だから佐波黒陽介は煩わない。

 贖罪のためなのか、彼女ら三人組は汐見の侍女かと思うほどつきっきりだった。授業合間の休み時間は必ず話しかけていたし、ノートを貸しているところも見た。

 さっきは汐見を教室の外に誘っていた。多分、中庭で昼食を楽しむのだろう。


 そんな彼女たちの行動はクラスメイトたちを困惑させていた。昨日まで忌み嫌っていたアイツらが、好意的に汐見と関わっている姿を誰も説明できない。だが、この話題はタブーなのか、一人も口にすることはなかった。


 俺はというと、なんとなく気分を変えて屋上手前の階段に腰掛けて昼食をとっていた。ここは誰も来ず、良い具合に暗く、喧騒が遠く気にならないベストスポットだ。そんなところで今朝買ったサンドイッチをもしゃもしゃと食べていたが、パン生地が口の中にへばりつき気持ちが悪い。


 それに……早朝の出来事を無意識に思い出してしまい、咀嚼を何度も忘れてしまっている。


 俺は、何をしているのだろうか……。


 得体の知れない虚無感に襲われて脱力してしまった。溜息が出てしまう。

 何か過ちを犯してしまったのだろうか。

 俺のしたことは正しかったのか間違いだったのか。


 ずっとそんなことを考えていたが答えなんて出ない、考えるだけ無駄だと分かっていても思考を放棄することができない。


 正しさなんてものは人によって違うのだから正義はぶつかり合うし戦争が勃発する。そして大衆が正しいと述べればそれが正しくなる。つまり、俺、個人が悩んだって意味はない。

 今回の件は俺が正しいと豪語することはないし、誤ってしまったと落ち込むこともない。なのに、ずっと、考えられずにはいられなかった。








 放課後になればすぐに帰宅する。友達もいない部活もない俺には引き留められる障害がないうえ留まる理由もない。家でゆっくりと一人の時間を満喫するほうが無駄がない。


 相も変わらず軽い鞄を肩に掛けてまさに歩き出そうとしたときだった。汐見が俺の目の前までやってきて進行方向を塞いだ。

 眉をひそめる俺を気にすることなく、彼女は話し始める。


「佐波黒くん……その……」


 よく見ると、彼女の頬が赤くなっていた。胸の前で人差し指を突き合わせていて、肩が丸まっていて、前の自信にあふれていた態度とは大違いだ。


「今日、私……放課後は暇なのよね。だから…………」

 一瞬、呼吸を置いて、

「一緒に帰らないかしら?」

 と上目遣いで言った。


「いや俺自転車通学だから」


 だが丁重にお断りする。俺には今夜で読み終わりたい本があるし、再放送するドラマも見たい。あと最近ハマった洋楽を聞きまくりたい。時間がないんだ。爆速で自転車走らせてすぐに帰宅したいんだ。


「自転車なら押して帰ればいいじゃない」

 拗ねた子供のように逆らった。

「横幅取っちゃって歩行者に迷惑だろ」

 そう言うと、彼女は不機嫌そうに目を細めてふいっと顔を逸らす。

「……なんでこういうときだけ真面目なのよ」

 

 まるで普段は真面目ではないような言い草だ。遅刻はしてないし平均以上の成績は確保しているこの俺のどこが不真面目なのだろうか。


 そんなことよりも、なぜコイツは俺のところまで来たんだ。


「つーか、俺と帰んなくったっていいだろ。……もうお前には、いるだろ」


 目線を彼女らに移す。見れば仲良く三人で笑い合っているところが映る。何の嘲りもない純粋な笑みからは嫌な雰囲気を感じ取ることができない。


 俺と同じ方向を見た汐見は少し微笑んでから口を開いた。


「今日はたまたま皆、部活があるみたいで」


 一緒に帰る相手がいないと……言外に伝えてくる。


 俺が彼女の誘いを断る理由の一つとして、彼女を見ると、今朝のことを思い出してしまうからだ。素早く家に帰って忘れようと思っていたのに。


 まぁ……でも、俺は知っている。彼女は頑固であるということを。

 何度も提出物を催促してくるしつこさの根幹は変わらないはずだ。断っても絶対に明日、明後日と時間さえあればついてきそうだ。なんなら偶然を装って登校時間を合わせてくるかもしれない。


 俺は頭を掻き投げやりに言った。

「しょうがねぇな……」

「…………」

 俺が否定しなかったことが意外だったのか、呆然と立ち尽くす汐見。だが彼女はすぐに笑顔になる。


 こうして俺たちは共に廊下を歩き、共に階段を下りて、共に昇降口を出たのだった。


 朝の曇天はすっかり晴れて、まだオレンジに染まっていない太陽が道を照らすなか俺たちは帰路を歩く。汐見の一歩手前を行き、少しでも早く家に着こうと歩調を早める。

 ホームルーム後、すぐに学校を出たから通学路は人が少ない。おかげで自転車を歩いて押していても邪魔にはならなかった。


 しかし一緒に帰るなんて言い出した汐見から、一向にアクションがこない。時折通り過ぎる車の騒音や、俺が押す自転車の車輪が回る音ぐらいしか耳に入ってこなかった。

 なんで俺なんか誘ったんだコイツは……


 不審な汐見をちらと睨みつけると、目が合ってしまう。すると彼女はすぐに目線を逸らした。

 が、それを発端としておもむろに彼女の口が開いた。


「その……ありがとう」


 突然示した感謝が何に対してなのか、本当に俺へ向けているのか分かりかねる。そのため何の反応もできずに前を向いて歩くことしかできなかった。


 それでも、汐見は続ける。


「私、その……昔、小学一年生のときにね。クラスの女子が男子にいじめられているところを助けてね。それで先生や家族に感謝されたり褒められたりしたから、それ以来、悪い言動を収めてきたの」


 俺は黙って聞いていた。他人の自分語りなんてまるで興味がないが、黙って聞いていた。


「でも……いつしか、周りの人たちに厳しい言い方しかできなくなってしまって……友達がいなくなったことに気がつかず続けて、知らず知らずのうちに皆から嫌われちゃって…………」


 彼女は俺の隣までやってくる。


「結局、悪いのは全部私だったって、笹塚さんや愛島さん、棚沢さんのおかげでよく理解できた。正しさだけで押し切ってはいけないと、教訓になったわ」


 その目はしっかりと前を見据えていた。真面目な彼女のことだ、自分の非は徹底的に反省して改善へと邁進していくだろう。

 そんな彼女に、俺は似合わずも助言を差し上げることにした。


「ま、この世界が間違っているからな。相対的に正しい奴が間違いと見なされる」

 汐見は目を丸くする。

「俺たちは小さいとき、大人たちから『悪いことをするな』『嘘をつくな』って言われてきたが、その大人たちを見てみれば悪事と欺瞞で溢れてるじゃねぇか。まぁ……嘘つきな大人が『噓をつくな』って言ってるから辻褄は合っているんだけどな」


 世界が、社会がルールなのだから、そこから逸脱した者は悪となる。正実も実直もルールから外れてしまえば非難されてしまう。

 まぁ、汐見に関して言えば、正論をフィルター無しに突き付けてくるから反感を買ったんだろうな。


「ふ……うふふっ、あははっ!」

 口を押さえて腹を抱えて、汐見は笑い始めた。

「うわっ……なんだよ急に……気持ち悪いな……」

「ごめんごめん……。なんだか、あなたの言っていることが間違いではないのかなって思うと、私らしくないなって」


 やがて笑いは止み、「あっ」と思い出したかのように声をあげて彼女は俺に向き直る。


「でも現代文の問題形式に対する佐波黒くんの見解は納得がいかないわ。人の考えは千差万別だというのに現代文の解答が一つしかないのはおかしい、というところだけど、そもそも現代文は文章の読解能力を計るために行われるのだから自分の考えを問題に持ち込むことは基本的に御法度なの。佐波黒くんみたいに偏屈な考えに縛られている人には、点が取れない教科と言えるわね。文章の読解および人との会話の内容が理解できないと今後の生活に支障が出てしまうから、高校生の内に現代文で言葉を読み取る力を養いなさい。わかった?」


 すれば、早口で論説される。え、なに? この人……。急にそんな力強く言われても知らねぇよ。というか……


「覚えてたのかよ……」

「覚えてるわよ。だって、あんなにひん曲がった思想で私に反論をしたのは佐波黒くんだけだもの」


 だからといって今反対意見を述べるのは違うと思うんだ。いきなり長い文章を噛みもせずに聞かされると頭に入ってこないし、つーか恐怖で何が何だか分からなかった。


 どういうわけか気付いたときには疲労がのしかかっていた体を丸めて下を向きながら歩いていると、汐見が少しばかり先へ進みくるりと半回転し俺を見据える。


「佐波黒くん」


 顔は真剣みを帯びており、思わず背筋を伸ばしてしまう。


「佐波黒くんは私たちのことを救ってくれた。過程はどうあれ、結果的に私も笹塚さんも、愛島さんも棚沢さんも救われたわ」


 救う、という単語に少々引っかかる。

 汐見はいじめから解放されたこと、三人組は制裁を免れたことを指すのか。俺はどちらも救う気は無かった。たまたま結果がこのような形になっただけで、俺が行ったことではない。 


 さらに、過程、という単語にも引っかかった。


「……三人から聞いたわ。佐波黒くん、脅迫したらしいわね。その内容が、一人を追放して二人を助ける、ということも聞いたわ」


 声が冷たくなる。顔は見れなかったが怒っているのは分かった。


「佐波黒くん。何かを作り上げるのってね、とても大変なことなの。たくさん苦心して、労力を使って、そうやって物事は完成するの。だから――」


 彼女は大きく息を吸って、次の言葉を強調した。


「簡単に壊そうと思わないで」


 真っ直ぐ、彼女の声は穿つように進む。


 昔どこかで聞いた話なのだが、どうやら罪悪感を覚えない人はいないらしい。ネット上で誹謗中傷を行う者にも、狂気的な殺人事件を起こした犯人にも当てはまるのだと。

 自分は正しいことをしていると、相手に罪科を認めさせようと思い行うらしい。


 そのため汐見は必要以上に言動を注意していたし、彼女ら三人組は汐見をいじめた。


 だったら、汐見のレッテルを晴らせば、容易にいじめは止められたのか……。


 否、俺なんかが汐見について言い開いたとしても誰も聞く耳を持たない。俺には最初からあの方法しかとれなかったんだ。


 だから後悔して悩んだってしょうがない。過去に戻れたとしても、結末は良い方向に傾きはしない。

 これが最善の策だったんだ。

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