第10話

「すみませんでした」


 教師に頭を下げる親父の後ろ姿を見ながら、俺はまたやっちまったと唇を噛む。高校に入ったら、親父に迷惑掛けないようにするって決めていたのに。一時の感情を抑えられなかった。

 俺は一週間の停学を言い渡された。喧嘩両成敗というやつだ。正当防衛だということは考慮されての一週間、相手の男子生徒は二週間の停学処分になった。

 説教を終えて生徒指導室を後にした俺と親父は、真っすぐに帰路につく。親父が学校に呼び出されるのもこれで何度目だろうか。


「悪かったな、また迷惑かけて」

「話は聞いたよ。雪姫ちゃんを守ったんだって」


 一応状況説明はさせられたので、親父は何が起こったのか経緯を知っている。本当は俺がついていかなければ良かったんじゃないかとか、男ならぐっと堪えるべきだったとかいう後悔の念が押し寄せてきているが、全ては後の祭りだ。


「ああ、氷岬を突き飛ばしたから、ついカッとなって」

「だったらかっこいいじゃねえか。男が女を守ったんだ。めそめそするな。堂々としていろ」


 親父の背中が頼もしく思えた。普段はろくなことを言わないし、家にもほとんどいないが、こういう時の親父は本当に父親らしい威厳を持っていると感じる。

 家に帰ると、氷岬が俺たちを出迎えた。


「どうだった」

「一週間の停学だってさ」

「そんな、悪いのは拓海くんじゃないのに」

「どんな理由があれ、俺はあいつを殴った。その罰は受けなきゃいけないってことだ」


 悲し気に目を伏せる氷岬の肩を俺はぽんっと叩いた。


「別にお前の所為だなんて思っていないから、気にする必要ねえぞ」

「こんな時まで人の心配なのね。あなたって本当に優しい人」


 氷岬が微笑んだのを見て俺は満足し、リビングへと足を運ぶ。テーブルの上には既に夕食の準備が整えられており、美味しそうな匂いが鼻をくすぐってくる。


「嫌なことは美味いもん食って忘れるとしよう」


 そうして俺は氷岬の作った夕食を何杯もおかわりしたのだった。




 夜、俺がそろそろ寝ようかとベッドに入り掛けた頃、部屋をノックする音が響いた。ドアを開けると、パジャマ姿の氷岬が立っていた。


「こんばんは、拓海くん。とりあえず、部屋に入れてくれるかしら」


 無下に追い返すこともできず、俺は了承し氷岬を部屋に招き入れる。今晩は親父が家に泊まっていくらしいから、またこの部屋で寝させることになるのだろう。何も言われなかったからそのままスルーしようと思っていたのだが、そうは問屋が下ろさないらしい。


「寝る前にちょっとお話しましょう」


 氷岬はベッドに腰掛けると隣をぽんぽんと叩く。隣に座れということだろう。俺は指示通り氷岬の隣に座ると、深く息を吐く。何度やってもこの距離感には慣れそうにない。


「拓海くんって喧嘩強かったのね」

「まあな。中学の頃は喧嘩っ早いからみんな俺を避けてた。面倒なことが嫌いだから、話が通じない奴には拳で黙らせてたんだが、気付いちまったんだ。喧嘩するほうが後々面倒なことになるって」

「でしょうね。有名になればそれだけ悪い人たちにも目を付けられるでしょうし、今日みたいに親を学校に呼び出されたりなんかするし」

「日常茶飯事だったなあ、そんなこと。要するに馬鹿だったんだよ、俺は」


 懐かしむように昔を語っていると氷岬が俺の手を握ってきた。ひんやりとした感触と脈拍を感じながら、俺は息を呑む。


「……漫画みたいね」

「どこが漫画みたいだって」

「そんな喧嘩に明け暮れていた不良少年が、実は捨て猫を愛でる優しい一面を持っていたところとか」


 そう言うと氷岬は手を丸めると猫の真似をして「にゃー」と鳴いた。


「とんでもなく大きな捨て猫だったがな」

「それでもあなたは拾ってくれた」


 氷岬がしなだれかかってくる。シャンプーの甘い香りが鼻をくすぐり、俺の理性を破壊してくる。


「あなたがしたいと思ったら、私はいつでもかまわないからね」


 そう囁いてくる氷岬の誘惑に、俺は必死の思いで耐えた。ここで手を出したら色々負けた気がする。


「馬鹿言ってるんじゃねえよ」


 そう言って、氷岬の頭を撫でる。手に氷岬の銀髪の感触が伝わってきて、不思議な感覚に陥る。こうして触りたいという欲求は抑えられずに実際に触れてしまっていてどの口が言うのかと思うが、これでも俺は耐えている。

 氷岬のような美少女に迫られて、なんともない男なんてそれはもう男じゃない。


「明日からは私も学校を休むわ」

「は? 何馬鹿なこと言ってるんだ。そんなことしたら疑われるだろ」

「別にあなたの恋人なんだから一緒に休んだって誰も不思議がらないわ。元はと言えば、私が招いた事態だもの。あなたを退屈なんてさせないわ」


 氷岬はまったく引く気配を見せない。意外に頑固な一面がある。


「まあ、お前の成績が落ちるだけだから俺はなんとも言えんが、俺に付き合ったところで退屈するだけだぞ」

「かまわないわ」


 そう言うと、氷岬はベッドに潜り込んだ。こうして同じベッドで眠っている時点で既に色々手遅れな気もするが、最後の一線さえ越えなければ大丈夫だろう。俺は氷岬に触れないように注意しながらベッドに横になった。

 互いに背を向け合って眠る。それからは互いに無言で、気が付けば俺は自然と寝息を立てていた。

 翌日、学校に行かなくていいので朝は寝坊した。隣を見ると、既に氷岬の姿はなく、起きているらしい。


「おはよう、氷岬」

「おはよう、拓海くん」


 リビングに顔を出すと、氷岬はソファに座ってテレビを見ていた。どうやら本当に学校を休んだらしい。俺は欠伸をしながらラップがされた朝食をレンジで温めると、一人食事を始めた。

 すると氷岬が俺の正面に座り、頬杖を付きながら俺の食事の風景を見守っている。


「なんだよ」

「ううん、なんでも。ただこうして私が作った食事を食べてくれる人がいるって幸せだなあって思ってね」


 氷岬は薄く微笑むと、遠い目をした。


「お前の両親ってどんな人だったんだ」

「ろくでもない人よ。私に一切興味がない人ね。家のお金を使って暇さえあればパチンコや競輪に出掛けるような人たち。だから私の作った食事も私一人で食べていたわ。だからこれが美味しいのかどうか、私には判断ができなかった。食べてくれる人がいなかったから、私の味覚を信用するしかない」


 淡々と語る氷岬の言葉には何の感情もこもっていないようで、その実何か思うところがありそうな、そんな語らいだった。

 だから俺は正直な自分の感想を伝えることにした。


「美味いよ。お前の作る飯。正直めっちゃ感謝してる。毎日こんな美味い飯が食える幸せってやつを噛みしめてるよ。お前を拾って良かった。これからも遠慮なんてしなくていい。ここがお前の家だ」


 少し恥ずかしい気もしたが、それが、俺が感じている偽らざる本心だ。氷岬には家がない。だから帰る家がないって思ってほしくない。この家が氷岬にとって帰るべき家になれるように、俺は全力を尽くすだけだ。


「ありがとう、拓海くん。私もあなたに拾ってもらってよかったわ。それでね、提案なんだけど」


 そう言うと、氷岬はなにやら用紙を取り出した。


「この婚姻届けにサインしてくれないかしら。お父さんと一緒に」


 そこには婚姻届けが用意されていた。そして不思議なことに氷岬のサインがあり、親のサインも書いてあった。


「言ったでしょ、私の親は私に興味がないって。私が結婚したいって嘘ついたらこうしてあっさりと婚姻届けにサインしてプレゼントしてくれたわ」


 信じられないが目の前で起こっている以上、信じるほかない。つまり俺と親父さえ同意してしまえば、氷岬はいつでも結婚できるということだ。氷岬は本気だ。


「そういうのは好きなやつとするもんだろ」

「私の好きな人は拓海くん、あなたよ。だから結婚しましょう」


 こんな適当なプロポーズ、世界中探したって存在しないだろう。俺は溜め息を吐きながら、婚姻届けを突き返した。

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