橙色の向日葵
八瀬蛍
世界が終わるまであと○○日
八月一日。普段はあまり音を鳴らさないそれが告げた"こと"は僕の人生を確実に左右させるものだった。
『もしもし、細貝さんのお宅ですか?』
「はいそうです。」
『工真くんかい? ちょうどよかった。実はね……。』
電話相手がその後に紡いだ言葉に僕は思わず目を見開いた。
驚き半分、信じられなさ半分。相手はそれだけ告げて、じゃあまたと電話を切った。しばらく耳に当てた受話器を置くことすら忘れてその場に立ち尽くした。そして開いたままの口からは言葉が漏れ出る。
「あと一か月で世界が、滅亡する……。」
これはひと月後に終わると言われた世界で僕が過ごした最後の夏休みの話。
八月二日。世界が終わるとわかっていてもいつも通り、寝起きの重い体を起こして自室を出る。
「今日も仕事か。」
リビングには未だ父が帰った痕跡がない。母親は早くに亡くなりほとんど物心ついた時から父親と二人暮らしで、その父も昼夜問わず仕事で家を空けていることが多かった。
「さて、行くとするかな」
手早く着替えて、財布と携帯だけの入った軽いボディバッグを身に着けて向かう先は菊池千寿の元。
物心ついた時からの友人である千寿は僕の一番の友人兼理解者だ。おそらく父親と過ごした時間よりも千寿と過ごした時間のほうが長いくらいで、すごく大事な人である。
ミンミンと蝉の激しい鳴き声が聞こえるけれど視界に映るのは空蝉ばかり。木についたそれを掌でやさしく包み、小学生の頃に虫嫌いの彼に見せて酷く嫌がられたことを思い出す。久しぶりに持っていこう、きっと彼は嫌がるだろうから。
「ああ工真くん、よく来てくれたね。」
僕がドアを開けるより先に中から出てきたのは昨日の電話相手である千寿のお父さん。やっぱり世界が終わるからだろうか、すごく浮かない顔をしている。
「こんにちは入っても大丈夫ですか?」
「もちろん入ってくれ。私は少し買い物に行っているので、何か緊急なことがあれば電話にかけてくれるかな。」
わかりました、そう頷きながら僕は千寿が待つ部屋の中に足を踏み入れた。
「工真、来てくれたんだね。」
「うん……はい、これお土産。」
千寿の目の前まで近づいて閉じていた掌を開く。うわあ、っと小さく声を上げて身を引いた千寿に思わず笑みがこぼれた。思った通りだ。
何時間かそのままくだらない会話をして僕は帰路についた。
八月五日。今日は部活のために朝から家を出た。
夏休みの練習は炎天下の中でかつ普段よりも長い時間行われるため、かなり厳しいものだった。入部して初めての夏休みは特に目を疑った。なぜなら夏休み中の練習予定表に記載されていた持ち物が「米一合」だったからだ。まあ3年目にもなってしまえばそれに驚くことはなくなったけれど。
そして先生の集合の合図で数時間に及んだ練習がようやく幕を閉じた。そのまま目も閉じてしまいそうなほどに身体が疲労を訴えているのを感じ、部員や顧問との会話も程々にして家に帰りシャワーを浴びるとそのまま眠りに落ちた。
八月十二日。今日もまた足は千寿の元へと向かっていた。あと約半月で世界はきっと、終わる。
部屋に入るなり先日までなかったはずの目に付く花瓶が窓辺にポツンと置かれていることに気が付いた。
「それ、どうしたの? 向日葵?」
「ああうんそうだよ、向日葵。花屋さんにあってね、奇麗だったから思わず買っちゃったんだ。」
愛おしそうな目を向日葵に向ける彼に思わず笑みがこぼれた。
「あ、なんで笑うんだよ。」
「いや別に。ただ相変わらずだなと思って。」
彼の母親は花が好きで昔から家に行くと四季折々の草花が香りを放っていた。そんな母親の性格が遺伝したのか出会った頃から彼は植物が好きで花言葉なんかも沢山覚えていたような気がする。僕は全く詳しくないけれど。
「そうだ。花瓶の大きさを見誤っちゃって、入りきらなかったからどうしようかと思ってたんだ。これ、あげるよ。」
「僕が持って帰っても枯らす気がするんだけど……。」
「枯らさないでよ! ね、お願い。」
しぶしぶ僕は千寿から受け取った向日葵を持って、今日も彼の部屋を後にした。
「下に参ります」という音と共に開いたエレベーターの中には千寿のお母さんが立っていた。
「あら工真くん、来てくれてたの。ごめんなさい、入れ違いで何も用意できなくて。」
「僕こそ毎日のように来てしまってすみません。」
「それこそいいのよ、千寿くんも喜んでたから。あら、それ千寿くんに?」
お母さんの視界に映っているのは僕の手に持たれた向日葵だった。
「花瓶に入りきらないからもらってくれ、と。」
どこか寂しそうに微笑んだ気がしたお母さんにまた来てねと見送られて僕は家に帰った。
花瓶なんて大層なものは家になくて、仕方なく少し背の低いインスタントコーヒーの空き瓶に向日葵をさした。
八月二十三日。今日も変わらずに僕は千寿の元を訪れた。
「ねえ、見てこれ。出てきたんだ。」
楽しそうに言う彼の手にあったのは小学校の卒業文集だった。そこには将来の夢という題で書かれたみんなの作文が載っている。
「懐かしいなそれ。」
ペラペラとページをめくる彼の手が止まったところは僕の作文があるページだった。
「えーっとなになに? 僕は将来、陸上の選手になってオリンピックに出たいです。」
声に出して読み上げられる数年前の自分の夢はあまりに大胆で向こう見ずなものだったが、小学生らしさで言えば満点だった。
そういえばずっと走るの速いもんね、という彼に「まあな」と笑って見せた。
八月二十四日。世界の終りまであと一週間をきった。
「千寿、来たよ。」
なんだ眠っているのか。人が来ているというのにやっぱりなんとも自由な奴だ、と少し呆れつつ彼の隣に腰を下ろした。
起きろよ、と声をかけてみるけれど、一定のリズムで空気の抜ける音と鳥の鳴き声が続くだけで目を覚ます気配はない。仕方がないのでしばらく本を読んで待っていたけれど、外へ出ていた千寿の両親が戻ってきたのでお暇することにした。
八月三十日。世界の終りまであと二日。
「おーい今日も寝てんのかよ。」
主に放っておかれた向日葵は数日前よりもだいぶ元気をなくしているように見える。
あれから毎日ここへきているものの、相変わらずタイミングが悪いのか彼の昼寝時間に出くわす確率は百パーセントだった。
「そうだ、お前の作文も音読してやるよ。」
千寿の本棚から勝手に取り出した卒業文集の中から彼の作文を探し出す。だけど、彼の作文が書かれていたはずのページは破り取られていて読むことは叶わなかった。
「なんだよ、お前これ恥ずかしかったの?」
その衝動的な行動がおかしくって、思わず涙が出そうなほどに笑ってしまう。
八月三十一日。世界はあまりにも予定通りきっかり今日、八月三十一日に終わりを迎えた。
未練なんて言い出せばきりがないけれど、僕は全て気付かないふりをして目を閉じた。
___九月一日。
目覚まし時計で覚めたものの、まだ開ききらない目を無理やり開けようと冷水で顔を洗う。冷たい。
「お前も、枯れちゃったのか。」
千寿からもらった向日葵も命が尽きたように枯れている。
世界は滅亡した。
確かに世界は終わったはずなのに、今日もみんな変わらずに生きている。こうして朝を迎えている。
千寿だけを例外として。
八月一日。電話越しの相手が涙ながらに伝えたのは、僕の親友で最大の理解者である菊池千寿の余命があとひと月であることだった。
次の日僕は千寿の入院する病院へと向かった。彼の病室のドアを開けようとしたとき、中からは千寿の父親が出てきた。最愛の一人息子の死を前にして彼は今まで見たことがないほどにやつれていた。
千寿自体は今までと変わらぬ笑顔で僕を迎えたが、僕は怖かった。千寿が深刻そうな表情で自分の死を恐れていた時になんて声をかけたらいいのかわからなかったから。だからセミの抜け殻なんて幼稚なものを持って遊びに行くかのような軽い足取りを装ったし、彼の笑顔を見ると単純に安心してしまった。
さらにその次の日に僕は部活へ休部を申し出た。長年の夢である陸上選手に近づける大学からの声掛けがある大会が夏休み中にあった。これを逃せばスカウトという道はほぼ閉ざされる。解っていながら僕は千寿を優先した。部活なんかに時間を費やす場合では、なかったから。
何度も何度もお見舞いに行って、そしてある日は向日葵を受け取った。
後で聞いたけれど、彼が病棟の下の花屋で購入した橙色をした向日葵の花言葉は「未来を見つめて」だという。だから彼の母親は僕の持つ向日葵を見て複雑そうな顔をしたのだろう。
彼が卒業文集を持ち出した時にはドキリとした。「夢」という単語は勝手に禁句だと思っていたから。だから彼が自分のページを破っているのを見つけたときは彼の笑顔が僕や両親のためであったことを再確認する事になった。自分の体が刻一刻と死に迫る中、怖くないはずがないのだ。だから笑っていた彼同様に僕も口角を上げた。
あと一週間を切ったとき、彼の目は開かなくなった。自発的に行われる呼吸も弱いようで、彼の病室に響いていたのは酸素吸入器の音と心電図モニターのピッピッピという音だけだった。
僕にとって千寿のいない世界なんて知らないもので、彼が終わる時が僕にとっても世界が終わる時だと思った。
だけど違った。千寿と、彼の向日葵だけが僕をおいていった。彼のいないこの終わった世界で生きる僕の手の中にはなんにもない。千寿の病気が治る希望も、僕の昔からの夢も、千寿自身も、すべて失った。
確かに世界は終わったんだ。
それでも続いていく。何事もない保証はないけれど、多分あと数十年の毎日が僕には残されているのだ。滅亡したこの世界で。
橙色の向日葵 八瀬蛍 @hotaru_yase
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