第3話 逃走劇の終幕とふかふかのベッド
膝の裏まで伸びる茶髪をたなびかせて、シュネスは走っていた。建物の裏を進み、体を埃まみれにしながら狭い隙間を通り抜け、路地裏をひた走る。
魔術師の少女とあり得ないほど跳ぶ青年、更には王国騎士っぽい女性まで敵に回してしまったのだ。指名手配犯として話が広まるのも時間の問題か。
今まではこの街を出ればひとまず解決だと思っていたのだが、彼女が王国騎士だった場合、そうも言っていられないだろう。他の街に逃げ込んだところで、騎士団の目は王国中に届いているのだから。
(今まで騎士団にだけは目を付けられないように立ち回って来たのに……これはもう、終わったかも……)
お先真っ暗闇な短い人生も、ここで幕引きかもしれない。そう諦めかけていたシュネスの心に追い打ちをかけるように、ソレは来た。
「わっ!?」
シュネスが見慣れた路地裏の闇を、地面から発せられる光が塗りつぶす。その正体は巨大な魔法陣。地面に現れたそれを踏んだシュネスは、その場で転んでしまった。
「歩けない……!?」
立ち上がろうとするも、足がしびれて言う事を聞かない。まるで電流を流し込まれたかのようだった。
「やーっと見つけたよ、金貨泥棒ちゃん」
「ひっ……」
魔法陣の耀きで埋め尽くされた路地裏に響く、高い声。その顔には笑みすら湛えて、魔術師の少女はシュネスへ声をかけた。シュネスは逃げようとするが、足がしびれて尻もちをついた。
「こんな所に逃げてたのか……見つけたぜ!」
そして背後からも声。ちぢれた青髪の青年は、顔がギリギリ見えるぐらいには離れている。だがこの程度の距離、あの青年ならば一瞬で詰めて来るだろう。そのさらに後ろからは、剣士の女性が遅れて追い付いて来た。
「おいモファナ、この嬢ちゃんはどうするんだ?」
「そうだねぇ……金貨を奪うどころかぼくの顔面にゴミをぶつけて来たんだからねー、どうしてしまおうか」
金色の装飾が施された本を片手に、魔術師の少女は詰め寄る。背後からは青年と女性もこちらに歩いて来る。
狭い路地の中ほどで、二つの脅威に挟まれたシュネス。
ここからどう逃げるか。どうすれば無傷で逃げ切れるか。負傷を心配する余裕は無い。玉砕覚悟で掴みかかるか。しかし勝ち目は無い。生きて逃げ切るためにはどうするべきか。何を捨て、何を使い、何を行えば――そもそも、逃げ切れるのか?
シュネスの中で、大事なナニカがぷつんと切れた。
「…………ぅ」
力なくうつむいたシュネスを、怪訝そうに見つめる三人の脅威。続いて彼女たちの耳に飛び込んで来たのは、ただの少女の号泣だった。
「うわあああああああああん!! ごめんなさあああああああああい!!」
大粒の涙をボロボロ零して、いきなり泣き出したシュネス。意地でも逃げ切ろうと懸命に動いていた彼女のものとはとても思えない涙に、三人は驚きの余り絶句した。
いつの間にか魔法陣の耀きは失せ、暗闇を取り戻した路地裏にシュネスの泣き声が響く。それは演技ではない、心の底からの号泣だった。
「ちょ、ちょっと!?」
追い詰めていた張本人である魔術師の少女が、何故か狼狽した様子でシュネスの傍にしゃがみ込む。
「えーっと、その……と、取って食おうって訳じゃ無いんだしそんなに泣かなくても……」
「ごめんなさいごめんなさい私みたいなゴミクズが視界に入ってしまってごめんなさい一秒でも長く生きたいだなんて高望みしてごめんなさい生まれてしまってごめんなさいいいい!!」
「なんか怖いよ!!」
金貨を盗んだ事を謝っているのかと思えば、自身に関するあらゆる事を全否定して謝っていた。この世の全てに謝るように地面に頭をこすりつけ、うずくまって泣いている。
もはや彼女の自己肯定感は地の底を行っている。あまりにも可哀想で見ている方が胸が痛い。
「モファナ、さすがにやりすぎだろ」
「ぼくのせいなの!? 違うでしょ! マストが威圧感丸出しで追っかけるからだよ!」
「俺は威圧なんかしてねぇよ」
「してたー! おっかない顔して威圧してましたー!」
「……ちょっと二人とも、そんな事言ってる場合じゃないでしょ」
泣きじゃくる少女の前で言い争いを始めた二人をいさめ、剣を携えた女性は改めてシュネスを見下ろす。
「あら……?」
二人の無駄な口喧嘩を治めている間に、いつの間にかシュネスが泣き止んでいた。頭を抱えてうずくまった姿勢から、力が抜けたようにゴロンと回転する。手入れができずに伸び放題になっている髪が辺りに広がった。
静かになった路地裏で新たに聞こえるのは、少女一人分の小さな寝息。
「……寝てる?」
泣きじゃくって目元を腫らしたまま、シュネスは気絶するように意識を手放していた。精神的にも肉体的にも、もう限界だったのだろう。4日前から何も食べずに暮らし、今日は身の危険を常に感じながらこれだけ走り回ったのだから無理もない。
薄汚れた路地裏で静かに眠る浮浪児と、それを見下ろす三人の男女。彼女たちは互いに顔を見合わせ、どうしたものか、と誰からともなく呟いた。
* * *
それはきっと、雨の日だったと思う。幼かったからか、記憶としてはあまり残っていない。だけど、心には刻まれている。
世界に私を産み落としてくれた人から切り離され、何も知らない広い世界へ放り出された。ずっと私を守ってくれると思っていた両親から捨てられたあの日。
私は、自分の身は自分にしか守れないという事を知った。
* * *
意識を取り戻したシュネスが初めに感じたのは、『よく分からない』感触だった。
全身がふわふわするような、心地よい感触。ボロ布を敷いただけの石畳ではなく、人が寝るために作られた柔らかい場所。それが噂に聞く『ベッド』というものだと思い当たった所で、シュネスは微睡みの中から抜け出した。
「ん……」
瞼を持ち上げると、不思議な事に天井が見えた。木目が綺麗だ。
仰向けに寝ているのに視界に空が映らない事。風が吹いていない事。通りを歩く人々の声が聞こえない事。様々な要因から、シュネスは今、自分が建物の中で寝ているという事実に辿り着いた。
「あ、起きた?」
そんな声を聞いて、寝起きの頭を金づちで叩いたかのような衝撃が走った。
弾かれるように声のする方を向くと、肩にかかる程度に伸ばした銀髪が綺麗な少女が、椅子に座ってこちらを見つめていた。
「……っ!!」
服装こそ違えど、その顔と声は絶対に忘れない。
眠ってしまうまでずっとシュネスを追っていた、例の魔術師である。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい!!」
シュネスは凄まじい速度で毛布を頭からかぶり、ベッドの上で丸くなった。路地裏でもあれほど泣いたというのに、恐怖のあまりまた涙が溢れてきそうだった。
「あーもう、それは昨日聞いたよ!」
「ひいっ!」
そして魔術師の少女は縮こまるシュネスの毛布を剥ぎ取る。
「確かにぼくもやり過ぎたとは思うけど、そんなに怯えられるとちょっと傷つくじゃん……」
身を守る物が無くなりガクガクと震えるシュネスだったが、唇を尖らせてぶつぶつと何かを言う少女を見て、ふと我に返った。
そう言えば、例の三人に追い詰められてからの記憶がない。そもそも、今いるこの場所はどこなのか。誰が運んでくれたのか。目が覚めた時にすぐ傍にいたのは何故か。そこまで考えると、シュネスの中の彼女に対する恐怖は少し薄れていた。
(もしかしてこの子、本当は優しい……?)
と言うより、今回はどう見てもシュネスが悪者であり、加害者が恐怖するほど追い詰める魔術師の少女の行動になんら非は無い。
目の前の少女だけじゃない。凄く跳ぶ青年も、剣士の女性も、シュネスが勝手に怖がっていただけだ。そう思うと、今度は心の奥に押し留めていた罪悪感がふつふつと湧き上がって来た。
「あ、あの……」
「うん?」
恐る恐る声をかけるシュネス。魔術師の少女は若干拗ねたような眼つきでシュネスを見やる。
「その……ごめんなさい」
「だから、それはさっき聞いたからいいよ」
「いえ、そうじゃなくて……金貨を盗んだ事とか、ゴミぶつけた事とか……あと、屋根のある場所まで運んでくれたり、こんな高級なベッドで寝かせてくれたり、いろいろ迷惑をかけて、ごめんなさい」
「いや、割と安物のベッドだけど……」
誠心誠意謝っているシュネスだが、どこか価値基準がズレているそれに少女は突っ込む。
「それにお金の件も怒ってないよ。一応は予定通りだったし」
「……え? どいう事ですか……?」
「ぼくたちにもいろいろ事情があってね、きみの実力を測るために、わざとお金を盗ませて追いかけまわしてたの。だからぼくも他の二人も、きみを怒ったりしてないよ」
「わ、わざと……?」
だってこっちが勝手に利用したんだからね、と少女は平然と言ってのける。それを聞いたシュネスはぽかんとしていた。
必死に隙を見て、策を練って、命からがら逃げ回っていたシュネスは、それを聞いてなんだか力が抜ける思いだった。
「は、はは……魔術師を上手く出し抜けたと思ってたのは、ただの思い上がりだったんだ……あははは」
渇いた笑いしか出てこないシュネス。魔術師の少女は慌てて励ました。
「そ、そんなに落ち込むこと無いよ! きみの実力はちゃんと評価されてるんだから! うん、大丈夫!」
「評価……?」
「さっきも言ったでしょ? きみの実力を測るためにやったって」
少女は椅子から立ち上がると、自慢げに腰に手を当ててこう続けた。
「あらゆる物を使って逃げ回る機転、絶対に逃げ切ろうという執念。それから一瞬でぼくの懐から金貨の袋を盗む器用さとか、無害を装う演技力とかね。きみにはいい能力が備わってる。素質があるよ、うん」
「素質……? 何のですか?」
未だ理解が追い付いていないシュネスは、ベッドに座ったまま首をかしげる。そんなシュネスを真っ直ぐ見つめる魔術師の少女は、ニッと口の端を吊り上げた。
「ぼくたちの仲間になって、一緒に働く素質だよ」
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