だから汐見麻希は優しすぎる

 教室の出入り口に注目が集まる。


 ほこりやしわが一つもない制服に身を包み、癖のない流れるような長い黒髪を持っていて、均整のとれた身体が女性らしさを強調していた。彼女、汐見麻希は教室の前で突っ立っていた。


「汐見……さん?」

 突然の登場に笹塚が驚きで呟き、俺の足は止まる。

 いじめの加害者と被害者が思いがけず一つの場所に集まってしまい、はっきりと形容できない居心地の悪さができてしまった。


 今し方来たばかりの汐見は状況を把握するためか教室を見渡す。そんな彼女に俺はついつい言葉を漏らしてしまう。


「お前、来るの早すぎだろ……」

 彼女の今の立場なら、一秒でも短く学校をやり過ごすことを考えそうなものだ。が、そこは優等生としての矜持があるのか、はたまたいじめを悟られないためか、前と変わらず朝早くに登校している。


 互いに目線を合わせず、言葉を発せず、ただ嫌な空気だけが漂う。運動部の掛け声でさえ聞こえなくなり、沈黙がひしひしとまとわりつく。


 その空気を破ったのは意外にも汐見だった。

「どうして、佐波黒くんが……」

 彼女は遠慮がちながら目を逸らして俺に問う。


 俺が朝早くに学校へ登校しているのがかなり不思議なのだろう。俺だって、予鈴を聞かずに校門を通ったのは何年振りかわからない。明日は多量の雪が降ってきてしまうのかと心配になってしまうくらいには不思議な状況だ。


 汐見の質問にどう答えようかとしばし黙考していると、彼女が笹塚たちのほうを見ていることに気がついた。

 その表情はほのかに気遣わしげなものだった。


「佐波黒くん……一体何をしたの?」

「んあ?」

 その質問に疑問を抱く。何をした? どういう意図で訊いたのかわからなかったが、とりあえず正直に答えることにした。


「まぁ……簡潔に言うなら、いじめを止めた」

「……佐波黒くんが?」


 目を大きくする汐見。しかしすぐに顔を伏せた。


「私のことは、いいから……」


 少し間ができたあと、小さな声が聞こえた。


「私のことは放っておいて」

「は?」


 彼女の言葉に、俺はいささか不愉快になる。


 自分のことは放っておいてだと? いままで散々俺に構ってきたというのにか?


 それに俺は汐見のために行動を起こしたわけじゃない。そうだ、これはただの自己満足でしかない。俺が彼女らのやることが気に食わなかったから……ただ、それだけ。

 たとえこれを機に他へ影響が及んだとしても、それは偶然であり俺の意志ではない。不可抗力だ。


「俺はお前のためにやったわけじゃない。卑怯な奴らを見るのが嫌だっただけだ」

 真意を述べるも、汐見は首を横に振る。

「だとしても……。いいから、止めなくて。……私は報いを受けるべきなの」


 、に耳を疑う。


「確かに……私は、彼女たちに酷いことをされていたわ。けれども、私は皆に迷惑をかけていたの。だから、同じだけ私も報いを受けるべきなのよ。当然の報いなのよ」


 教室は静寂に包まれ、何の音も聞こえなかった。


「彼女たちは被害者なのよ」


 その中で、最後に弱々しく汐見は言った。


 俺の口から溜息が漏れ出ていく。


 コイツは、どうしようもないお人好しだ。口酸っぱく制するお節介の動力は、決して正義感でも自己顕示欲でもなかった。純粋な優しさの裏返しだった。


 優しいからいつも皆のことを考えて皆のために尽力する。そんな利他主義者は、自分自身が悪と気づいてしまったが故に助けを求めなかった。悪だから、相応の罰を受けなければならないと、逃げは許されないと事態をそのままにしていた。


「ごめんなさい……汐見さん」


 震えた声のするほうを見れば、笹塚が大粒の涙を流していた。女子のプライドなんて無くして、歪んだ顔を隠さずに正面から謝罪をした。


「アタシ……汐見さんの気持ち、全然考えないで、酷いこと言っちゃったし……酷いことしちゃった……」


 嗚咽を挟みながらゆっくりと気持ちを伝える。

 それに汐見は戸惑い気味に答える。


「わ、私が……怒らせるようなことしてしまったのが悪いの。笹塚さんは泣かなくていいのよ」

「――そんなことない!」


 遮るように叫び、強く否定する。


「汐見さんは悪くない……。アタシが感情に任せて身勝手なことをしてしまったのが悪い。アタシが汐見さんの忠告に反発したのが悪い……」


 笹塚はそのまま顔を下に向け、目を擦る。


 すると次に、愛島と棚沢が深く頭を下げ、

「汐見さん! ごめんなさい……!」

 二人で謝る。


「愛梨も、ごめん……。私も非はあるのに、全部押し付けるようにして」

 そして棚沢は少し言い淀みつつ謝罪を口にした。


 彼女たちが互いに謝り、互いに宥める中、俺は離れたところから見ていることしかできなかった。


 これで、一件落着なのだろうか。なら、俺がしたことは……


 廊下の奥から楽しげな談笑が響いてくる。そろそろ朝練終わりの生徒たちが教室に入ってくる時間だ。

 俺は依然として空を埋め尽くしている灰色の雲を眺めながら黙って教室から出ていった。

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