失恋の味

「結局は胸! おっぱいらのよ! あんなろただの脂肪らのに!!」


 来店したときからすでにろれつが怪しかった女性がいきなりわめいた。

 話を聞くに(勝手にしゃべったのだが)胸はちいさいほうが好きだといっていた彼氏に浮気され、あげくのはてに胸が『ちいさい』のと『ない』のは違うとフラれたらしい。

 ちなみに浮気相手は立派な胸を持っていたのだとか。

 そうしてぼくは、リアルに『うわあん』と泣く大人をはじめて見た。

 あまりうちにはこないタイプの客である。言葉をえらばずにいうなら非常に面倒な客だ。


「ばずたーは、ひっく、でんあいずるどぎ、ぼんなのびどのどごをびばす、かー」


 酔っている上に泣きながらしゃべっているせいで翻訳が必要なレベルになっている。マスターは恋愛するとき女の人のどこを見ますか――だろうか。


「ねーっでばぁ」

「そうですねえ……」


 さて、困った。

 いちおう、なりゆきから女性と交際してみたことはある。が、ぼくはもともと人間関係においてもっとも面倒なのが恋愛だと思っていた。そして、交際してみたことでよりその考えが強化された。

 そんなぼくは、女性を性の対象として見ることはあっても、恋愛対象として見ることはまずない。全世界の女性を敵にまわしそうなので、けっして口にはださないけれど。

 そもそも恋愛と性的な好みは必ずしも一致しないと思うのだが。

 ……なんて正論をのべたところでこの酔いどれ女子には火に油だろう。というか、この状態ではなにをいっても絡まれそうな気がする。面倒くさい。まことに面倒くさい。

 心の中で天を仰いでいると、救世主が来店した。常連の瀬和見せわみ 陽子ようこである。


「あらマスター、修羅場中ですか?」

「そんなわけないでしょう」


 酔いどれ女子がズビズビと鼻をすすりながら、二つとなりの席に腰をおろした瀬和見さんを凝視している。


「おっぱい……」

「はい?」

「おっぱいがあるうううう! うわーん!!」


 先ほどよりさらに激しく泣きだした。処置なしである。


「えええ……なによいきなり。マスター、どうしたのこの人」

「はあ、まあ、失恋ですかね」

「へえ……あ、まだサバ味噌あります?」

「ありますよ」

「やった。じゃごはん大盛りで。あとビール」


 それほど流行っているわけでもない狭い店なので、食事メニューはその日の仕込み分がなくなれば終了だ。サバは特に傷みやすいため仕込みも少なめにしている。

 カウンターにつっぷして大泣きしていた彼女がむくりと顔をあげた。


「サバ味噌……?」

「あ、そこ反応するんだ。おいしいですよ。マスターのサバの味噌煮」

「バーなのに」

「定食屋みたいでしょ?」


 コクリとうなずいて、またズビズビと鼻をすする。手に持とうとしたグラスはからっぽだ。


「おがわり、ぐだざい」

「売り切れです」

「ウゾ」

「ウソじゃありません。うちには、今にも酔いつぶれそうな方にお出しできるお酒はないんですよ」

「意地悪」


 これ以上騒がないでくれるなら意地悪でも性悪でもなんでもいい。とりあえず彼女のまえにはお酒のかわりにミネラルウォーターを置く。


「さっきおっぱいがどうとかいってましたけど、理由聞いてもいいです?」


 瀬和見さんがさらりとたずねた。

 問われた彼女はまたもやじーっと見ている。瀬和見さんの豊かな胸を。


「あだし、おっばいがないんです。男の人よりないんです。ちいさいほうが好きだっていってた彼に浮気されてフラれるくらい、胸がないんです。胸がある人にはわがりません。あだしの気持ちなんて」

「ええと、ごめんなさい。ちょっと確認させてほしいんですけど、それはもとから? 病気で切除したとかいう話ではなくて? あ、答えたくなかったら答えなくていいですよ」


 言葉の意味をつかみそこねたのか、彼女はぽかんと口をあけたままフリーズした。数秒後、はっと我に返ったようにブルブルと首を振る。


「もともどでず! ずっどまな板なのっ!! 悪い!?」

「あ、いや、なんかごめん。でも……そう。あなた、ほんとうに好きだったんですね、その彼のこと」

「え」

「だからそんなに傷ついてるんでしょう? そうじゃなきゃ、浮気した上に胸を理由にフルような男、泣くより先に怒りますって」

「うっ……」


 みるみる涙がもりあがっていく。くしゃりと顔をゆがめて、またえんえんと泣きだしてしまった。なんともよく泣く女性である。

 しかし、わかってもらえた安堵なのだろうか。

 先ほどまで彼女を覆っていた悲痛な気配がやわらいで、なにかがほどけていく――ような気がした。


 *


「失恋するたび、友だちとかにはそんな男はやく忘れろっていわれるんです。あたし、男運が悪いっていうか男を見る目がないんですよ。それは自分でもわかってるんです。だけど、そんな男忘れろっていわれると、その人を好きだった自分の気持ちまで否定されてるみたいで、なんだかよけいに悲しくなるっていうか、つらくなってしまって」


 泣くだけ泣いて気がすんだのか、涙と一緒にアルコールも抜けたのか、先ほどまでギャン泣きしていた彼女はつきものが落ちたかのように落ちついている。

 それまでのあいだに瀬和見さんはサバ味噌をたいらげ、ビールをおかわりし、焼きそばを食べおえていた。


「だから今回は誰にもいえなくて、でも家でひとりでお酒飲んでたら頭ん中ぐちゃぐちゃになってきてなんかマズいなって外出てきたんですけど……すみません。ご迷惑おかけしました」


 ぺこりとぼくに頭をさげて、それから「ありがとうございました」と瀬和見さんにも頭をさげる。


 恋は人を狂わせるというけれど、失恋もまた人を狂わせるのかもしれない。正気にもどってくれたようでなによりである。


「なにか召しあがりますか」

「そういえばお腹ぺこぺこ! サバ味噌ってまだあります?」

「ありますよ」

「やった。お願いします」


 ちょうど一人前。今夜はこれで売り切れだ。


「瀬和見さんはどうします?」

「えーと、じゃあ唐揚げとポテトサラダください」


 正気にもどった彼女が目をまるくする。


「どこにはいるんですか、そんなに」

「ん? 胃袋?」

「いや、それはそうでしょうけど」

「あはは。まだまだ序の口ですよ〜」

「ええええ、ホントですか」

「もちろん」


 瀬和見さんは平常運転である。


「あ、もしかしてその食欲がそのおっぱいを育てたんですか」

「ええ? 考えたことないですけど、まあ脂肪ですからねー」


 女性二人のおっぱいトークがはじまってしまったので、ぼくは黙って調理にとりかかる。

 食欲が女性の胸を育てるのかどうかは知らないが、もしも失恋の苦い記憶がぼくのサバ味噌の味で上書きされたとしたら、それはちょっと愉快かもしれない。



    (失恋の味——おしまい)


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