第16話 鳥は卵の中から抜け出ようと戦う

 西武柳沢駅から自宅までの道をひた走る。運良く、途中の横断歩道や踏切で一時停止を食らうことなく、帰路を走り続けることが出来ている。おかげで私の肺と足が悲鳴を上げているが、今だけはどうか耐えきってくれ。がんばれ私の心肺と両足。

 そろそろ自宅の屋根が見えてくる程度までたどり着いたところで、少し離れた場所からピカピカッと光が放たれるのが見えた。

「……っ!」

 まさか、と思いながらも足を止め、光線が見えた方向を見つめる。肩で息をせざるをえないほどの荒い呼吸を落ち着けながら、しばらく立ち止まってその方角を見つめていると、程なくしてまた強い光が放たれるとともにかすかな銃撃音も聞こえてきた。

(あっちは……東伏見稲荷の方向か……!)

 目的地を自宅から、東伏見稲荷神社へと変更し、再び走り出す。

 東伏見公園を突っ切って、稲荷神社へと向かう。

 走りながらポケットから端末を取り出し、赤いボタンを押してスピーカー部分を耳にあてる。

 東伏見稲荷からドォン、という音が聞こえてくると同時に、スピーカーからも同じ音が聞こえてきた。

(やっぱり……!)

 端末をしまい、青々とした芝生の中を駆け抜け、公園から神社へ続く道へとつながる階段を駆け下りる。

 足がもつれて転びそうになり、階段を踏み外しかけて慌てて手すりをつかむ。深呼吸し、息と体勢を整える。


 ――― ご無事ですか?マスター ―――


(α……っ!)

 αを、拾った時のことを思い出す。あの時も、それから何度も、αに助けられてきた。

 今度は、私が助ける番だ。

 東伏見稲荷神社の鳥居をくぐり、階段を駆け上がる。階段を上がるにつれ、音と光が近くなる。

 神社の境内で、何をしているのだあいつらは。人気のない場所を選んだのだろうが、神社の境内は決してバトルステージではない。

 階段を上りきった2つ目の鳥居の下で、疲労でガクガク震える膝に手をあてて、ゼエゼエとうるさい息を整える。

 よし、そろそろいけるなとパッと正面を見た瞬間、何かがチュインと顔の右横をすり抜けて飛んでいった。すぐあとから強い風が吹き抜けて右側の髪の毛がバサバサとなびいて宙におどる。数本の髪に「何か」がかすったようで、タンパク質が焦げる嫌なにおいが漂う。

(……ッ!?クソ危ねえ……!)

 弾丸と熱光線が飛び交う境内は戦場と化していた。その中に飛び出すと真っ先に私がKIA(Killed In Action)してしまいそうだったので、ひとまず鳥居の柱の影に身をかくして止めに入る隙をうかがう。

 案の定、境内にはαと七瀬の姿があった。ただ、八宮が見当たらない。しかし八宮と繋がっている端末はこの場所の音を拾っていたので、きっと八宮も境内のどこかにいるのだろう。

 αと七瀬の動きが早すぎて、所々肉眼では追いつけず何が起きているのか分からない瞬間があるが、どうにも彼らは激しく交戦しているようだった。

 αに関しては今まで何度もその高い戦闘能力を目の当たりにしていたから彼女の強さは承知の上だが、七瀬が、そんなαとほぼ互角かそれ以上の動きを見せていることに驚愕する。

 おっとりと頬笑む七瀬の印象からは、全く想像がつかない姿だった。

 七瀬は、今まで見たことがないような装備を身につけ、肩にかけたホルダーから数種類の武器を瞬時にとりかえながらαに応戦していた。

 3~5メートルほどの高さを普通に跳躍して縦横無尽に動き攻撃をしかけるαに対し、七瀬も足に取り付けた装備の力か、同じくらいの高さを軽々と飛び跳ね、お互い一歩も譲らぬ戦いを繰り広げていた。

 政府保有の戦闘アンドロイド達を片手で易々と撃破したαと、これだけ互角に渡り合える七瀬は一体何者なのだろうか。

(互角どころか、七瀬の方が押してるような……。てか、α、前見た時よりちょっと動きが遅くなってないか?……あっ!)

 αが、七瀬の撃った光線銃を避けそこない、右腕で光線をうけて身体をかばい神社の屋根の上に着地した。

 右腕を覆っていた黒のスーツの肘から下の部分と、その内側の擬似性皮膚が焼け焦げ、機械部が露出する。

 そして、αが動きを止めたことで、今まで不明だった八宮の居場所が分かった。

(あいつ……!八宮を抱えたまま戦ってたのか……!)

 屋根の上に着地し足を止めて七瀬を見つめているαの左腕には、八宮が丸太のように抱えられていた。

 どうやら気を失っているらしく、八宮の両手両足とともに頭もだらんとぶら下げられた状態で、胴をαに抱えられている。

 おそらく、αは七瀬から八宮をかばいながら戦わざるをえない状況に追い込まれたのだろう。

 八宮にはαほどの戦闘力はない。一般的な成人男性より少し力が強いだけの、介護用アンドロイドだ。もしかしたら七瀬から真っ先に狙われたのは、八宮だったのかもしれない。

(なるほどな……)

 スカートの上から、ポケットに入れた端末を指で触れる。

 だから、いくらボタンを押しても八宮と繋がらないわけだ。八宮自身が意識を失っているのだから。

 αは右腕を損傷したにも関わらず、涼しげな顔で黒髪を風になびかせている。

 そして、おもむろに右手を上げ、七瀬へ向けた。

 七瀬も銃を構え、応戦する体勢を取る。

 両者の間に緊張の一瞬が流れ、先に七瀬が動いた。

 αに向かって、光線銃を乱射する。

 αはそれを避けようともせず、七瀬に向かって右手のひらをかざし続ける。

(α……、一体何を?……っ!)

 αの右手のひらから出た銃口と、先ほどの攻撃で露出した機械部から強い光が漏れ出しはじめた。

――― パワーを溜めて攻撃するつもりなんだ ―――

 そう直感して、ハッとする。

 七瀬は生身だ。

 いくら装備を身につけているからといって、あんな、αのフルパワー砲をくらって無事でいられる訳がない。

 思わず身体が動いて、その場に飛び出していた。七瀬を背にかばうように、αの前に立ちふさがる。

「!、マスター」

「羊子ちゃん!?」

 私に気づいたαと七瀬が声を上げる。

 七瀬に狙いを定めていたαが、とっさに右手をずらす。しかし、それくらいではαの攻撃範囲からは逃れることはできず、αの放ったエネルギー弾が、七瀬と私のいたあたり3メートル四方を焼き尽くす。

 目をつむっていても感じる強烈な閃光で視野が真っ白になり、(終わったな、私の人生……)と意識が遠くなりかけた。しかし、耳元で聞こえてきた七瀬の声に意識が再浮上する。

「大丈夫!?羊子ちゃん!」

 目を開けると、すぐ近くに心配そうな七瀬の顔。そして目下には瓦葺きの屋根。何の痛みもない、怪我一つない自分の身体。

 どうやら、七瀬が私を後ろから抱えてαの攻撃を避けたようだった。

 それにしても、身長は私の方が低いとはいえ同い年の女子を一人、片手で持ち上げられる七瀬の腕力に驚く。足部分は完全に装甲に覆われているが(人間離れした跳躍力はこの装甲の賜物だろう)、腕部分の装備は機動性を重視しているのか、薄めだ。七瀬の白くて華奢な腕のどこに、こんな力が隠されていたのだろうか。

 七瀬の腕をぼんやりと見ていたが、ハッと我に返る。

「なっ、七瀬こそ!大丈夫か!?」

 とりいそぎ、七瀬の様子を目でざっと確認する。パッと見、小さな怪我やかすり傷はあるものの、大けがをしている様子はなくホッと胸をなで下ろす。

 七瀬も同様に私の怪我の有無を確認していたようで、私がノーダメージなことが分かると、ふうと一つため息をついた。

「羊子ちゃん……!こんな危ないことしちゃだめだよ。羊子ちゃんは女の子なんだから」

 七瀬がさとすように私に言う。

 ……はい?

 ”女の子だから”、何だって?

 誰が、どの立場から、何に向かって言う言葉だ?それは。

 少なくとも、さっきまで激しくアンドロイドと交戦していた女子が、同い年の女子に向かって言う台詞ではない。

「七瀬だって、女の子だろ!?」

「…………」

 七瀬は答えず、私を抱えたまま屋根から飛び降りて石畳の上に着地する。そして、私をそっと地面へとおろした。

「マスター」

 αの声が聞こえた。振り向くと、すぐ側までαが歩み寄ってきていた。

「彼から距離を取ってください。彼は貴女の『監視者』です」

 ツッコミどころが多すぎて、どこからツッコむべきか迷ってしまう。

 「彼」?「監視者」?一体何のことだ?

「『監視』だけじゃなくて、羊子ちゃんの『護衛』も僕の役目だよ、S.F.S.N-t0001.L0708-α」

 私を挟んで、αと七瀬が対峙する。

「私は貴方と初対面のはずですが」

 αはそう言って首を傾げる。

 は?今サラッと流してたけど、七瀬の一人称変わってなかったか?「僕」……?え?

「「僕」もね。でも”僕”は、君のこと、よく知ってるよ」

 混乱している私を置き去りにしたまま、αと七瀬の謎かけ合戦のような会話は進んでゆく。

「ちょ……ちょっと待ったあ!」

 真ん中で、私が叫ぶ。

「な…七瀬は女の子だろ!?どういうことだよ!」

「…………」

 七瀬は答えない。αが口を開く。

「彼は、生物学的には男性です」

 ハ……ハアアアア!?

 あまりに驚きすぎると声も出ないと言うことを、この時私は初めて知った。声は出ないものの、口が何か言葉を紡ごうとしてパクパクと開閉する。声にならない声が、ヒュウと喉の奥から空気とともにこぼれ落ちる。

 まあ思い返してみれば、確かに七瀬は女子にしては声が低めだったり力が強かったり、胸も全然なかったりしたけれど、それらの要素だって全く「女子」の範疇を出るほどのものではない。

 それどころか、そういった「女子らしくない」要素を補ってあまりあるほど、その他の要素が非常に「女子」なのだ。華奢な体躯、長い睫毛、黒目がちでウルウルした大きな瞳、小さな桃色の唇、透けるようなきめ細やかな白い肌、柔らかく風になびく色素の薄い髪……。

 七瀬は女子の中でも「The・女の子」と言っていいほど、どこからどう見ても完璧に美少女なのである。

 そんな七瀬が男だと!?

 初等科1年の頃から、9年分の記憶を思い出して手探りしてみるが、「もしかして男では……?」と思うような気配も兆候も一切なかった。

 あえて言うなら、今まで七瀬の全裸を見たことはない。

 ないけれど、友人の裸なんてそうそう見る機会もなければ、見たいという願望もないし、見る必要だってない。

 「裸を見たことがない=男じゃないかと疑う」という図式なんて、とてもじゃないが成立しない。

「羊子ちゃん」

 七瀬から声をかけられ、そちらへ振り向く。 七瀬を改めてまじまじと観察するが、やっぱり、どうあがいても可愛い。

 コレが男だというのなら、「美少女」という概念が根底からひっくり返ってしまいそうだ。

「S.F.S.N-t0001.L0708-αは……、羊子ちゃんが「α」と呼んでるそのアンドロイドは、D.E.Nの内の一体だよ。破壊しなきゃいけないんだ」

「なっ……!で、でも、シリアルナンバーが違うじゃないか!αは「D.E.Nシリーズ」じゃなくて……!」

 七瀬が、首を横に振る。その表情は真剣で、とてもじゃないが冗談を言っているようには見えなかった。

「エレクトロ博士が”博士(Dr.)”になる前に創られて、個人へ贈られたオリジナル作品だからシリアルナンバーが違うだけで、歴とした「D.E.Nシリーズ」の1体なんだよ。……一番最初の、ね」

 そう言って、七瀬が光線銃をαに向けて構え直す。

 αも応ずるように右手を七瀬の方へ向ける。

「無駄だよ、S.F.S.N-t0001.L0708-α。君には”「僕」”を傷つけることは出来ない」

 七瀬の水色の瞳は、静かな確信に満ちていた。

「君は、僕からの攻撃を、攻撃することで防ぐことは出来ても、直接的な『僕への攻撃』は出来なかったんじゃない?君自身、もう分かってるはずだよ」

「…………」

 αは答えない。しかしその沈黙が、七瀬の読みが当たっていることを肯定していた。

 先ほどの戦いも、私の目からはαと七瀬が互角に”戦って”いるように見えたが実際には、αは防戦一方だったのだろうか。

 もしかしたら、だからこそ七瀬は『七瀬を攻撃可能な』八宮を、真っ先に狙って行動不能にしたのかもしれない。

「僕の任務は、羊子ちゃんの『監視』と『護衛』だからね。羊子ちゃんの側の危険物は、排除しなくちゃ」

「そんな……、別にαも八宮も、危険なんかじゃないぞ!?悪い奴らでもないし……!」

 七瀬の視線が、αから私へと向けられる。

「だって、その子達のためでしょ?羊子ちゃんが”本当のこと”なんて知りたがるのは」

「……!」

 七瀬のアクアマリンの瞳が、どこまでも見透かすように私を見つめる。

「羊子ちゃんは誰かを傷つけるようなこと、嫌いだもの。そんな羊子ちゃんが『僕を傷つけて友情を壊すかもしれない』行動を取るなんて、自分以外の誰かのためだよね?」

 七瀬の湖面のような瞳に、図星をつかれて戸惑い、立ちつくす私がうつっている。

「その子達さえいなくなれば、羊子ちゃんは『真実』なんて知る必要なくなるよね?その子達が、羊子ちゃんの優しさにつけ込んで、羊子ちゃんを危険な目に遭わせてるんだよね?」

 七瀬の視線が、再び私からαへと向けられる。αと八宮に向けて、七瀬は手にした光線銃を構える。

「悪いのは、その子達だもの」

 七瀬の白魚のようなほっそりした指が、いかつい光線銃のトリガーにかけられる。

(ヤバいって、絶体絶命のピンチじゃん……!どうする……!?考えろ……考えろ考えろ考えろ……!)

 このまま何もできずにいたら、確実にαは破壊される。


【Q,七瀬を傷つけず、αも助ける方法は?】


【A1,八宮がタイミング良く覚醒し、助けてくれる】

【A2,他のD.E.Nシリーズが颯爽と現れ、助けてくれる】

【A3,助けなど来ない。αは破壊される】


 八宮はいまだぐったりと意識を失ったままαに抱えられており、都合良く助けに来てくれる「誰か」のあてもない。

 αに「逃げろ」と命じても、きっと七瀬はすぐに追いかけてαを破壊するだろう。

 言うまでもなく、ごく一般的なただの人間の私には七瀬に対抗できる力などない。瞬殺どころか、相手にすらされないだろう。

(考えろ考えろ考えろ考えろ……!)

 脳みそをフル回転させる。

 七瀬の指の動きがスローモーションのように見える。

――― 今動ける人物、そして助けに来られる人物、七瀬を止められる力のある人物……―――

 七瀬が引き金を引こうと指に力を込めたその瞬間、私はαの腕の中に飛び込んで彼女の右腕を掴み、銃口を自分のこめかみに押し当てた。

「……!羊子ちゃん……!?」

「い、いいい良いか!αを攻撃したら、αが私の頭をぶっとばすぞ!?」

 七瀬が驚いた表情で、動きを止める。

 αは無表情に腕の中の私を見下ろしているが、掴んだ右腕が小刻みに揺れ、αの動揺が伝わってくる。

 

【Q,七瀬を傷つけず、αを助ける方法は?】

【A4,電木羊子が、αの人質になる】


 誰も助けになど来ない、誰も頼りに出来ない状況で、唯一思い通りに動かせるのは「自分」という駒だけだった。

(どうだ……?どう動く……七瀬?)

 とんでもない博打だ。こめかみから冷や汗が流れ落ちる。 

 しかし狙い通り、七瀬の、αへの攻撃は止まった。どうやら思った通りのようだ。

 αにかけられている制約は『七瀬を攻撃できない』というものであって、『人間を攻撃できない』というものではないようだ。

 ならば十分、この手段は有効だ。

「この場は見逃せ!七瀬!このままαと八宮を破壊するって言うなら、その前にαが私の息の根を止めるぞ!」

 先ほど、七瀬自身が言っていた七瀬の「任務」には私の「護衛」も含まれていたはずだ。 つまり、私をαに殺されてはまずい七瀬は、こちらの要求をのまざるをえないだろう。

「マスター……」

 頭上から、αの困惑した声が聞こえてくる。 マズいな。コイツがこんな様子では、この行為が七瀬への「脅し」として通用するものもしなくなってしまう。

「αア!」

 覚悟を決めて、腹から声を出す。

 αの右腕を掴む手にグッと力を入れ、私の本気をαに伝える。

「命令だ!七瀬が攻撃してきたら、私の頭を撃ち抜け!」

「…………命令を復唱。”七瀬天満が攻撃を開始した場合、マスターの頭部を銃撃”。承知いたしました。……実行に、移します」

 αの右腕を掴んでいる手のひらと、銃口があてられているこめかみに熱を感じる。

 忠実なαが、私の命令通りに動いてくれている証だ。すぐにでも私を撃てるよう、エネルギーを充填しているのだろう。

「……分かった。羊子ちゃん、今日は僕の負けだよ」

 七瀬が銃をおろして、肩をすくめて見せる。 αが即座に私のこめかみから右手を離そうとするが、その手をつかんで止める。銃口を私につきつけさせつづける。

 万が一、今のが私達を油断させるための七瀬の演技だとしたら、たまらない。

 完全に撤退できたと確信が持てるまで、この「脅迫」を続けた方が無難だろう。

 七瀬が悲しげに頬笑む。

「「私」のこと、もう、そんなに信用できなくなっちゃった……?羊子ちゃん」

「…………」

 答えられず、無言で返す。

 七瀬のことは、信じたい。

 けれど、今までずっと「誰より仲のいい」「親友」の「美少女」だと思っていた相手が、実は自分の「監視者」かつ「護衛」をしていた「男の子」だと判明した今、その相手……七瀬の何を信じればいいのか分からない。

 9年間女子としてふるまい続け、ボロを出さなかった演技力と胆力は賞賛に値する。でも、だからこそ、七瀬と過ごしてきた9年間のすべてが演技だったのではないかと疑ってしまう。

 今目の前にある七瀬の寂しげな微笑すら、私の情に訴えて油断させるため計算された、演技なのではとすら思ってしまうのだ。

「……α、八宮を連れてここから離れるぞ。さっきの命令は、そのまま継続しつつ、だ」

「承知いたしました」

 αが私を右腕に抱える。

 「ここから離れる」とは言ったものの、どこへ向かえばいいだろうか。七瀬は先ほど「今日は僕の負け」と言っていた。「今日は」ということは、また次回があるのかもしれない。と、言うことは、自宅や学校へ向かったところで、また七瀬から襲撃されるのを待つだけかもしれない。

「……羊子ちゃん」

 八宮と私を抱えたαが東伏見稲荷の境内を出ようと鳥居をくぐろうとしたところで、後ろから七瀬の声がした。

 αが、指示をあおぐように私を見る。

「いい。はやくここを離れるぞ」

 首を横に振り、立ち止まらずに歩を進めるようαを促す。

 階段を降りる私達の背に、おそらくまだ境内にいるのだろう、少し離れたところから七瀬の声が投げかけられる。

「S.F.S.N-t0001.L0708-αが、意識を取り戻した最初の場所へ向かうといいよ。そこで、羊子ちゃんが知りたがっていることが全部、分かると思う」

「……!」

 罠だろうか。そんな思いがよぎる。

 αは私の命じたとおり、振り返らず立ち止まらず、淡々と歩を進めていく。

「本当は、「僕」から羊子ちゃんに伝えたかったけど、もう「僕」のこと、信じられないよね」

 αに運ばれている私の耳から、七瀬の寂しげな声がどんどん遠ざかってゆく。

「ごめんね羊子ちゃん。でも、僕が羊子ちゃんのこと大好きなのは、本当に、本当のことだから。……バイバイ」


 ――― またね、羊子ちゃん ―――

 ――― 羊子ちゃん、また明日 ―――

 ――― また月曜に。羊子ちゃん ―――  


 七瀬と別れる時は、いつも「また」次に会えることを前提にして、私達は手を振り合っていた。

 「バイバイ」と口にした七瀬の声があまりにも心細そうで、頼りなげで、思わず私はαの腕の中で身をよじって、うしろを振り返った。

 私達はすでに階段をくだりきり、一つ目の鳥居をくぐるところまで来ていた。

 目をこらしたが、すでに境内の中は見えない距離まで離れており、七瀬の姿も見えなかった。

「……七瀬!」

 境内まで聞こえるよう、私は叫んだ。

「”また”な!」

 αは淡々と歩を進めてゆく。

 八宮はまだ意識を取り戻さず、αの左腕に抱えられている。


 七瀬からの返事は、返ってこなかった。

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