第14話 二人が睦まじくいるためには愚かでいるほうが良かった
昨日の雨から一転して、スッキリと晴れた土曜の朝。私は一人、七瀬の家の前まで来ていた。
七瀬の家は東伏見公園の近くにある。今は休日の朝、犬の散歩などで公園へ向かう人がちらほらと道を行き交う。
うちと似たような造りの一戸建ての玄関ベルを押すか押すまいか逡巡して、10分近く玄関前に立ち尽くしている私の姿は十分不審者に見えるだろう。時折行き交う人の視線を感じながら、私は玄関ベルに右手の人差し指を伸ばしたり、引っ込めたり、もう一度伸ばした指先を今度は丸めてみたりと、中々覚悟が決まらなかった。
これから尋ねようとしている質問を七瀬にぶつけたら、もう後戻りはできないと分かっているからだ。
昨日八宮とαに話したとおり、私はグレーのものをグレーにしておくことが、必ずしも間違いだとは思っていない。
そうした”グレーの日常”の上に成り立っていた七瀬と私の関係は、白黒ハッキリさせた途端に崩れ去るだろう。
それが”正解”なのか確信が持てず、七瀬を悲しませるだけの結果に繋がってしまったらと想像すると、玄関ベルに伸ばした指先を引っ込めてこのまま帰ってしまおうかとすら思う。
けれど、私にはすでに一つ、心に決めたことがある。
αを必ず彼女の、本当のマスターの元へ送り届ける。
αを拾ってから彼女と過ごしたのは1ヶ月ほど。七瀬と過ごした9年間に比べるとずっと短いが、αには何度も助けられた。
ポンコツな私の命の恩人であり、八宮を助け出すときには強力な助っ人であり、そして今となっては、不器用だけれどまっすぐな、私の大切な友人だ。
結局、”正解かどうか”よりも、”自分がどうしたいか”の方が大事だ。自分の行動の正解不正解なんて、今決まるものじゃないしすぐには分からない。ずっと先になってから分かる、言ってしまえば結果論だ。
そして私は、今の平穏な日々の現状維持よりも、αのために真実を知りたいと思って、七瀬の元へ訪れている。
深呼吸して、グッと腹に力を込める。迷いを振り切り、勢いをつけて七瀬の家のチャイムを押す。
―― ピンポーン ――
軽やかな音が七瀬の家に響いた。
モニターに私が映っているのが見えたのだろう。インターホンに出ることもなく、しばらく待っているとパタパタと足音がして七瀬が玄関のドアを開いた。
「どうしたの、羊子ちゃん?」
七瀬がふんわりと首を傾げる。
「遊びに来てくれたの?最近忙しくて、学校であんまり話せなくてごめんね。どうぞ上がって。今お茶とお菓子を用意するから……」
七瀬はにっこりと頬笑んで、家の中へ私を招き入れようとする。あまりにもいつも通りの七瀬の様子に決意が少し揺らいだが、もう一度腹に力を入れてその場に踏みとどまる。家の中に入ろうとこちらに背を向けた七瀬に声をかけて引き留める。
「いや、ここで良いよ。七瀬。少し話せるか?」
「…………羊子ちゃん。その話、今じゃなきゃダメ?」
七瀬はこちらに背を向けたまま答えた。声はいつも通りの落ち着いた優しいトーンだが、表情が覗えないため七瀬の感情が読み取れない。
「七瀬、あのな、私の……」
「羊子ちゃん」
七瀬はこちらに背を向けたまま、私の言葉を遮った。
何故だろうか、七瀬の後ろ姿にピリリとした緊張感が走り私は口をつぐんだ。
「私、羊子ちゃんのこと、本当に大好きなんだ。羊子ちゃんの真っ白な髪も。羊子ちゃんのウサギみたいな赤い目も。羊子ちゃんの口の悪さも。羊子ちゃんの、気が強そうに見えて実は傷つきやすいところも。羊子ちゃんの、一見他人に無関心で冷たそうに見えて、誰よりも情に厚いところも。羊子ちゃんの、本当は優しくて、自分より他人を優先させちゃうところも」
「七瀬……」
「お願い、羊子ちゃん。今のままじゃダメかな?今まで通り私と一緒に学校に行って、3年後には付属の大学へ進学して、普通に、平穏に、何事もなく日々を過ごすのはいけないこと?ねえ羊子ちゃん。羊子ちゃんが『私にしたい話』なんて、『ない』よね?」
七瀬の言外の圧に気圧されてつい息をのむ。
七瀬は、きっともう私が聞こうとしている質問の内容なんて、とっくに察しているのだ。さすが私マスター。七瀬が私より私に詳しいことについては定評がある。
そして七瀬は優しいから、私に逃げ道を与えてくれている。このまま何も聞かずに帰れば、今まで通り真実をグレーに濁したまま、何にも気づかないふりをして平和な日常を続けていける。そんな選択肢を七瀬は提示してくれているのだ。
こちらを振り向いた七瀬の水色の瞳が、深い湖の湖面のように揺れてキラキラと光を反射した。
――― あ、泣きそうだ ―――
七瀬の口元はゆるやかな弧を描いており、その表情は一見「優しく頬笑んで」いる。
しかし大きな目には薄く水の膜がはっており、いつもとは光の入り方が違う。それに頬笑んでいるように見える唇は、左端だけえくぼが出来ており、無意識だろうが不均衡に力を入れていることが分かる。何かを我慢したり、こらえている時の七瀬の癖だ。
七瀬が「私マスター」であるのと同様に、私だって大概「七瀬マスター」だ。
七瀬は優等生かつ美少女だ。常に「穏やか」で「優しく」、「落ち着いている」と周囲からの評価が高いが、実は結構、感情の起伏がはっきりしている。
私と話す時の七瀬は、笑ったり、すねたり、むくれたり、ふてくされたりと感情の変化が顕著で分かりやすい。だが他人と接する時の七瀬は、確かにいつもニコニコと頬笑んでいるだけだ。実際、そんな七瀬はいつも穏やかで落ち着いた雰囲気に見えるはずだ。どうにも「笑顔」という仮面をつけて他人と接しているようだ。
しかし、私には分かる。
いつも同じように見える「笑顔」でも、その時々によって微妙に違っている。
瞳の光の入り方や、眉の角度、口角の上がり方、視線の動かし方……。
9年間、ずっと七瀬と一緒にいたのだ。すぐ側で七瀬を見てきたのだ。いやでも七瀬の癖だったり、そのわかりにくい表情の奥の本当の気持ちも読み取れるようになってくる。
いや、違う。正確には、「いやでも」という言い方には語弊がある。「好きだから」だ。
私だって、七瀬が大好きだ。
七瀬のやわらかくて透き通るような薄い亜麻色の髪も。キラキラ光る水色の瞳も。私のワガママを困ったように笑いながらも「羊子ちゃんてば」と許してくれる落ち着いたアルトの声も。華奢で儚げな雰囲気だけれど、実は芯が強いしっかり者なところも。本音を笑顔で隠す、少し臆病なところも。
全部、大好きだ。
七瀬は文武両道パーフェクト美少女だが、本当はパーフェクトじゃない。欠点だってちゃんとある。すぐ怒るしすぐスネるし、結構しつこい。でもそんな欠点だって七瀬の魅力だ。
七瀬の涙なんて見たくない。悲しい顔をさせるのは心底嫌だ。
泣きそうな顔で無理に笑って見せる七瀬を目の前にして、とっさに口が開き「何でもない」と動きそうになる。
「…………ッ」
しかし私は開いた口をゆっくりと閉じて、一度出かかった言葉を飲み込んだ。
「……七瀬」
苦しそうに頬笑む七瀬の顔を見ていられなくてうつむいた。自分の靴の先を見ながら声を絞り出す。
「……ごめん。でも、知らなきゃならないんだ。七瀬、私のことについて、私の家族のことについて、隠していることがあるんじゃないか?あったら教えてほしい……」
私は顔を上げられないまま七瀬に問いかけた。七瀬を悲しませることを分かった上で、『平和な現状維持』という選択肢を破り捨てた罪悪感が胸を締め付ける。
それでも。問いをなげかけたことに対しての後悔はなかった。
シン、と空気が静まりかえる。
それから何分か、永遠とも思えるほどの沈黙が私と七瀬の間に流れた。七瀬からの反応が返ってこず、私は様子をうかがうようにそろそろと視線をあげた。すると、七瀬の両手が固く握りしめられ震えているのが見えた。
(ヤバい、泣かせた……!)
焦る気持ちのままガバッと顔を一気に上げて七瀬を見ると、七瀬は泣いてはいなかった。目の前の幼なじみは今まで見たことがない表情で肩をいからせ、強く握りしめた手を震わせて立っていた。
普段は光が灯っているかのような明るい水色の目を暗く翳らせ、ストンと表情が抜け落ちたような無表情で七瀬はこちらを見ていた。しかしその焦点は私に合っておらず、私を透かしてどこか遠くを凝視しているようだった。
「あの子達のせいで……」
ボソリとこぼれ落ちた七瀬の声のトーンには聞き覚えがあり、私はハッと気がついた。
(これ、もしかして…………キレてるのか……?)
温度が抜け落ちた、絶対零度の声。それは以前、私を馬鹿にした八宮からの誘いを、七瀬が断った時と同じ声だ。
あの時教室の中にいた私は七瀬がどんな顔をしていたのか見えなかったが、もしかしたら、今と同じ表情をしていたのかもしれない。
「……見捨てられないもんね、羊子ちゃんは。あの子達のこと……、あの子達がいるから、羊子ちゃんは……」
「な、七瀬……?」
ブツブツと、何か呟いている七瀬の意識と目の焦点をこちらに引き戻すため、七瀬の目の前で両手をひらひらと振る。
「おーい七瀬ー……」
しばらくひらひらと手を振っていると、突然ピタッと、七瀬の独り言と肩の震えが止まった。
「そっか、そうだよね……」
七瀬はそう呟いた。そして、どこか遠くに焦点が合っていた目は糸のように細くなり、口元は再びにっこりと弧を描いた。
絵に描いたような「頬笑んでいる」顔だ。しかし、感情の読み取れなさについてはαの無表情と甲乙つけがたい。
とにかく七瀬マスターの私から言えることは一つ、「この七瀬は心から笑っているわけではない」。
「うん、分かったよ。羊子ちゃん」
七瀬は目を細めたまま朗らかにそう言った。その声に温度が戻っていることに、私はほっと一つ息をついた。
「ありがとう。ごめんな、七瀬」
「ううん」
七瀬はプルプルと首を横に振った。七瀬のボブ丈の髪がサラサラと揺れる。髪の合間から見えた七瀬の水色の目は、またどこか遠くを見ていた。
「悪いのは羊子ちゃんじゃないもの」
そう言って小さく首を傾げてこちらを向いた七瀬の目は、糸のように細められていた。そして申し訳なさそうに頭を下げた。今度こそ七瀬の表情が完全に見えなくなった。
「ごめんね、今日は帰ってもらえるかな。月曜日に、学校で話すね。羊子ちゃん」
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