第三十二集 テンシ
「
「……皇帝陛下のことじゃないのか?」
よく晴れた日の午後、二人でお茶をしていると、
「それは天子でしょう? 違います」
「じゃぁ……、あの、なんとかっていう宗教の絵に出てくる、翼が生えた裸の子供のことか?」
「それは天使ですね。もう。仕方ないので書いてあげましょう」
そういって
「甘い子供? ……知らないな。なんなんだ?」
「別名、〈
「よくわからん。ちゃんと説明してくれ」
「こほん。
「……は?」
「今、この世界は〈人間〉の世界です。その前は〈神〉の世界でした」
「なんだか余計にわからなくなってきた……」
「まぁ、とりあえず聞いてください。戦乱の世は続いていますが、その加害者も被害者も主に人間ですよね?」
「そりゃ、そうだろう」
「ですが、この世には
「……そうだな」
「で、彼らのような邪悪な存在がこの世界を欲するとき、どうすればいいかというと、その
「……つまり、〈人間〉の世界を終わらせて、〈魔〉の世界を始めるってことか?」
「その通り! 流石は朱燕軍の将軍ですね。ものわかりが早くて話しやすいです」
「はぁ……。で、なんでこんな話を?」
「中原のどこかの地域で、
一瞬、脳が理解するのを拒んだように、
「……はあ⁉ まずいんじゃないのか⁉」
「そうですねぇ。闇に堕ちれば、きっと魔王にでもなるでしょうね」
「そんなのんきな……」
「ただ、まだ噂の段階なのでどうすることも出来ません。本当に
「そ、そうか……」
「
「ううん……。じゃぁ、なんでこんな話をしたんだよ」
「
「……心に留めておくよ」
「はい! そうしてください。きっと素敵なことになると思うので」
「なんか気になる言い方だな」
「ふふふ」
☆
中原大陸のはるか北方にある山岳地帯。
平地とは違い、山頂にはまだ雪が残っている。
吐く息が白い。
心臓まで凍ってしまいそうな夜。
今まさに、息を引き取ろうとしている青年がいた。
「
黄金の細工が美しい、木で作られた輿の上。
敷かれた布が赤い血に染まり、その範囲は青年の呼吸とともに広がっている。
「
「そんな! 私など、そのような器ではありません! 義兄様がいなければ……」
「しっかりしろ!」
青年は声に力を込めた。
口の端から血があふれ出る。
「……我が愛しき
「義兄様……」
「莅月……。一族を……、頼んだ……、ぞ……」
声が口の中だけで紡がれ、音が外に出ていく力を失っている。
呼吸が次第にゆっくりと浅くなり、最後に一度深く吸い込むと、そのまま空気が抜けていく音とともに、命が果てていった。
「うわああああああ!」
周囲を取り囲む一族の戦士たちも皆涙を流し、身体についた乾いた血が再び色を取り戻すように流れていった。
「許せない……」
莅月は
「人間どもめ……。絶対に許さない!」
莅月の叫びに、泣いていた大型の兎たちが一斉に人の形に
「よく聞け、
雄叫びは低く響き渡り、木々を根から揺らした。
「私のこの身体は〈人間〉だ。たった一袋の食料のために売られた私を、悪辣な環境から奪い去ってくれたのは玄兎族だ。だから私は心をささげた。身体は変えられなくとも、私は玄兎のために戦う。だから……、安心して眠ってね、義兄様……」
莅月は義兄の額に軽く口づけを落とすと、戦士たちを見渡して言った。
「復讐は焦ってやっても成功の見込みは薄い。まずは小さな集落で慣れていこう。さぁ、作戦を立てるぞ!」
戦士たちは声を上げ、腕を突き上げて興奮した。
空には満月。
その月灯りが、冷たく木々を染めている。
「待ってろよ、慧国軍。いつかその喉元にこの刃を突き立ててやる……」
莅月は涙を拭い、空を見上げた。
雲が流れていく。
強い風が吹き始めた。
養花天の薬術師 智郷めぐる @yoakenobannin
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