第48話

 氷岬には渚の家で晩御飯を食べてくるから今日はいらないと伝えてある。

 俺が自宅に帰ってきたのは20時ぐらいだった。


「ただいま」

「おかえりなさい。遅かったわね」

「渚の家で晩飯ご馳走になってたからな。そう言ったろ」

「それでもあんまり遅いと心配するわ」


 氷岬が不安そうに言う。この家に一人で取り残されることに不安を感じているのか。トラウマってのはどうしようもないからな。


「わかったよ。今度からはなるべく早めに帰るようにするから」


 そう言って俺は風呂に入る。今日はプールで遊んで疲れた。よく眠れそうだ。

 俺はいい気分になり風呂から上がる。その時、唐突に電話が鳴った。


「はい、もしもし藤本です」

「藤本さんのお宅ですか」

「はいそうですが」

「こちら警察の者なんですが、そちらに氷岬雪姫さんはおられますか」


 警察が氷岬になんの用だ。というかどうしてこの家に氷岬がいることがバレた。俺は内心焦りながら、答える。


「はい、いますけど」

「ちょっと雪姫さんに代わってもらっていいですか」


 そう言われては代わらないわけにはいかない。俺は氷岬を呼ぶと受話器を渡して言う。


「警察の人からだ」

「警察?」


 氷岬は怪訝な表情を浮かべながら受話器を取った。


「はい、もしもし……はい……そうですが」


 氷岬が電話をしている間、俺はその場から離れずその様子を見守っていた。

 やがて、氷岬が不意に受話器を落とした。


「……嘘」


 俺は慌てて受話器を取ると、氷岬に手渡そうとするが、氷岬は放心状態でとても電話に出られる状態じゃない。

 俺は代わりに電話に出ると警察に事情を説明した。


「というわけで、代わりに要件を伺います」

「そうですか。今、雪姫さんご本人にもお伝えしたのですが、雪姫さんのご両親と思われる方が事故に遭われ、死亡しました」

「嘘だろ……」


 警察から告げられた衝撃の言葉に、俺は固まる。死んだ? あの父親が?


「つきましては、ご遺体の確認に来ていただきたいのですが、場所をお伝えしても可能でしょうか」


 氷岬を見る。相変わらず放心状態で話を受け付けそうにない。俺がしっかりしなくては。


「はい、お願いします」

「では場所をお伝えします。場所は――」


 警察からご遺体が預けられている病院を教えてもらう。俺はそれをメモ用紙に走り書きでメモを取りながら、氷岬の様子を見る。

 受け入れがたい現実に直面したような、そんな表情をしていた。氷岬にとって親は自分を捨てた許せない存在だったはずだ。だが、もう一度やり直したいと訪れた父親に対しては、少し気を許していたように思う。その親が死んだ。いくら嫌っていても親は親だ。受け入れがたいものがあるのだろう。


「氷岬、準備しろ。今からタクシーで向かうぞ」

「う、うん。どうしよう、拓海くん……私」


 氷岬が震える手で俺の手を取る。俺はその手を優しく包み込み、彼女の背中を抱いた。


「大丈夫だ氷岬、俺が付いてる。俺はどこにもいかない」

「うん……うん」


 氷岬を落ち着けるには少しでも安心させてやることだ。


「さあ、行くぞ」


 辛いだろうが、立ち止まるわけにはいかない。俺は氷岬を促し、電話でタクシーを呼ぶ。

 15分ほどでタクシーがやってきた。俺たちはタクシーに乗り込み、病院に向けて出発した。

 病院に付くと、受付で事情を伝え、遺体の場所まで案内してもらう。


「拓海くん、一緒に付いてきて」


 氷岬は震える手で俺の手を握り、引いてくる。

 俺は頷き、氷岬について部屋に入る。

 遺体は2つ並べられており、白い布が掛けられている。


「それでは確認します」


 氷岬が震える手で白い布を取る。そこには氷岬の父親の亡骸があった。泣き崩れる氷岬の肩を抱きながら、俺はもう1つの遺体の確認を促す。

 白い布を取った氷岬はじっと女性の顔を見つめると、小さく溜め息を吐いた。女性は氷岬に似て美人な顔立ちをしていた。眠り姫のように安らかに眠っている。


「間違いありません。父と母です」


 遺体の確認を終えた俺たちは外に出る。これから遺体の引き取りの手続きをしなくてはならない。

 だが、恐らく葬式を上げることはできないだろう。氷岬の両親がそんな財産を残しているとも思えないし、氷岬には金がない。火葬の費用ぐらいはうちの生活費からとりあえず出しておけばいいだろう。


「ごめんね、また迷惑かけちゃって」


 全ての手続きを終え、病院の外に出た俺たちは蒸し暑い夜空の下を歩く。帰りは歩いて帰りたいと氷岬が言うので、俺はそれに付き合う形になった。


「こんなの誰も予期しないことだろ。無理するな。遠慮せず頼ってくれ」

「ありがとう。きっと罰が当たったのね。娘を捨てて夜逃げなんてしたから」


 夜空を見上げながら、氷岬は涙を流す。


「私もね、こんなに悲しいだなんて思わなかった。私を捨てた人なんてどうにでもなってしまえって思ってた。それがいけなかったのかしら」

「お前のせいじゃないだろ。警察の人も言ってただろ。加害者の飲酒運転が原因だって」

「だけど、私の願いを神様が聞いてくれたのかもしれないじゃない」

「そうやって自分を責めるのはやめろ。お前が傷つくのを親父さんも望んでいないだろ」

「うん。ごめんなさい」


 氷岬は顔を伏せながら、謝罪する。すっかり憔悴しきっている。こんな氷岬は見ていられない。

 俺たちは歩く。夜空の下を。家に帰るまで1時間かかった。その間、俺と氷岬の間に交わされた会話はなかった。

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