怠惰な店の傍観者
野森ちえこ
マスターと客
青春の色
「マスターにとって、青春の思い出ってなんですか」
だしぬけな質問にぼくはいささか面食らった。
二十代後半だろうか。近くのスポーツクラブに勤めているという物静かな青年である。数年まえから週に一度か二度、夕食をかねて飲みにやってくる常連だ。
おそらく彼のなかでは突然ではないのだろう。質問を口にするまでに多くの思考をめぐらせていたのだろうから。
「青春、ですか」
あらためて考えると、なかなかにむずかしい質問である。
はたしてぼくに青春なんていうものがあったのだろうか。
青春といえば、部活とか恋とか遊びとか、なにかに夢中になったりちょっと悪いことしてみたり、笑ったり泣いたり怒ったり葛藤したりしながら、それでもキラキラ輝いているイメージがあるのだが、はて。そんな時代、ぼくにはなかったような気がする。
汗も涙も友情もなかったし、努力も勝負も挫折もなかった。というか、学校にすら行ってなかった。
*
学校に足が向かなくなかったのは中学生になってからだ。
べつになにか特別な理由があってのことではない。イジメられていたわけでもないし、勉強についていけなかったわけでもない。ただダルかっただけだ。
なんだかふいに面倒くさくなって、一日休んだらつぎの日はもっと面倒くさくなって、そのまま行かなくなった。
やりたいことも好きなものも特になかった。そもそもぼくは、おもしろいとか楽しいとか感じることがなかった。みんなのように心が働かないぼくはきっと、根っからの怠け者なんだろうと思った。
そんなぼくの行動基準は、面倒なことをいかに避けるかということだけだった。
たとえば親が、ぼくを学校に行かせようと大騒ぎするような人たちだったら、たぶんそっちのほうが面倒になってとりあえず登校はしただろうと思う。幸か不幸か、ぼくの親はぼくにあまり関心がなかったから、そんなことにはならなかったけれど。
でもぼくはひきこもりというわけではなかった。
両親とも学校に行かせようと必死になるような人たちではなかったけれど、だからといって部屋まで食事を持ってきてくれるような人たちでもなかったから。
だいたい夫婦共働きだったから、日中は二人とも家にいなかったし、成長期の男子の腹が買い置きのカップ麺ひとつでふくれるわけもない。
腹が減ったらつくるか買いに行くか、自分でどうにかするしかなかったのだ。
だから最初は自分がたべるために料理をするようになったのだけど、なんとなくついでに親のぶんもまとめてつくるようになって、そうしたらそれまでよりどこか家の空気がなごやかになって、いつのまにか、気がついたら家の料理係になっていた。
*
青年がなにを求めているのかわからないまま、ぼくは青春時代というより不登校時代のことをかいつまんで話した。
「料理は面倒じゃなかったんですか」
「そうですね……そういえば、料理を面倒と思ったことはなかったかもしれません」
「あ、だからバーなのに食事メニューが充実してるんですね!」
大盛りのオムライスをペロリとたいらげた小柄な女性が話に加わってきた。
このちいさな身体のどこにはいるのか不思議なくらい、彼女はいつも旺盛な食欲を見せてくれる。
タウン情報誌で編集ライターをやっているとのことで、半月ほどまえだったか、一度取材させてほしいと頼まれたのだけど、ぼくは丁重にお断りした。雑誌になんか載って、まかりまちがって人気でも出てしまったら非常に面倒だ。
「取材はなしですよ」
「わかってます。けど、気が変わったらいつでもいってくださいね!」
もともと客としてこの店を気にいってくれていたらしい彼女は、取材を断ってからも変わらずひいきにしてくれている。
「私もキラキラな青春には縁がなかったなあ。でもどうして急に『青春の思い出』なんです?」
二人がこんなふうに顔をあわせたのはおそらくはじめてだと思われるが、人懐っこい彼女の雰囲気がそれを感じさせない。
「それが……僕、スポーツクラブで働いてるんですけど、ひとり気になる子どもがいるんです。スイミングスクールにきてる子なんですが、明るくて元気で、好奇心旺盛で、なにごとにも一生懸命で、なんていうんでしょう。大人が思い描く『理想の子ども』みたいな子なんですよ。僕がひねくれてるだけかもしれないんですけど、できすぎっていうか、なんかすごい違和感があって、ちょっと訊いてみたんです」
——どうして水泳を習おうと思ったの?
「そうしたらその子、ちょっと考えてから『青春の思い出をつくるため』って答えたんですよ」
「え、なにそれ」
彼女の素直な反応に青年が笑う。
「なにそれ、ですよね。僕もそう思いました。てっきり、泳ぐのが好きとか楽しいとか、オリンピックに出たいとかそういう答えが返ってくるかと思ってたら『青春の思い出』ですからね。よほど僕が変な顔をしてたのか、その子はまた少し考えて、こうつづけたんです。『いい思い出なんてひとつもないっていうような大人にはなりたくないので』って」
「それは……」
言葉に迷ったように、ライターの彼女は途中で口を閉じた。
きっとその子の身近にいるのだろう。こうはなりたくないと思うくらい人生を呪っているような大人が。
「なんか、闇が深そう」
やがてそうつぶやいた彼女に、青年も「でしょう?」と同意する。
「動機はどうあれ、その子がほんとうに『思い出づくり』を楽しんでるならいいんですけど、どうしても僕にはそう見えなくて、それでなんかいろいろ考えてしまって」
「人の青春の思い出を?」
「はい。考えすぎて青春ってなんだろうとか思いはじめてしまったもので」
「あはは。ね、その子いくつですか」
「小学五年生ですね」
「あら、それは好都合。近いうち、その子がいるスイミングスクールの見学に行ってもいいですか。姪っ子連れて」
「え、それはかまいませんけど、え?」
「私、一度気になったことは自分で確かめないと気がすまないタチで。あ、申しおくれました私、
「あ、どうも、
瀬和見さんは、ライターであることや三姉妹の真ん中だということなど、自身の基本情報を開示しながら、瑞野くんの情報もさりげなく聞きだしていった。
そうしてほんの十分。二人のあいだには古くからの友人のように打ち解けた空気が流れていた。職業柄なのだろうか。それとも彼女の性格か。いずれにしろ見事なものである。
「青春て、読んで字のごとく、元気でみずみずしいイメージを持ちがちですけど、現実にはすでに厳しい冬を経験してる子たちだっているんですよね。だから青春とかアオハルとか呼ばれる時代が黒色だったり灰色だったりすることもあると思うんです。だけどそれを否定すれば、たぶんどうしたって歪んでいく。
その子がそうだとはかぎらないし、まったくの見当はずれかもしれませんけど、ていうかむしろそのほうがいいんですけど。瑞野さんが感じた違和感には必ず原因があるはずで、それを放っておいたらいけない気がするんです。歪んだ『いい子』ほど怖いものはないですから。ね、マスター」
いきなり話が飛んできた。
「そうかもしれませんね」
「うわぁ、やる気なーい」
瀬和見さんの冗談半分の非難に苦笑する。
面倒ごとが嫌いなのは今も変わっていない。つまり、赤の他人の子どものことなど正直どうでもいい。
「申しわけない。いったでしょう。ぼくの感情は怠け者なんですよ」
「お店の名前からして『
「そういうことです」
怠惰とか、やる気がないとかいう意味のほかに『暇』とか『のんびり』という意味もある『Lazy』という店名なのだけど、集まってくる客はどういうわけか瀬和見さんのような、他人の問題に首をつっこみたがる人間が多い。世話焼きというか物好きというか悪趣味というか。
しかしごくまれに、ほんとう数年に一度あるかないかだけれども、豊かな喜怒哀楽を持つ彼女らのような人間をうらやましく思うことがある。
ないものねだりというやつだろうか。労働する気のないぼくの心ではおそらく一生感じられないものだから。それこそ、キラキラと輝いて見えるのだ。
まあうらやましく思うのは一瞬で、いちいち心を動かしてたら疲れそうだなとすぐに思いなおすことになるのだけど。
「あ、マスター、ピザトースト追加で。あとビールおかわりください」
ぼくはうなずいて、あいた皿とグラスをさげた。ぼくにとってはいつものことだけれど、瀬和見さんの追加注文に瑞野くんが素直にぎょっとしている。
「胃袋、ブラックホールですか」
「失礼ですね! よくいわれますけど!」
みるみるうちに距離を縮めていく二人をほほ笑ましく思いながら、よく冷えたグラスにビールをそそぐ。
面倒ごとが嫌いなぼくはいつも傍観者だ。
客の話は聞くけれど、聞くだけである。
それ以上でも以下でもない、マスターと客という距離感が、ぼくにはたぶんちょうどいい。
(青春の色——おしまい)
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