせてもらいます。OG一号として」
「バーのOGですか」
「新しいでしょ?」
「そうですね。気長にお待ちしてますよ」
「ええ。また、ね」
「はい、また。お気をつけて」
やわらかな笑顔を残して時尾さんがドアを押しあける。新しく流れてきた空気が彼女を包みこむように見えた。門出という言葉が浮かぶ。
ふとそのおだやかな風に、彼女の亡くなった旦那が祝福してるのかもしれない——なんて、柄にもないことを思った。
「なんだかすごくとり残された気分なんですけど」
時尾さんが帰って数十秒。四角い青年がぽつりとこぼした。確かに途中からほとんど蚊帳の外だった。しかたない。彼にもドリンク一杯くらいサービスしようか。
「ちなみに、マスターだったらどうします? 特になんとも思っていない女性からつきあってくれっていわれたら」
「ぼくなら、逃げますね」
「え、逃げる? 断るんじゃなくて?」
「はい。ぼくは恋愛自体を面倒くさいと思ってしまう人間なので、ぼくに恋愛感情を持つ人からはできるかぎり距離をとります」
「それでもあきらめなかったら?」
「ほうっておきます」
相手にしない。反応しない。基本である。
「えー、それで大丈夫なんですか」
「さあ、相手によるでしょうね。大丈夫でなければまたそのときに考えます」
四角い青年は「うう~ん」と唸るように声をもらして頭を抱えてしまった。すまない、青年。そもそも相談する相手を間違えている。
「さっきの人、男と女のあいだには誠実も不誠実もないっていってましたけど」
「そうですね。それにかんしては、ぼくも同感ですよ」
「ううぅ~~ん……」
四角い青年の悩みは、まだとうぶん解決しそうにない。
(門出の風——おしまい)
(※)舞台『心は孤独なポアロ』より
http://www.endless-kid.net/memory/history/poaro.html
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