は?

亜逸

は?

「は?」


 カイーナの口から、子爵家の令嬢とは思えないほどにドスの利いた吐息が漏れる。

 彼女にそんな吐息を吐かせた公爵家の長男トロメアは、整った容貌に楽しげな笑みを貼り付けながらも、先程言った言葉をもう一度繰り返した。


「だから、僕はこう言っているのだよ。君と交わした契約婚約を破棄すると」


 カイーナとトロメアの二人しかいない部屋が、沈黙に満ちる。


 今トロメアが言ったとおり、二人は契約婚約交わした間柄だった。

 そして、契約婚約そんなものを交わしたことには、当然それ相応の理由がある。


 カイーナは見た目こそ美人なだが、貴族の令嬢とは思えないほどに粗野な言動のせいで嫁のもらい手が皆無だった。

 そのことを父にガミガミに言われることに、心底辟易していた。。


 トロメアは容姿性格ともに完璧で、この国の王子様よりも王子様に見えると言われているが、それゆえに言い寄ってくる淑女と、縁談を持ちかけてくる貴族家当主の数がとんでもないことになっており、そのことに心底辟易していた。


 カイーナは、現状は誰かと婚約を結びたいとか、男が欲しいとかは思っていなかったが、父を黙らせるための〝相手〟が欲しかった。


 トロメアも、今はまだ公爵家の次期当主として己を磨きたかったため、誰かと婚約を結びたいとか、女が欲しいとかは思っていなかったが、言い寄ってくる淑女と縁談を持ちかけてくる貴族家当主を黙らせるための〝相手〟が欲しかった。


 そうして二人は自身の要望を叶える〝相手〟を捜し……互いに行き着き、利害が一致していることを確認した上で契約婚約を交わしたのであった。

 そしてトロメアは、苦労して見つけた〝相手〟との契約婚約を、破棄したいと言っているのだ。


 カイーナは苛立ちを吐き出すように深々とため息をつくと、ぶっきらぼうにトロメアに訊ねる。


「理由、聞かせろや」

「なに。少し考えればわかることだよ」

「わかんねぇから訊いてんだろが。勿体ぶらずに、さっさと教えろや」


 トロメアは肩をすくめると、言われたとおりに直截ちょくさいに答えた。


「好きな女性ひとができた。それだけさ」


 その言葉を聞いた瞬間、カイーナの胸に刺すような痛みが走る。


「へ、へぇ~。それなら、しゃあねぇな」


 と答える声音は、微妙に裏返っていた。


(おいおい待て待てなんだよこれ!? なんであたし、こいつに好きな女ができたって言われたことにショックを受けてんだよ!?)


 はっきり言って、トロメアはカイーナの趣味ではない。

 なぜならカイーナは、王子様然とした男よりも、漢と書いて「おとこ」と呼ぶ男が好みだからだ。

 にもかかわらず、好きな女性ができたと聞いてショックを受けている。

 そんな自分に、ただただ困惑していた。


(……いや、確かにまぁ、こいつはそんな悪い奴じゃねぇっつうか……むしろ良い奴なくらいだけど……)


 契約婚約である以上、周囲にそれっぽく見せなければならない場面は幾度となくあった。

 何ならデートっぽいことだってやった。

 その全てが――本当にマジで心の底から不覚だが――思いのほか楽しかった。


 だから、なのかもしれない。

 いつの間にか、自分でも気づかない内に、トロメアのことを異性として好きになっていたのかもしれない。


(……ハッ。今さらって話だよな)


 一瞬、自嘲めいた笑みを浮かべるも、すぐに勝ち気な笑みに上書きして、トロメアの肩をバシバシと叩く。


「良かったじゃねぇか! 好きな女ができてよ! で、誰なんだよ? 王子様よりも王子様なお前に見初められた幸せもんは?」


 ヤケクソ気味な問いに対し、トロメアは答えようとはせず、ただ黙って自身の懐に手を伸ばす。

 ほどなくして出てきたのは、指輪だった。


「お? もう指輪まで用意してんのか。相変わらずそつがねぇな」


 微妙に引きつった笑みを浮かべながらも、引き続きヤケクソ気味になっているカイーナの左手を、トロメアは掴み取る。


「……へ?」


 と、間の抜けた吐息を漏らすカイーナには構わず、トロメアはその手に持っていた指輪を彼女の薬指に嵌めた。


「……よかった」

「……待て。よかったじゃねぇよ」

「ピッタリだ」

「いやいや。ピッタリだじゃねぇよ。こいつはいったい全体どういうことだよ!?」

「見てのとおり、好きな女性ひとの指に婚約指輪を嵌めただけさ」


 トロメアの言っていることがすぐには理解できず、カイーナはたっぷりと一分近くフリーズしてしまう。


 そして、


「はぁあぁぁああぁぁあぁぁぁあぁあぁッ!?」


 これ以上ないほどに取り乱した「は?」を、部屋中に轟かせた。


「おおおおおお前まさか、あたしんことからかってんじゃねぇだろな!?」

「からかってなんかいないさ」

「じゃじゃじゃじゃじゃあ! あたしのどこに惚れたんだよ!?」

「周りにはがさつに思われているけど、その実誰よりも気配り上手なところとか」

「ああああたしのどこが気配り上手なんだよ!?」

「社交界デビューしたての子に声をかけてあげたり、不当な扱いを受けている人を見かけたら絡んでる風に見せかけて助け船を出してあげたり」

「そそそそんなことあたしはやってねぇ! やってたとしても、たまたまそんな風に見えてただけだ!」


 力一杯否定するも、頬に朱が差し込んでいるせいでまるで説得力がなかった。


「君の素敵なところは、まだまだあるよ。ぶっきらぼうに見えて優しかったり、粗暴に見えて実は礼儀作法が完璧だったり」

「やめろぉぉぉぉぉっ!! マジでやめろぉぉぉおおぉおっ!!」

「褒められ慣れてなくて、今みたいに顔を真っ赤にして否定しているところとかが最高に可愛かったり」

「~~~~~~~~~~っ!!」


 声にならない悲鳴を上げたカイーナは、真っ赤になった顔をそのままに「ぜぇはぁぜぇはぁ」と荒い呼吸を繰り返す。


 そんな彼女を、トロメアはニコニコしながら見守っていた。


「………………………………マジで、あたしでいいのかよ?」


 蚊の鳴くような声で、カイーナ。

 しっかりと聞き取っていたトロメアは、笑顔をそのままに首肯を返す。


「契約婚約じゃなくて、ちゃんとした婚約を君と結びたいんだ」

「だから、契約婚約を破棄したいっったのか?」

「ああ。勿論、君が嫌だと言ったら大人しく……はできそうにないから、一旦は引き下がるつもりではいるけど」


 断られても諦めるつもりはない――そんな想いがひしひしと伝わってくる言葉が、決定打だった。


 耳まで真っ赤っかになったカイーナは、たっぷりと一分近く口元をもにょにょさせてから、蚊の鳴き声よりも小さな声で言う。


「……別に、嫌だなんて言ってねぇだろ」




























「……ごめん。よく聞こえなかったからもう一回」


 しかし、さすがに声が小さすぎたらしく。

 トロメアが真顔で催促してくる。

 もう一度、小っ恥ずかしい台詞を言うハメになってしまった事実に、カイーナは真っ赤っかになっていた顔を真紅に染めながら項垂れた。


 その後――


 散々もだもだしたカイーナがヤケクソ気味に先と同じ言葉を叫んだのは、実に三〇分の時が過ぎてからのことだった。

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