第9話

「それで、話ってなんだよ」

「ええ、実はあなたにお願いがあって」


 氷岬は俺の瞳を真っすぐ見つめたまま、話を続ける。


「なんだかね、私に言い寄ってくる人がいて。その人を退ける為に恋人として一言言ってほしいのよ」


 氷岬のお願いは非常に面倒なことだった。氷岬に言い寄っている男とやらがいて、そいつを撃退したいから俺に恋人として文句を言わせようという腹積もりのようだ。どうして俺がそこまでしなくちゃならないんだ。

 それに、これはチャンスじゃないか。氷岬に本当の恋人ができたら、俺は学校でもう恋人の振りをしなくて済むし、汐見に告白できるチャンスが生まれるってことで。


「よしわかった。俺がそいつに一言言ってやればいいんだな」

「ええ、お願いするわ。明日の放課後呼び出されているから、そこにあなたも一緒についてきて」


 どんな一言を言うのかは、明日になってからのお楽しみだ。

 翌日。学校に登校した俺たちは教室に入るなりクラス中から奇異な視線を向けられる。あちこちからひそひそ話が漏れ聞こえてきており、その内容が「どうして藤本なんかと」とか「俺のアイドルが」なんていうやっかみの声だった。中には「二股野郎」なんていう憎悪の声も飛んできたが身に覚えがないので聞かなかったことにする。

 胃が痛い。今まで周囲から注目されることなんてなかったから、こうして注目されると胃がキリキリする。

 俺が席に着くと、氷岬が俺の席まで歩いてきた。そして空席の汐見の席に腰掛けると、俺に向けて微笑んでいる。


「おはよう、拓海くん。相変わらず今日もかっこいいわね」

「おはよう、氷岬。お前もいつにも増して可愛いよ」


 わかっている。これは恋人の振り。だけど、こうして実際に体験してみたらわかる。人前で恋人らしいやり取りをするのはかなり恥ずかしいものがあると。それも歯の浮くようなこんなセリフの応酬は、頭の沸いたバカップルしかできないものだ。

 氷岬はどこか楽しんでいる様子で口許に手を添えて薄く微笑んでいるが、俺は緊張で呂律が上手く回らない。もしかしたら氷岬は俺のそんな様子を見て楽しんでいるのかもしれないな。


「あら、嬉しいこと言ってくれるわね。だったらどこが魅力的か私に教えて」


 こうして無理難題を吹っ掛けてくるのも、俺をからかっているからなのだろう。だが、この程度でへこたれる俺ではない。やけくそになればなんだって口にできる。


「まずその笑顔を見ているだけで癒される。朝の太陽にも負けない神々しさだ。それからやっぱり夏服姿がよく似合っている。健康的で魅惑的なその肉体は俺の視線を釘付けにして離さない」


 勢いよくまくし立てた所為でクラスの女子からは少し引かれてしまったかもしれない。氷岬は俺が辱めを受ける様をじっくりと堪能した様子で、満足気に頷いた。


「ありがとう。大好きな彼にそんな風に想われて私は幸せよ」

「俺もだよ、氷岬」


 俺の笑顔は引きつっていたことだろう。


 放課後になり、約束通り俺は教室に残る。氷岬が立ち上がり、俺に付いてくるように目で合図する。俺は頷き、氷岬の後に付いていく。

 場所は体育館裏。なんてベタな。


「それでお前を呼び出したやつってどんな奴なんだ」

「さあ、少なくとも私がまったく興味がない人物よ」

「酷い言い草だな。相手が理想の相手だとしたらどうするんだ。そのまま断っていいのか」

「私の理想の相手は拓海くん、あなたよ。あなた以上の人物が現れることなんてありえないわ」

「わからねえじゃねえかそんなの」


 そう言うと氷岬は大きく溜め息を吐いた。


「いい? 私はあなたに拾われた時点から、あなたに興味しかない。あなたの横に並ぶことしか興味がないの」


 俺は肩を竦める。わかってはいたが厄介な存在を拾ってしまったようだ。こいつの俺への想いってのが本当に本物なら、俺はいずれこいつの想いを拒絶することになる。


「来たわ」


 体育館裏にやってきたのはネクタイの色を見る限り俺たちと同じ3年生のようだ。茶髪でいかにも軽薄そうな男子だが、人を見た目で判断するのは早計だろう。そう思い、俺は状況を見守る。


「誰、そいつ」


 男子が真っ先に俺を見て噛みついてきた。


「私の恋人よ。藤本拓海くんっていうの」


 紹介されたので頭は下げておく。途端に男子の機嫌がみるからに悪くなった。


「ねえ、そんなやつより俺に乗り換えなよ。俺の方が氷岬さんのこと幸せにできると思うぜ」


 男子は俺の存在を無視して氷岬の手を掴み強引に話し掛ける。確か氷岬のご要望は俺から一言文句を言ってやれってことだったな。


「そいつのこともらってやってくれ」これでもいいわけだ。氷岬を裏切ることにはなるがこれ以上、氷岬の想いに答えられない俺が関わるのもよくないだろうし。新しい恋人ができるのならそれにこしたことはない。だが……


「おい、離せよ」


 俺は男子の手を掴み、氷岬から引きはがしていた。


「なにすんだコラ」


 男子は額に青筋を浮かべながら俺を睨んでくる。相手の上背は俺よりもあり、がっちりとした体形だ。何か運動でもしているのだろう。威圧してくる相手を睨み返していると、男子が俺の胸倉を掴み、壁際まで押し込んでくる。壁に打ち付けられた俺は痛みで顔をしかめた。


「ほら、こいつなんてこの程度なんだよ。大事な女も守れない、そんな雑魚のくせにでしゃばってんじゃねえ!」


 口角泡を飛ばしながら、凄む男子に無抵抗で睨み返す。


「拓海くん!」


 氷岬が焦ったようにうろたえる。まさか暴力沙汰になるとは思っていなかったのだろう。こうなってしまっては女子の氷岬にできることは少ないだろう。

せいぜい悲鳴を上げて助けを求めることしかできない。


「ちょっと、拓海くんを離しなさいよ」


 氷岬が男子の背中に飛び付いて引きはがそうとするが、びくともしない。男子はその感触すらも楽しむように口の端を吊り上げた。


「氷岬、俺と付き合え。こんな軟弱な男さっさと捨てちまえよ」

「嫌よ。その人は私の大事な人なの。あなたみたいな下種と違ってね」

「ああん? ふざけやがって。調子に乗るなこのビッチが」

「いたっ」


 自分の想いが通じないとわかった途端、男子は氷岬に牙を剥いた。氷岬を突き飛ばし、氷岬は尻もちを付いた。

 苦痛に顔を歪める氷岬を見て、俺の中の何かが切れる音がした。


「……お前、絶対に許さねえ」

「ああん?」

「許さねえって言ってんだよ」

「うぐっ」


 俺は膝蹴りをかますと、男子の腕を掴んだ。その腕を締め上げて捻ると、男子が苦痛に顔を歪めていく。


「い、いでででででで」

「氷岬に詫びろ」


 俺は怒りの表情のまま、手を捻る。男子は信じられないという表情で俺を見てくる。無理もない。俺は男子よりは小柄だし、信じられないのもわかる。氷岬も驚いたような顔で呆気に取られている。

 だが、俺はこれでも喧嘩慣れしている。中学の頃は喧嘩ばかりしていてよく停学になっていたものだ。高校に入って、俺は自分を戒めることを決めた。喧嘩をするたびに親を学校に呼び出されるのは面倒だということに気付いたからだ。


「謝るのか、謝らないのか」

「あ、謝る。謝るから手を離してくれ」


 男子の懇願を聞き届け、俺は手を離す。だが、その瞬間、男子の口の端が吊り上がるのが見えた。


「そんなわけねえだろバーカ!」

「馬鹿はお前だ」


 殴り掛かってくる男子の拳を躱し、その左頬に右ストレートを見舞う。


「ぐふっ」


 男子は小さく呻いてその場に蹲った。


「やってしまった」


 俺は自分の拳を見つめ、殴ってしまったことを悔いてがっくりと肩を落とした。

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