第6話

 そんなワケで、来る一限目。件の教育実習生が来るという世界史の授業の始まりで、俺は思わず自分の目を疑った。



「は、はじめまして、杉並千笑すぎなみちえみです」



 緊張でカッチカチに固まりながら俺たちに自己紹介する彼女は、一ヶ月前くらいにふと思い出した近所の娘さん。恥ずかしがり屋で甘えん坊のエミちゃんだった。



「マジかよ」



 思わず呟いてしまった俺を、一体誰が責められるだろうか。まさか、10歳以上離れていたあんなにちっちゃいエミちゃんが、俺より年上になって現れるだなんて。何だか、うまく言葉で言い表せない気持ちになってくる。



 まさしく、感無量ってヤツだ。こんなに立派になって、嬉しいなぁ。



「あの、初めての教育実習で至らない点もあると思いますが、みなさんと一緒に成長していきたいと思います。精一杯頑張りますので、今日から一ヶ月、よろしくお願いします」



 周囲がヒソヒソと話す中、俺は思わずパチパチと拍手をしていた。すると、クラスメイトたちもそれに倣って拍手をし、エミちゃんの緊張もずいぶん薄れたようだ。



 よかったよかった。



「ありがとうございます。それでは、授業を初めます。えっと、16ページからやりましょう」



 エミちゃん。いや、杉並先生は昔と同じ艶のある黒髪を、気合を込めるかのように一本の纏めて、着慣れていないであろう小綺麗なスーツを身に纏っていた。あの頃の気の弱そうな表情が少しだけ垣間見えるが、むしろ初々しくて印象がいい。



 俺的にね。



 しかしながら、女は高校を卒業すると劇的に変わるというのは正しくそのとおりだと思う。お母さんも綺麗な人だったけど、それに似て彼女も綺麗だ。いやはや、町ですれ違っても気が付かなかったかもしれない。



 因みに、杉並先生のお母さんは俺の初恋の相手だったりする。どうでもいいけど。



「つまり、産業革命以前と以後で変わったのは――」



 不覚にも、個人的にちょっと話したいと思ってしまった。最後に会ったのは俺が高校を卒業する前だったから、つもる話もあるのだ。



 いや、つもるのは俺だけだけど。でも、別にいいだろう。



 ……というワケで、昼休みの俺は山火事を察した野ネズミのように二人の甘えん坊から逃げ出すと、職員室へ向かって杉並先生と話をすることにした。



「こんにちは、先生」


「こんにちは、柊さん。今日は、ありがとうね。お陰で緊張が解れたよ」



 恐らく、拍手の件を言ってるのだろう。俺は特に謙遜することもなく、『構いません』と言って申し訳無さそうな顔を諌めた。



「先生、大学はどちらへ行ってたんですか?」


「A大だよ」



 なんと、名門じゃないか。そんないい大学へ言って高校教師を志すとは、奉仕的というか、無欲というか。



「どうして、先生になろうと思ったんですか?」


「昔ね、私に色んな事を教えてくれた人がいたの。その人に憧れていたから」


「その時に、歴史を教えてもらったんですか?」


「うぅん、その人が教えてくれたのは勉強じゃないよ。人の目を見て話す方法とか、無差別に男の子を落とし方とかかなぁ。ふふ」



 ……おや?



「おかしくってさ。大多数にモテるためには、清楚じゃなくて清楚風がいいんだって。日本で受ける料理も、人気があるのは本場のモノよりイタリア風や中華風の日本料理なんだから、受けるのは何でも『風』なんだって。そんな事を教えてくれるお兄さんだったんだ。きゃはは」



 これは、どういうことだ?



「でもね、その時に何だか人にモノを教えるのってカッコいいなって。だから、先生になりたかったんだ。歴史を選んだのは、他に教えられそうな科目がないからだよ」



 言うまでもなく、こいつは俺が先生に教えた事だ。誰とも仲良く出来ないからって、ならば女の子にモテる秘訣を教えて友達を作ったらいいと、そう言って教えたそれっぽい恋愛論だ。



「それを教えてくれた人は、今何をしてるんですか?」


「普通の会社員だよ。この前、久しぶりに会ったの」



 まただ。かーちゃんの時と同じように、中途半端に記憶を共有している。俺がやったワケではないが、俺がやった事を誰かがこの世界に残してくれている。



 一体、どういう事なのだろうか。もしかして、そこを探れば俺が転生した理由も分かるのか?



「エミちゃん。もしよかったら、その人の事を教えて欲しいんだけど」


「……え?」



 クソ、またうっかりした。



「じゃ、なくてですね。その、私も歴史が好きなので。先生に、色々と教えてもらいたなぁっていいますか。産業革命って、結局のところ本当は誰が得したニュースだったのかっていう裏側を語りたいなぁっていいますか。はい」



 適当な事を言って誤魔化した。まぁ、これくらいしか言い訳が見つからなかったからな。



「あ、あぁ、そっか。ふふ、いいよ。私で良ければ、色々と教えてあげる」


「そうですか、助かります」


「でも、びっくりしちゃった。だって、柊さんが急にエミちゃんって呼ぶんだもの。私、そのお兄さんにもエミちゃんって呼ばれてたの」



 だろうね。



「私の知り合いにも同じ名前の子がいるので、親しみやすくてつい呼んでしまいました。失礼で、申し訳ないです」


「いいんだよ。せっかくだから、私はエミちゃん先生って呼んでもらえるように自分の事を紹介するね。ありがとう、廻ちゃん」



 あだ名で呼んだからだろうか、エミちゃんは俺の名前を口にした。それって、先生的にはセーフなのだろうか。他の生徒の前でうっかり口にしないことを祈るばかりだ。



「それに、もう単位はほとんど取り終わってるの。むしろ、私も勉強になるかもしれないから」



 ……ん?



「それは、放課後という事ですか?」


「え? 違うの?」



 てっきり、休み時間に少しくらいだと思っていたが。エミちゃん、友達や恋人との付き合いは大丈夫なのだろうか。



「友達も、みんな就活中だし忙しいんだよ。恋人は、ほら、ね?」



 そうか。周りの男は、本当に見る目がないな。そこらへんでイケメンを取っ捕まえてきて、彼女に一生尽くしてくれるように説得しようか。エミちゃんの好みじゃなければ、その時はポイで。



「では、よろしくお願いします。私も、質問等まとめておきます」


「うん、ありがとう」



 どうやら、エミちゃんは教えるのが好きで仕方ないらしい。頼りにされている事に生き甲斐を感じるのだろうか。この純粋な気持ちが、苦境苦難でひん曲がって意地汚い大人にならない事を祈るばかりだ。



「それでは、私は教室に戻ります」


「午後の授業、頑張ってね」



 そして、エミちゃんは胸の前でグッと手を握って頑張るポーズを取った。昔、俺によく見せてくれたあのポーズだ。



 だから、俺も無意識的に、あの頃と同じようにその手を両手で包んでしまった。一瞬震えた俺を見るエミちゃんの表情は、驚きから安心へと変わり。



「えへへ」



 静かに、恥ずかしそうに、無邪気に笑った。



「どこ行ってたの?」



 教室に戻ると、開口一番で花菱さんに聞かれた。自分と俺の机をくっつけて、楠田さんと二人で待っていたらしい。



「職員室です」


「ふぅん。すぐ帰ってくると思って、ご飯食べないで待ってたんだよ? なんで教えてくれなかったの?」


「すみません」


「ねぇ、操。酷いよね? 心配するよね?」


「うん」


「すみません」



 なぜ、俺が謝らなければいけないのか。なぜ、二人はいつの間にか結託しているのか。なぜ、この子たちは当たり前のように腕に抱き着いてくるのか。



 そのどれもが、さっぱり分からなかった。

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